鎌倉街道中道(なかつみち)、今回の行程はざっと以下のとおり。
鶴ヶ峰→白根→中山→川和→荏田→溝口→二子の渡し
現在の横浜市中部から北部、川崎市域の真ん中あたりを横断して多摩川に至るところまでとなる。荏田付近からの道筋は矢倉沢往還や大山道と呼ばれる道筋をそのままたどることになっている。矢倉沢往還は奈良時代には存在していた往時の東海道ということで、ここは鎌倉街道との「共用区間」としておく。
また、鎌倉街道中道は鶴ヶ峰から長津田、町田方面へぬけて上道と合流していたという道筋を示す説もある。
いずれにしても鎌倉街道は複数並行的にたくさんの道筋が提唱されているので、真の街道はどれかなどということは深く考えずに行くことにしている。
今回歩いた行程
前回鎌倉から鶴ヶ峰に至るノートはこちら
駅から5分ほどで前回離脱点、幼稚園脇の踏切に。このまえは踏切を渡ってきたので、今回は背にして旭区役所方向へすすむ。
このあたり、鎌倉時代の武将畠山重忠が討死した場所で、いくつかの史跡が点在する。
首洗い井戸、鎧の渡し
正確にはこの場所ではないが、回収してきてここへ立て直しました的。後ろは旭区役所の建物。
横の解説板から
首洗い井戸
畠山重忠公は鎌倉時代の智・仁・勇を備えた武将でした。しかし、幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、鎌倉に至急参上せよという北条時政からの命に接して鶴ヶ峰にさしかかったところ、北条勢の大軍に待ちぶせされました。熱戦を繰り広げましたが、弓の名手愛甲三郎季隆(すえたか)の放った矢に当たり、四十二才の生涯をこの地に閉じました。元久二年(千二〇五年)六月二十二日のことです。
ここには重忠公の首を洗い清めたといわれる井戸がありました。以前は帷子川の河原に直径1メートル程の穴があり、水が湧いていたといいますが、川の流れが変わって失われてしまいました。
平成二十二年二月吉日設置
旭区誕生40周年記念事業実行委員会
鎧の渡しは帷子川(かたびらがわ)の渡し舟。渡し舟があったあたり、のちに鎧橋という橋がかけられたが、この橋も川の流路変更があって、現在は跡だけが残っている。
脇の解説から
首塚
畠山重忠公は鎌倉時代の武将で 源頼朝の忠臣として幕府の創設にも力を尽くし、智・仁・勇を兼ね備えた武将として名声をはせていました。しかし幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、旭区の二俣川付近で戦死しました。
ここは、重忠公の首が祭られたところといわれています。現在は西向きに建っていますが、以前は南を向いていたそうです。
平成二十二年二月吉日設置
旭区誕生40周年記念事業実行委員会
旭区観光協会
畠山重忠公碑など
草ぼうぼうで碑には近づけなかった。柱には、吾妻鏡鶴ヶ峰・二俣川合戦の地、その横に吾妻鏡畠山重忠公終焉の地の文字。
ところで、畠山重忠の本拠は武蔵菅谷館で、現在の埼玉県比企郡嵐山町にある。嵐山町を通る鎌倉街道は上道で、そこからずっと鎌倉に向かうと、この付近では町田から瀬谷、飯田といった、もっと西側を通るはずなのだが、鶴ヶ峰という中道を通っていてここで戦さになっている。(相手もそれを知っていて待ち構えていたわけだ)
どこかで上道から中道に乗り換えていたことになるのだが、先にちょっとふれた、町田-長津田-鶴ヶ峰のルートがポピュラーなものだったのか、それとも?といったところ。地図好きとしてはそんなところが気になった。
元へもどって、このほかにもいくつか史跡があるけど先へすすむ。
現在の帷子川
鶴峰橋から下流側。
橋を渡り、国道16号(八王子街道)をこえて、白根通りという道路を進む。
途中に白根公園があり、中に源義家、頼朝にちなむといわれる白根不動、白根神社がある。
その先、横浜銀行の支店があるところで白根通りから右に折れ、細い道に入り、しばらくゆるい坂をあがる。途中から旭台という最近造成された大規模な住宅地のなかを通る。
旭台住宅地の近くで(旭区中白根3丁目)
拡張されているが旧道の道筋だという。前方カーブミラーの先はもっと道幅がせまい。
この後、道は尾根筋に出てからゆっくりと長い下り坂になり、中原街道(こちらも古い道)と交差したあと、坂を下り切ったところで別の県道にぶつかる。そのあたり中山。
県道の向こうに長泉寺
県道とお寺を越えると、もう少し旧道が続き、JR横浜線踏切をこえて少し先で消えてしまう。
横浜線中山第二踏切
線路左のほうへ行くと中山駅が近い。
古い道が消えてしまうのは、ここでは川のせいもあるだろう。恩田川、鶴見川という2つの川が近くを流れ、昔はすぐに氾濫して安定した道をつくるのはむずかしかったはずだ。そのほかに現在ここでは広い企業の敷地を横切っているので消滅したというのもあるが。
恩田川を近くの県道の橋で渡り、反対側へ。
振り返って、恩田川の堤防と京セラの建物
だいたいこのあたりが旧道の延長上にあたる場所。
もう少し先へ行ったところで(緑区青砥町)
左は供養塔とあり、享保三(1718)年、水難などの文字があった。大規模な水害があったのだろうと想像する。
再び県道で鶴見川を渡る。
精進橋手前で
橋を渡って県道からそれると横浜市緑区から都筑区へ、川和(かわわ)という場所にさしかかる。川和は江戸時代に入ってから日野往還(八王子往還とも)の宿場があったところ(鎌倉街道の宿場ではなかったようだ)で、以後、昭和初期にかけては都筑郡(現在の横浜市北部一帯)の中心地で郡役所をはじめ、警察署、消防署、郵便局、法務局など行政施設のほとんどがここにあった。その後川和が横浜市の一部となってからそれらの施設はみんな分散してのどかなところになっている。
細いまっすぐな道路をしばらく歩くが、古い道かもといった雰囲気がある。しばらく先でこの道は横浜上麻生道路(昔の日野往還)に合流する。
合流した道路の脇に庚申塔など
鎌倉街道はすぐにまた分かれて、北東方向へ丘陵をあがっていく道があったようだが、この先は港北ニュータウンの大規模な造成地に入っていき、あまり道筋ははっきりしていない。
住宅地のなか、横浜市都筑区と青葉区の境界に沿って丘陵を上がっていくとひとつの尾根筋に達する。
この先、尾根部分を切り崩して通る4車線道路の上を池尻橋という橋で渡り、青葉区荏田町の丘陵のうえをしばらく進む。
丘陵の先端まできて結構急な下り坂をおりる。下りきるちょっと手前に真福寺という寺院がある。
真福寺
正直小さくひっそりと目立たない感じのお寺だが、ここには国重要文化財の釈迦如来立像、県重要文化財の千手観音立像があるそうだ。滅多に見ることはできないようだが。
車の通っている道路に沿って大山道の宿場があった。鎌倉街道の宿駅でもあったようだ。大山道は手前右側から来て向こうへ向かうと大山方面。鎌倉街道は(この地点で合流していたかは不明だが)右手前から左側へ横切って行くと鎌倉方面。大山道は古くは矢倉沢往還ともいわれ、こちらも古い街道。
ここから二子へ向かって(その先もしばらく)は、大山道と重複したところを歩くことになる。2街道一挙に歩けてお得な区間である。
大山道と合流してすぐに庚申塔のある祠(下宿庚申塔)を過ぎ、早渕川を鍛冶橋で渡ると、少し先の道端に細々とした湧水がある。
霊泉の滝
昔はどうか知らないが、現在は竹筒の先からしたたり落ちる滝。崖になっている岩の間からも水は浸み出しているようだ。崖上には老馬鍛冶山不動尊という小さな祠が存在する。
脇の看板に「誠に霊験あらたかです」とある滝の先からは上り坂が続く。
上り坂にかかりはじめた付近、霊泉の滝方向を振り返って
途中「血洗坂」という物騒な名前のついたところを通り、一挙に尾根にまであがると
近くの造園、植木を手掛ける会社の「商品」が立ち並んでいる。手入れは行き届いているけれど日本庭園のような見せる感覚で植えられているわけではなく、ただカタログ的なのが面白かったりする。
横浜市都筑区から川崎市宮前区へ、その先はすぐにまた住宅地に入る。谷間を流れる小さな有馬川を渡るために尾根から下り、すぐにまた上り返すと国道246号、鷺沼1丁目交差点を渡り、東急鷺沼駅近くまで来て右にカーブしてから左に分岐する道へ。次にまた、谷間を流れる矢上川を渡るために丘陵から下り、川、尻手黒川道路、東急田園都市線と交差して向こう側へ。
宮前平ガード下交差点近く
信号を渡ったところで右折するとすぐに宮前平駅で、その正面の崖中ほどに八幡神社があって、その前の大山道(鎌倉街道)は「八幡坂(はちまんざか)」というようだ。
八幡坂、下から
坂を上がり、昭和の後期に造成された丘陵の住宅地をずーっと歩いて行く。
川崎市宮前区から高津区に入り、梶ヶ谷交差点で再び国道246号を渡る。渡った先の大山道の舗装が少し違うのに気付いた。
(旧)大山道、高津区下作延2丁目、末長1丁目境界
タイルのかけらのようなのがモザイクのように埋め込まれている。また、このあたりからはわりと古くから住宅があったと思わせる風景に変わってくる。
地蔵堂などがあり、その先で下り坂。ここはもう、先を流れる多摩川が大昔に削ってつくった崖で、これを下りるとすぐに溝の口である。
溝口へ向かう下り坂にかかる
下りきると東急田園都市線溝の口駅南口前の県道交差点に出る。
高津区役所東側交差点
左向こうへ進むとJR南武線踏切などを越えて、その先は江戸時代に大山道溝口宿があったところに入る。
宗隆寺参道から
溝口神社鳥居
大石橋跡と二ヶ領用水
その先、高津交差点で府中街道(国道409号)を渡り、
タナカヤ呉服店建物
かつては街道沿いにこのような建物が立ち並んでいたんだろうけれど、いまや貴重な生き残りのようになってしまっている。
光明寺門前
もう少し行って左に入ると二子神社の参道だが、そちらへは行かず道なりに右に折れて二子橋のたもとに出る。昔の街道は右には折れずにまっすぐ多摩川の河原にすすんで、その先が二子の渡し場だったと想像する。
二子橋交差点から二子橋を望む
二子橋を渡って東急線二子玉川駅前に出てこの日はおしまい。
二子玉川駅入口
二子の渡しを渡ったところで鎌倉街道は二手に分かれていた、というのが資料を参考にさせていただいている北倉庄一氏の考えで、氏は鎌倉街道中道について東京都内で2つルートを提唱している。一種、網の目のように張り巡らされた形の鎌倉街道ではあるが、研究者をしてひとつに決められなかった街道筋、さてどちらを歩くとするか迷うところ。