◆鎌倉街道
鎌倉街道は「いざ鎌倉」で幕府の御家人が鎌倉へ参集するための道というのが一般的で、学校の歴史の授業でもそんなふうに習ったような気がする。でも”いざ鎌倉専用道”というわけじゃなく、きっと普段から街道として人や物資がいろいろ行き交ったに違いない。
そもそも鎌倉街道という呼び名も江戸時代以降になって使われ出したらしい。それ以前は何と呼んでいたのか、記録も残っていないのか? でもここでは便宜的に「鎌倉街道」で統一しちゃう。
鎌倉時代になって鎌倉とおもに東国(東日本)の各地域を結ぶ道が次々に造られ整備された、これが鎌倉街道の最初。だけど当時新しくつくられた道路に加えて、それより以前から存在した道に新しい道をつなげたり、なんか勝手にそのへんの道路を街道に格上げしちゃったりということもあったらしく、実質的に鎌倉街道を名乗る道は無数にある、いまでも。街道の途中はあみだくじのはしごみたいな状態。(ゴールは鎌倉一点だけどね)
時代が下るにつれて新たなバイパスができたり、災害などで廃道になったりということもあったし、現代になってから研究者の解釈で追加、変化した道路(や経路)もあり得ると思う。
・どこを歩くか決める
鎌倉近郊での主要な街道は、上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)と呼ばれる3つに、東海道に沿う京鎌倉往還などと言われることもある。これも意見は様々で、はっきり決めることはできないけど、まずマスタープランがないと先へ進めないので自分のような歴史ド素人はこの案に従う。
現代に鎌倉街道跡をたどる人は、多く上道、中道、下道の3つの道を行くのが普通なようなので、これを歩くことにした。
でもそれに従ったところで当時の村や集落レベルでの細かい道筋までは追って行けないことはすぐにわかった。なにせ古い時代にできた道なので現代では断片的にしか道路が残っていない、正確な道筋ははっきりしないところも多い。しかも経路はあみだくじ状であれもこれもだ。
さてどうするかとネットで下調べをしてみると、鎌倉街道跡を歩いたり、道筋を調べるなどしてそれをネット上に記録している人は結構存在していて、案外みんな同じような道筋を示していることがわかった。研究者が実地に調査などをして文献類に記したコースをだいたい参考にしているらしい。そんなものか、というかそれに乗っかっちゃうのが安直でいいかなと。
ネットのマップに落とされていたいくつかのコースを大いに参考にさせてもらうことにし、ある程度の食い違いは適当にそれっぽいものを選択してマイ・コース案はできた。
前振り終わり。
◆上道1回目
鎌倉街道、最初は上道(かみつみち)から歩く。今回はその1回目。
上道その1行程
上道は鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る道である。その先信濃、越後方面へも伸びていたとのこと。
「いざ鎌倉」となるときは鎌倉へ向かって進んで行くはずだけど、こちらは鎌倉から歩きはじめる。鎌倉往還とも言われるごとく行きがあれば帰りがあるのだから。
スタート地点は上道、中道、下道とも鶴岡八幡宮三の鳥居前と決めた。ここから上中下道3方向へ分かれる想定。
歩き始めは現代ならまず鎌倉駅がアプローチになる。ここから若宮大路の段葛を通って三の鳥居へ向かう。
朝の鎌倉駅前
二の鳥居から段葛へ
時刻は7:30頃、駅前には人がたくさんいたけど段葛にはまだ観光客もいない、ここで向こうまで見通せたのははじめてかもしれない。
スタート地点に決めた鶴岡八幡宮三の鳥居前に到着
上道は鳥居をくぐらず、横大路を左方向へ。
鎌倉市川喜多映画記念館手前
寿福寺手前で横須賀線線路に突き当たり、そのまま線路に沿って北鎌倉方向へ行く。
海蔵寺岩船地蔵堂
ここで線路のガードをくぐって化粧坂(けわいざか)を目指す。化粧坂へは観光案内の標識があちこちにある。
化粧坂の途中から
化粧坂の解説板
坂を上がったところにあった。坂の上は源氏山。源氏山公園の歩道を葛原岡神社の方へすすむ。
あれ、この看板「仮」粧坂だ。調べたら「化」も「仮」もどっちもありみたい。
葛原岡神社鳥居
鳥居の手前を神社の脇へ行く道があるのでそこへはいる。細い寂しい道だけどすぐに住宅地の中へ出る。
鎌倉市梶原の住宅地は丘の斜面に造成されている。その斜面を下りないように尾根筋に近いところを進む。
山の上ロータリーというところ(鎌倉市梶原2丁目、3丁目境界)
山の上通りから来て西の坂方面へすすむ。住宅地の西の端まできて坂を下りていくと駒形神社がある。
治承年間(1177~1181年)の創建と伝えられているが、詳細は不明だそうだ。
すぐ近くに大慶寺という寺院があり、そちらの創建は弘安年間(1278~1287年)とのこと。この付近「寺分(てらぶん)」という地名だが、「大慶寺の寺域」に由来するもので、この寺院が付近に広大な寺域を持っていたことを示すものとのこと。(大慶寺の写真を撮っていなかった)
その先で湘南モノレールの下を通過する。
赤信号の側へ出て、しばらく歩いて行くと柏尾川にぶつかる。
川の両岸は平らな地形が広がっているが、かつてはずっと湿地帯だったらしい。川の氾濫などでたびたび街道も道筋を変えたと考えられ、どのあたりを通っていたかを確認できない場所である。
今回は町屋橋で柏尾川を越える。
町屋橋から柏尾川上流方向
その先もしばらく街道跡は不明瞭
川を渡ると鎌倉市から藤沢市にはいり、東海道線線路と向こうは武田薬品研究所。研究所のなかを街道が通っていたとも言われている。写っている道路は街道とはなんの関係もない。
広大な研究所敷地を迂回して裏手へ。
その研究所裏手は小高い丘になっていて地名は村岡。坂道を上がり、村岡城址(平安時代に桓武平氏一族の平良文(村岡五郎)により築城といわれる)付近を通る。一帯は村岡氏の荘園だったそうだ。
村岡から渡内へ。
渡内日枝神社
平良文氏による創建ともいわれている。神社の祭神は現在大山咋命(おおやまくいのみこと)とともに平良文となっている。
神社脇から渡内交差点で県道に合流して西の柄沢(からさわ)方面へ向かう。途中近くを通る慈眼寺という寺院の創建は天文年間(1532~1555年)頃とのことで、鎌倉時代以降。
柄沢に入ると県道は下り坂になるが、鎌倉街道旧道は坂を下りず、途中で北の方向へ折れていたらしい。その道筋は消滅しているようなので、参考にさせてもらったマップに従い適当なところでその方向へ曲がる。
曲がると隆昌院、柄沢神社などがある。
柄沢神社前
1193(建久4)年に源頼朝が参拝したと伝えられているこの神社は周辺の宅地造成で、最近になってこちらへ再建されたそうだ。鳥居の左手前側にも石像、石碑などが置かれている。ただし江戸時代以降のもの(昔のものは風化してしまうから)らしい。
さらに進んで小さな谷へ、ここで滝川を渡り対岸の大鋸(だいぎり)へ。
台地へ上がると旧東海道と鉄砲宿交差点で交差する。ちょうど藤沢市と横浜市戸塚区の境界あたりとなる。
鉄砲宿交差点
向こう側の広い道路が旧東海道で、手前側は並行して桜並木の歩道が設けられている(写真を撮っているあたり)。右手前側から出てきているのが鎌倉街道だけど、ここは十字路ではなくT字路。
(話逸れるがここで雨が強くなってしばらく雨宿り。)
鉄砲宿とは東海道戸塚宿と藤沢宿の間にあった、正式の宿場ではなく規模の小さなサブの宿(間の宿:あいのしゅく)。江戸時代の東海道整備以前にどうなっていたのかは不明。
鎌倉街道は東海道をクロスして戸塚区の俣野という地域に向かう。
東海道近くの辻にあった石仏など
坂を下りてまた低地に出る。この先は基本的に境川左岸に沿って、つかず離れずでずっと進むことになる。道は川沿いの田畑から一段高いところを通している、という傾向がある。
途中道路わきに”ぼっち鳥居”があり、その近くに街道の解説板と石碑2つがあった。先にある八坂神社の鳥居。
石碑と解説板
解説には「鎌倉街道西の道」(西の道は上道と同じ)とあり、1333(元弘3)年の新田義貞の軍勢による鎌倉幕府討伐の件が書かれている。
ぼっち鳥居の延長線上にはちゃんと八坂神社があった
道路の拡幅で鳥居の先を道路にしてしまったらしい。拡幅したわりにはせまい道路で、車の通行も頻繁にあって歩くにはとても危ない。
八坂神社の前にも古い石仏が3つほど。
境川支流の宇田川を渡るとその先で県道にぶつかる。右へ行くと以前存在した遊園地「ドリームランド前」交差点というのがまだ残っている。そちらの方へも街道の支道があったらしいけど今回は左折。
俣野観音堂
ここで県道から分かれ、右側の道へ入る。
俣野神社を(少し離れていたので気づかず)通過し、その先のY字路には
庚申塔
上の真ん中は昭和のもの、とか見ていたら台座の下にも「庚申」やいろいろな文字がある。コンクリートに埋め込まれてるように見えるものがあるんですがよろしいんでしょうか。
少し先でまた道が二又に分かれている
参考にしたマップでは左へ行って境川遊水地公園に出ることになっているが、個人的には右側の斜面脇の道のほうが、ここまでたどってきた古道の風景に連続するように思った。(感覚的なものでうまく表現できないのだけど、右側が古道の続きという気がした。)
けれど左へ行き公園の脇を通って和泉川へ。
前もって見ていた何かの記述で「鎌倉街道は和泉川を鍋屋橋で渡る」があったので、鍋屋橋まで川沿いに歩く。
鍋屋橋
先ほどの斜面脇の道を通ってもここへ出てくることができる。
鍋屋橋から下飯田の交差点に出て渡る。このあたりは横浜市泉区。下飯田交差点の先に琴平神社、東泉寺という神社と寺院があった。
東泉寺の入口から
東泉寺の開創はわかっていない。元々境川近くにあったが何回も水害にあって流されたため、1590年頃街道沿いに移されたとのこと。
もう少し先へ進むと相鉄いずみ野線と横浜市営地下鉄の高架の下をくぐる。その手前に富士塚城址(源頼朝の御家人だった飯田家義のやかたがあったところ)がある。
さらに行くと脇へそれる道がある。
旧道の名残り?
そこをたどると左馬神社の前へ出る。
このあたりには表記は様々だけど、「サバ」神社が何か所かある(なかには鯖神社も)。すべて祭神は源義朝か源満仲だそうで、これも鎌倉つながり、という感じはある。
さらに旧道のようなところを行くと
美濃口家住宅、江戸時代の下飯田村の名主だった家だそうだ。家の前に「横浜市地域有形文化財・美濃口春鴻関係資料一括二十三件(非公開)」という解説つきの看板が立っていた。美濃口春鴻は江戸時代中期の俳人でここが生家。
また大通りに復帰すると
立派な長屋門
この家も昔からの有力な農家だと思われる。中には手入れされた前庭が垣間見えた。
もうしばらく行くと長後街道(昔の戸塚大山道)の上飯田団地入口交差点に達する。
もう少し先まで行きたいけど、この先歩く距離のバランスを考えて本日はここまでとした。相鉄いずみ野線のいずみ中央駅へ交差点から10分くらいかな。
次回はここをスタートして町田まで行く予定。