散歩の途中

iPhoneもって散歩しながらあれこれ観察したノート

鎌倉街道を歩く 中道その4 二子の渡しから中野経由千川

鎌倉街道中道その4は二子玉川へ戻ってBルートを歩く。
Bルートってなんだということで、前回その3に書いたことを繰り返すと

鎌倉街道中道も現在の東京都内に入る。中道その2にも書いたが、参考にしている資料では街道経路が二子の渡しから先は二手に分かれている。網の目のような鎌倉街道の道筋だが、主要道として2つが甲乙つけがたいということ。
まずは資料でAルートとされる道筋をたどることにした。

なので今回はBルート。

Bルートの今回歩いた主な経由地
二子の渡し(二子玉川)→用賀→弦巻→松原→笹塚→和田→中野→上高田→長崎→千川

その4行程・足あとは青色(その5と続けて表示)

スタートは前回その3と同じく東急線二子玉川駅

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駅西口を出たら玉川通り多摩堤通りの交差点を右折、新二子橋方向へ行き、高架橋の直前を右に折れる。わずかな区間だが、この間多摩堤通りにはきちんとした歩道がなくて危険、1本左か右の通りを行くほうがよい。
右折して入った道が、かつては二子の渡しから河原を上がって街道の続きになるところだろう。前々回その2でも書いたが、鎌倉街道中道は荏田(現在の横浜市青葉区荏田町)付近から大山道の道筋と重複していて、この先もしばらく重複した道筋を歩いて行く。

現代は古道の名残りも新二子橋高架の下をぬけ、二子玉川商店街にはいる。
二子玉川商店街

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”にこたま”といえば駅周辺の新しい街が華やかで目立つけど、昭和の頃の雰囲気が残る商店街も街道沿いにちゃんとある。

商店街の先で丸子川(六郷用水)を治大夫橋で渡り、坂を上がっていく。
坂の途中には玉川寺、瀬田玉川神社、慈眼寺

玉川寺(ぎょくせんじ)山門

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身延山久遠寺の関東別院。昭和7年身延山久遠寺法主望月上人が日暮里妙隆寺を当地に移転し、改めて身延山関東別院として創建したもの。この地では新しい寺院。

隣接する瀬田玉川神社の創立は1559(永禄2)年、その隣の慈眼寺は1306(徳治元)年に小堂を建てたのを始まりとしている。

3つの神社、寺院が並ぶ坂道

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坂をあがって少し行った先にも昭和10年に移転してきた大空閣寺、そして環八通りに出る。

環八を越えると玉川通り旧道に合流し、首都高3号線高架と矢沢川を渡って東急田園都市線用賀駅前に出る。
用賀駅前付近

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駅は地下。ここで玉川通り旧道から左側の道にはいる。そちらは旧大山道で鎌倉街道、地図で見るとほぼまっすぐの道がずっと続いている。

世田谷区弦巻4丁目、5丁目境界にて

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ここの少し手前、コンビニの前、道の横には馬頭観音とお地蔵さまがあった。

ゆるい坂を下りていくと
旅人像

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大山詣をする旅人の像だそうだ。なので江戸時代の人。
(ところでこの人、ここへの出演は2回目、以前は蛇崩川花見散歩のときだからおよそ半年ぶり。)
旅人像の横には大山詣の解説もあったが、今回のテーマではないので省略。

先へ進むとまもなく世田谷通りに出て、道はそこを斜めに横切っている。横切った先で桜小学校の敷地にぶつかり、旧道の道筋はそこでいったん途切れて消滅。
その先は東急世田谷線を上町駅近くで渡り、世田谷城址の東側を北へ向かうのが、このあたりで消えている旧道の道筋に近いようだ。ここは世田谷線を渡ったあと世田谷城址西側を通り豪徳寺前へと歩いてみた。

東急世田谷線踏切

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道路右側が烏山川支流跡、というのは自分への備忘録なので気にしないでください。

ちょこちょこっと角を折れ曲がり、豪徳寺へ寄り道。
豪徳寺山門

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豪徳寺三重塔

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三重塔は2006(平成18)年落成。

解説板から抜粋

豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明十二年(一四八〇)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳院を前身とする。天正十二年(一五八四)中興開山門奄宗関(高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
寛永十年(一六三三)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改称した。直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏像、達磨・大権修埋菩薩像、及び石灯籠二基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。
境内には、直孝を初め井伊家代々の墓所があり、井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。

本堂と書院

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鐘楼と梵鐘

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招き猫だらけ

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彦根藩井伊家菩提寺はこれらをひこにゃんの原型とします。(なぜ変な自動翻訳風なのか?)

豪徳寺を出て旧道消滅中につき住宅街の細い道を松原へ向かって歩く。途中小田急線を梅ヶ丘駅西側で越え、北方向へ行くと道路が三又(→Ψ)に分岐しているところに出会う。

そこの道の真ん中に
徳明地蔵尊

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ここから分岐元になる東方向へ行く道はまた旧道の名残になっているそうだ。なお大山道は豪徳寺付近で分かれていて、このあたりはすでに重複区間ではない。

その道をすすむと東松原商店街に入っていく。
松原商店街を通る細い街道

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東松原駅前の井の頭線踏切を渡り、先へ行くとまたお地蔵。
子育地蔵尊

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周囲には庚申塔なども。

この日歩き始めは世田谷区玉川、ここまで結構歩いてきたつもりだったが世田谷区大原、まだ世田谷区からぬけていないことに気づく。世田谷区は意外に広い。
ほどなく旧道正面にビルが現れて突き当り、右側へ。

手前玉川上水暗渠と向こう高架は京王線笹塚駅

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緑のところが玉川上水の暗渠で上が歩道になっている。歩道は笹塚駅の出入口へつながっている。
そしてここまで来てやっと世田谷区から出て渋谷区に入った。

駅の真下をくぐり、すぐ近くを通る甲州街道国道20号)を渡って笹塚商店街の通りに入る。
笹塚商店街

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道なりに行くと十号坂というゆるい下り坂。中野区に入り、住宅地の中を左右に折れ曲がりながら歩く。あちこち角を曲がらなければならないのは旧道ではないということ。南台公園の先を曲がると多田神社の前へ出る。

多田神社

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多田神社は、寛治6(1092)年源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮二丁目)に参詣のおり説、奥州に出陣するときこの地を通り説、当地に源氏の祖、多田満仲を祀る社を建てたことにはじまると伝えられ、当地雑色村の鎮守となっていた。

複数の解説をまとめたらこうなった。

神社の右横を上がっていく道があって、そこは方南通りとの交差点まで旧道の名残りとのことだが、その距離は200m程度とわずか。

方南通りを横切ると左側は東京メトロ丸ノ内線車両基地で、その先神田川を和田見橋で渡る。

和田見橋から神田川

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橋を渡るとわずかな区間杉並区を歩く。和田一丁目交差点をすぎるとT字路で突き当たり右折。曲がった先も旧道ではないが、十貫坂という坂道にさしかかり、坂のどこかで旧道と道筋が合わさるらしい。

杉並区和田1丁目付近、十貫坂の少し手前

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坂を上がると中野通り十貫坂上交差点、直進すると青梅街道との鍋屋横丁交差点に出る。

鍋屋横丁交差点

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左右が青梅街道、前方に向かって鎌倉街道古道の道筋になる。

青梅街道をこえてしばらく行くとゆるい下り坂になり、桃園川(現在は暗渠)、大久保通りを越える。大久保通りの先はまた上り坂。下り坂ー川ー上り坂というパターンは基本中の基本である。
上り坂の途中は紅葉山、城山と呼ばれるが、かつてその一帯に太田道灌の城塞が存在したことがあるそうだ。15世紀半ば頃ということになる。

坂を上がると中野駅の東側で、線路の下をくぐってさらに行くと早稲田通り天神坂上交差点。

早稲田通りをこえる

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先へしばらくすすむとT字路で突き当たる。旧道の道筋はまたここで消滅する。

住宅地の細い道を少し北方向へ行くと突然、けやきの大木と竹垣のある古い家屋に遭遇。
童謡「たき火」のゆかりの地

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家屋は明治初期の建築、この一帯、上高田の名主だった家だそうだ。たき火の作詞をした巽聖歌氏がこの付近で詞のイメージをつくりあげたということである。

大きな木もあり閑静な一帯だが、西武新宿線新井薬師前駅にほど近い場所で、この先線路を渡って行く。

踏切近くにあった庚申塔

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庚申塔手前を左右に通る細い道は旧道の道筋になるという。この先もずっと旧道に沿って行けるということだが、細い道はより太い道に次々合流していくので、古い道を歩いて行くという雰囲気はなくなる。

最初は住宅地内の細道

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すぐ先でバス通りに合流し、下り坂。下りると妙正寺川、四村橋を渡る。

四村橋から妙正寺川を望む

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右側が哲学堂公園

妙正寺川を歩いた時に、公園内を川に沿って歩いたが、今回は坂の上にある哲学堂の古い建物へ寄り道してみた。

向こうが四聖堂、赤いのが六賢台

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哲理門

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ほかにもいろいろ見たけれど、名前が難しくて覚えきれないのでこれまで。

公園北側、野球場のあるところから街道に戻る。すぐに新青梅街道の交差点でこれを越える。
越えた先からは歩いている道が中野通りになっていて、その先の千川通りと、道筋は古い鎌倉街道と同じではあっても車の通行量の多い、ごく普通の道路をほとんど歩くことになる。ちょっと退屈な区間だ。

目白通りもこえると西武池袋線の踏切

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いつの間にか豊島区に入っていた。このへんの地名、長崎は豊島区の一部となる以前長崎村で、鎌倉時代末期に長崎高重知行となったため、長崎と呼ばれるようになったという。

通りの名前は中野通りから千川通りに変わり、しばらく先へすすむと道が分かれる。
旧道の分岐

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左が千川通りで右に分かれている道が鎌倉街道旧道になるそうだ。千川通りのすぐ後ろを並行してすすんでいくこの道はまた千川用水という用水路も隣を通っていたところで、今はこの旧道横の用水路跡が千川親水公園などの緑道になっている。

旧道側をしばらく行くと要町3丁目交差点で再び千川通りと合流する。

要町3丁目交差点で右に折れたところがすぐに東京メトロ千川駅

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今回はここまでとした。

ここにも鎌倉から二子までの中道の足跡を貼っておこう。

あ、やっぱりAルートも