散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

鎌倉街道を歩く 中道その1 鎌倉から鶴ヶ峰

これまで、上道(かみつみち)と言われる道筋を歩いて鎌倉から狭山まで到達した。そちらはいったん句読点。鎌倉へ舞い戻り、中道(なかつみち、なかのみち)と呼ばれる街道を歩き始めることにする。

中道についてもその経路はあれこれたくさん存在していてはっきりしないのだけれど、上道でも参考にさせていただいた、北倉庄一氏の研究により繋ぎ合わされたルートを参考に、現代の道路を辿ってみることにする。
中道の簡単なルートを参照させていただく。

鎌倉→小袋谷→小菅ヶ谷→舞岡→柏尾→名瀬→鶴ヶ峰→白根→中山→川和→荏田溝の口→二子渡し(ここで二手に分かれる)

【ルートA】二子渡し→上野毛→渋谷→青山→千駄ヶ谷→宿坂→雑司が谷滝野川→赤羽→岩渕
【ルートB】二子渡し→弦巻→羽根木→中野→板橋仲町→蓮沼→赤羽→岩渕

岩渕より 岩渕→川口→鳩ケ谷→岩槻→和戸→幸手→栗橋→古河→野木→小山…(下野、陸奥方面)

今回、中道その1は鎌倉、鶴岡八幡宮三の鳥居前から鎌倉時代の古戦場のひとつであった鶴ヶ峰までを歩く。
中道その1行程

まずはアプローチ、JR鎌倉駅

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あっという間に三の鳥居前

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前回、上道を歩き始めた日も曇り、今日も曇り。

中道の場合は鳥居をくぐって八幡宮境内にはいる。

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本殿前の階段、左は大銀杏のあったところ

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本殿の階段は上がらず、舞殿と大銀杏のあった間から脇にぬける細道を通って外に出る。
細道

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外に出るとバス通りの県道で、その向こうへ行く道がある。その道に入ると巨福呂坂切通しにつながっていて、昔はそちらがメインストリートだったのだが、現在は切通しのところで行き止まりになって通り抜けられない。仕方ないので県道を通って建長寺、北鎌倉方面を目指す。

現代の道路は巨福呂坂洞門で向こう側へ抜ける。
巨福呂坂洞門

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現代の切通をぬけるとすぐに建長寺
建長寺門前

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建長寺に入ってずっと奥へ進んでいくと山の上に半僧坊、勝上献といったところがあり、ハイキングコースが通っているが、かつて、巨福呂坂切通が開かれる前はこのハイキングコースが鎌倉へ向かう街道だったという説もあるそうだ。

本日は建長寺前を素通り、横須賀線踏切をこえて北鎌倉へ。

東慶寺前へ

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いわゆる縁切寺として有名だったお寺だけれど、現在は松岡山東慶総持禅寺ということで禅寺、近年の学者や作家の墓が多いことでも有名と門前の解説にあった。

円覚寺への参道

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ほどなく北鎌倉駅を過ぎると観光客、修学旅行生の姿はなくなり、小袋谷交差点まで県道を来る。
その次のY字路、水堰橋(すいせきばし)の手前で県道からそれて旧道に入る。

橋のたもとに古い道標

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「右とつか」「左藤さわ」道と刻まれているらしいが、判読できない。左面には「享保十二年」(1727年)とあり、この部分は読めた。

中道の旧道は水堰橋を渡らないが、渡って行くほうは上道の古い道筋であるという説もあり、藤沢方面へ向かって上道に合流する格好になっているようだ。
乱暴なようだが、多くの歴史学者によってこのあたり一帯、鎌倉へ通行可能な古い道は何でも鎌倉街道と名付けてしまったような気もしないでもない。

中道旧道を進むとすぐに横須賀線踏切をわたり、その線路すぐそばに成福寺(じょうふくじ)。
成福寺、茅葺の山門

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創建は貞永元(1232)年、鎌倉で唯一の浄土真宗寺院である。

まっすぐな道を歩いて行くと
離山富士見地蔵尊

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最近たてられたらしい石碑には旧鎌倉街道中ノ道の文字、肝心のお地蔵様が写ってないな。旧道は左側の細い道。

旧道を道なりに進んでいくと大船に出て、企業の敷地、かつては工場があったところで道は一時的に消えてしまう。ちょうど鎌倉市から横浜市への境界付近。横を通るバス通りの市道(?)を少し行くと、その道がまた旧道の道筋をたどるようになる。

笠間中央公園の下あたりで

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このような庚申塔、石仏などを見かけると古い道を歩いているという実感が湧いてくるが、この先はあまり歴史的な遺物は見当たらなくなっていく。

その先、法安寺の門前を通過して笠間交差点にさしかかる。

笠間交差点、陸橋のうえから

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ここは3本の道路が交差しているが、一点で交差して六差路になるのではなく、少しずれているので直角に交わらない十字路が3つ近接してあり、まん中に三角形のデッドスペースができている。写真真下がそのデッドスペース。

鎌倉街道をこの交差点を越えてすぐ、いたち川を渡り右に折れる。ここにも石の道標がぽつんと置かれていた。分岐するどちらの道も古い道ということだろう。横浜市栄区のHPでは右に折れないほうを中の道と言っていた。

右折してJR根岸線の高架下をくぐると細い坂道が分岐していてそこを上がる。
坂道をふりかえって

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しばらくするとこの細い道は最近造成された住宅地のなかに入っていき、古い道路は見失われる。住宅地のなかを歩くが上り坂傾向はずっと続く。

時々交差する新しい道路は切通しになって下を通って行く。
横浜環状3号線の道筋

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尾根上の道路橋から撮影したもの。

さらに坂を上がり、丘陵の尾根筋に出る。

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このへんでGPSを見ると標高は75mを示していた。ちょうどこの尾根が横浜市栄区と戸塚区の境界にもなっている。

その先でまた尾根を切り崩してつくられた道路のうえを橋で渡る。

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道路をつくるときに切り崩された場所にあって移設されたという庚申塔がひとつぽつんとあり、そこを過ぎると舞岡公園のなかへ道は入っていく。

舞岡公園は大きな公園だが、街道の道筋はそこをかすめてすぐに日限山(ひぎりやま)の新しい住宅地に入る。
舞岡公園入口の木柱と向こうは日限山、南舞岡の住宅地

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また新しい住宅地に入り、また旧道は消滅する。

舞岡公園の先からは横浜市戸塚区と港南区の境界に沿ってずいぶんの距離を進んでいく。私事だが、この境界は横浜市の内周を歩くという散歩をしたときに延々と歩いたところで、再び同じ道筋をトレースすることになった。

この区境は住宅地造成で地形まで変わってしまったところもあるが、基本的にずっと丘陵の尾根筋をたどっていく。

港南区下永谷市民の森付近

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戸塚区柏尾町付近

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このあたりの街道の道筋はあまりはっきりせず、ここの森の中の細い道が旧道そのものなのかはわからないらしい。

この先で一般道に出ると坂を下っていき、国道1号東海道線、柏尾川の並行している場所へ出る。

線路は歩道橋でこえる

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向こうは自動車用の陸橋。

柏尾川もこえると秋葉町、川上町という、また最近になってから開発された住宅地のなかを通って行きつつ、また丘陵の上へと登っていく。

新戸塚病院近く

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この付近を街道旧道が通っていたとのことで、正面の階段を上がっていくのだが、その先はゴルフ場の敷地になっていて道は中を通過していて消えてしまっている。旧道跡が復活するところまで数kmを一般道で迂回する。

川上川の上流部

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川は街道とは特に関連ないんだけど。

ゴルフ場を迂回中

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前方の標識には「旭区」、ここで横浜市戸塚区から旭区に入る。ちなみにその左側はゴルフ場クラブハウスへのアプローチ。

区境をこえるとすぐのところに
都塚(みやこづか)標柱

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右側には石の小さな道標、南鎌倉道、西相武堺道、北二俣川村道と刻まれている。このあたりから街道が復活している。

塚の上へあがると小さな祠

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街道が復活といってもここまで迂回に使ってきた道路がそのまま延びているだけなので復活した実感はないが、もうしばらく行くとまた石の道標が立っていた。
鎌倉道、西大山道

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横の解説板には

鎌倉道と大山道の分れ道
昭和五三年(一九七八年)までこの場所は三叉路でした。この道を、東に行けば今井街道を経て旧東海道保土ヶ谷宿に通じており南に行けば今の戸塚カントリークラブの中を通り抜けて、鎌倉まで通じる道(鎌倉中の道)で、昭和三七年(一九六二年)に戸塚カントリークラブが出来ましたが、道路沿いに都(子)塚があり今でも昔の面影を残しています。また、西に向かえば大池、長昌寺、現在の東希望ヶ丘小学校を経て、大山の阿夫利(雨降)神社に通ずる大山道への分岐点でした。

この道標の分岐を右に折れるとずっと細い道が続き、そちらはなんとなく旧道の雰囲気がある。
こんな切通しっぽいところも

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丘陵の尾根へ出ると現代の道路が下を削って切通し道路となり、尾根上の旧道には道路をまたぐ橋ができる。
下は保土ヶ谷バイパス

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この先で東海道新幹線も横切るが、そこも新幹線が切通しになって上の陸橋を渡る。
新幹線線路をまたぐ

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もうしばらく細い道を歩いて行く(旭区鶴ヶ峰1丁目付近)

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相鉄線線路際に出てくる。

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線路を踏切で渡るとその向こう側には鎌倉時代の武将畠山重忠に関するあれこれがあるが、そこに立ち寄るのは次回にして本日はここ鶴ヶ峰の線路際までとする。
相鉄線鶴ヶ峰駅までは歩いて5分くらい。