散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

鎌倉街道を歩く 上道その4 乞田から国分寺

鎌倉街道上道(かみつみち)、その4は、原町田から国分寺まで歩いた日の後半部分。現在の多摩市乞田(こった)から国分寺、正確には現在の西国分寺までとなる。

ノートとしては前回こちらの続き。

上道その3、その4 行程

行程地図はその3と同じものの使いまわし。行程の途中にある黄色いマーカーがその4の始点。

とりあえず、その4は乞田川の何気ない場所から、はじめ。

永山小橋から乞田川下流方向(多摩市永山、乞田境界)

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古い鎌倉街道はこのあたり、大橋(永山小橋の2つ上流の橋)を渡って乞田交差点から多摩市役所前を通っていたと推定されているが、いまは車も通る現代のごく普通の道路に変わっていて、見ておくものもなさそうなので忠実にトレースしなかった。

こちらは永山橋交差点で現在の鎌倉街道都道18号)に出てから、その1本隣りの、新旧の鎌倉街道の間の道をしばらく行き、突き当たったところで旧鎌倉街道の道筋へ出た。

鎌倉街道に復帰したところに熊野神社

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1213(建暦3)年、神社前には木柵の関「霞ノ関南木戸柵」が設けられた、とあって、ここには鎌倉幕府による街道の「関所」があった。神社内の参道から乞田川にかけて長い柵跡が発見されているとのこと。
その関係で現在もこの付近から多摩川にかけての地名は「関戸」。

熊野神社から数百メートル行くとお地蔵様の祠があって、その前に「関戸古戦場跡」の標柱がある。

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関戸の戦い
1333年(元弘3年)5月16日、新田義貞鎌倉幕府倒幕の際に分倍河原の戦い勝利し、同日に多摩川を越えた。
一方、分倍河原から退いた北条泰家鎌倉幕府第14代執権・北条高時の弟)は鎌倉幕府の関所である霞ノ関一帯で防衛戦を行った。この戦いでは新田軍側が勝利を収め、北条泰家は家臣の横溝八郎や安保入道父子の奮戦によって一命を取り止め鎌倉に逃走したが、横溝八郎、安保入道父子は関戸で討死をしている。
翌17日、関戸に一日逗留して体勢を立て直した義貞は鎌倉へ攻撃を開始した。この関戸の戦いから6日後の1333年5月22日、鎌倉幕府は滅亡した。
Wikipedia 「関戸の戦い」から抜粋

もう少しで多摩川、関戸橋というところ。その前に大栗川を渡る。
大栗橋手前で

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先が旧道の大栗橋、右側バスが通っているのが現鎌倉街道都道18号)の新大栗橋。

大栗橋から大栗川上流側

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前方は聖蹟桜ヶ丘

大栗橋の先で現在の鎌倉街道に合流し、多摩川へ。今は関戸橋、かつては関戸の渡しで川を渡る。
関戸橋から下流側を望む

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向こうは多摩丘陵の段丘。

関戸橋を渡ると府中市鎌倉街道都道18号)をそのまま京王線中河原駅前まで歩くと、旧道が復活。鎌倉街道商店会の街路灯のある道へ入る。
新旧道分岐付近に法音寺

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旧道を進むと分梅町。用水路の緑地のなかに分倍河原古戦場碑があった。
分倍河原古戦場碑とその解説

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古戦場跡の碑からすぐに中央自動車道の高架をくぐり、「分梅」の由来の碑がある分梅駐在所交差点を通る。
分梅の由来碑を超要約すれば、分梅の名の起こりははっきりしないということで静かに先へすすむ。

この交差点の北側、立川崖線を上がる途中に光明院という寺院があり、街道も坂道を上って南武線の線路を越えると八雲神社の門前を通過する。

光明院

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八雲神社

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八雲神社の由緒を記した解説から抜粋

天王宮八雲神社「天王さま」の歴史
天王宮の祭神は牛頭天王八雲神社の祭神は素盞嗚尊でありますが合祀されております。
当社の創設年は未詳であるものの、分梅通り(陣街道、古鎌倉街道)に面した境内の東北角(社地)には、元応元年(一三一九年)の木に抱かれた石板碑、享保九年九月(一七二三年)に祭神像、安永七年(一七七八年)に石造の鳥居等が現存しております。
さらに、神社境内の奥には、高倉古墳群の一つ天王塚古墳(六世紀後期)が未調査のまま唯一現存の古墳として残されております。

解説の中にあった、木に抱かれた石板碑

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石碑の近くにあった木が碑を取り込んでしまったらしい。

解説(1)

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(2)

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八雲神社の北側、それほど離れていないところに屋敷分淺間神社がある。
淺間神社横の庚申塔など

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祠を通して後ろは神社拝殿。

ここを過ぎるとほどなく甲州街道にぶつかる。南側で旧道、北側で国道20号を交差してその先へ出ると、鎌倉街道旧道は府中第四中学の敷地でいったん途切れるが、後ろ側へまわると住宅街のなかを道が続いている。

府中市美好町住宅地から前方は東芝府中事業所

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前方の高いタワーは東芝府中事業所のエレベーター試験棟。

鎌倉街道旧道は現在の東芝工場敷地内を縦断している。敷地内を通り抜けられないし、旧道は跡形も残っていないので迂回して通る。
一般道を通って工場西側をぐるりとまわり、北側にある東芝事業所入口付近へ。

事業所の入口付近

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鎌倉街道もこのあたりから出てきていたようだ。

すぐ北側を東八道路都道14号)が通っている。これを越えて少し歩くと国分寺市に入り、旧道が復活し、すぐに武蔵国分尼寺跡に達する。
鎌倉街道をたどる方は多くここで国分寺などにも寄っていくようだが、自分は野川を遡った時などに訪れているので今回はパス。

武蔵国分尼寺跡の公園から

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国分尼寺跡を横切る道路

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この道路も鎌倉街道旧道ではないかと言われているが、寺の敷地内を横切っているなど不審なところがあって真偽は定かでない。

これとは別に寺の西側を通る道路が旧道ということになっている。
そこにあった解説板から(字が見にくかったので書き起こした。)

鎌倉街道(でんかまくらかいどう)
鎌倉時代、幕府の置かれた鎌倉と各地を結び、のちに「鎌倉街道」と総称される幹線道路が整備されていった。武蔵国内を通るもののうち、上道(かみのみち)(律令制下の東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)をほぼ踏襲する)は特に有名である。
市域を通過する「上道」は鎌倉から町田、府中をへて北上し、上野、信濃に至っており、街道沿いに有力御家人勢力を振るっていたことから軍事的にも重要な道路であったことが知られる。
市内の上道の道筋は、この切通を含めて部分的に伝承されており、北方の伝祥応寺跡や恋ヶ窪廃寺跡(西国分寺駅東南)発掘調査の結果、次第に明らかになりつつある。
国分寺市指定史跡、平成4年2月1日指定)国分寺市教育委員会

鎌倉街道切通し坂道

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国分尼寺跡北側の黒鐘公園付近にて。ここは大昔の多摩川が削ってつくった段丘崖、国分寺崖線のがけをのぼっている。

この先この道は住宅地のなかに出ていくと、東側を通っているJR武蔵野線の線路で分断されてしまう。
街道が分断されているあたり

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柵の下を武蔵野線が通っている。街道の旧道は線路を斜めに横切って向こう側へつながっていたらしい。現在線路の向こう側は府中街道都道17号)になっていて、そこへ合流する。

府中街道泉町交差点

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右下から左上奥へと府中街道鎌倉街道旧道)、交差しているのは多喜窪通り都道145号)。

府中街道を北へ少し行くとJR西国分寺駅近くに出る。
西国分寺駅入口交差点にて

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本日はここまでにして駅へ向かった。
今回のゴールは「西国分寺」だけど、古くから使われている名前にこだわって「国分寺」としてみた。もう少し先まで行っていれば「恋ヶ窪」が使えたけど。

経路上のおもな地名(上道その4)

乞田→関戸→中河原→分梅→国分寺

上道、最初の方