散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

鎌倉街道を歩く 中道その6 池袋から川口

都内でA,B2つに分かれている鎌倉街道中道のAルート、二子玉川から池袋まで歩いてきたのでその続きを歩く。

Aルート前回のノート

中道その6行程・足あとは紫色のほう(その3と続けて表示)

今回歩いた主な経由地

池袋→滝野川→十条→赤羽→岩淵→川口

その5のノートにも書いたが、Bルートを終点(Aルートとの合流点)まで歩いてから電車で池袋に出て、再スタート。

アプローチの池袋駅東口

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スタート地点となる東池袋交差点へ向かい、そこから北へ。
サンシャイン前交差点から

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サンシャイン60建物横を通って春日通りに一度出てから細い道に折れる。
その細い道は宮仲橋陸橋で山手線などを越え、明治通りに合流する。この区間が旧道の名残だそうだ。

宮仲橋手前で

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明治通り合流近く

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明治通りを王子方向へしばらく進むと地名は滝野川。途中谷端川に架かっていた橋は鎌倉橋という名前だったそうだが、現在川は暗渠になり、橋もない。西巣鴨交差点までくるとそのちょっと手前を左にそれる細い道があり、交差する白山通りを越えてその向こう側へ少し行ったところで途切れる。これも旧道跡ということだが、距離はわずか、現代の広い道路が交差しているなど古い道の雰囲気はまったくない。

その旧道が途切れるところまで行き、左に曲がって八幡通り商店会という古い商店街の細道に出る。こちらの道も明治の地図には描かれている古い道だ。

中にあった古そうな建物

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その先には旧滝野川村の鎮守であった滝野川八幡神社があった。
八幡神社社殿

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八幡神社の先で右折、四本木稲荷の角を左折して少し行くと石神井川へと出る。

先に旧道が途切れたあたりからこの先陸上自衛隊十条駐屯地の敷地にかけて、明治から太平洋戦争までの間、東京砲兵工廠(東京第一陸軍造兵廠)という兵器製造工場などがあった。鎌倉街道の道筋はこの建設によって消えてしまったのかもしれない。四本木稲荷は造兵廠の鎮守であったとのこと。境内は一種独特のエントロピー増大傾向にあり、入ってみる気は起らなかった。

石神井川の音無もみじ緑地に出てくる。
音無もみじ緑地から

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ここは蛇行していた川の流れを改修した際に、旧流路跡を公園にした場所。元々川岸から崖になっていた土地で、洞窟もあったそうな。江戸名所図会の「松橋弁財天窟(まつはしべんざいてんのいわや)石神井川」に描かれた観光名所であった。崖にはかつて滝もあったという。

この隣には金剛寺源頼朝が鎌倉を目指す途中で当時の寺域に陣をとったという伝承がある、と解説にあった。勢揃い地である。
金剛寺門前

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門前から石神井川をもみじ橋で渡り、北へ進む。

ほどなく北区中央図書館と隣接して公園があるところを通る。
図書館北側の古い建物

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右側のレンガ造りの建物は1919(大正8)年建造、東京砲兵工廠銃砲製造所の弾丸鉛身場、薬莢工場だった。いまはカフェ。

隣接して陸上自衛隊十条駐屯地

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自衛隊駐屯地正門の少し手前に右に折れる道がある。この道はすぐに都道を交差し、2~300m先で日光御成道岩槻街道などの呼称のある道路に合流する。この短い区間鎌倉街道旧道の道筋であるとのこと。しかし特に旧道という雰囲気は感じられなかった。

合流した先では鎌倉街道中道と岩槻街道(現在は都道460号中十条赤羽線)の道筋は重なっている。この道路は現在拡幅工事の真っ最中、元々歩道もなくて歩くには嫌な道路だったが、道路用地が取得できた場所には部分的に仮歩道が設けられていた。
この道に入って少し行くとJR東十条駅にもほど近いところに十条富士塚がある。

十条富士神社鳥居と富士塚石段

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左右にはこの富士山への「登山道」も残っている。ここも江戸時代の富士信仰富士講)により築かれた富士塚であるが、それより先に古墳と思われる塚が存在していたらしい。

富士塚からさらに行くと環七通りにぶつかりさらに先へ行く。この交差点、歩行者が道路を渡るには歩道橋オンリー(馬坂歩道橋の名前つき)、十条富士山よりも段数の多い階段を上り下りする。
その先は赤羽に向かって長い下り坂となる。

清水坂

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もちろん右側の道路、岩槻街道の方である。

坂を下りると埼京線のガードをくぐる。一帯は稲付(いなつけ)と呼ばれていて、太田道灌築城の稲付城址(現在は静勝寺)もある。赤羽駅西口の近くである。

赤羽駅西口

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駅のすぐ先でたくさんの線路の下をくぐり、東口側へ出る。そこから北へ向きをかえて少し歩くとBルートとの合流地点、宝幢院(ほうどういん)前のT字路にぶつかる。

「Bルートのここまで」へのリンク

 宝幢院前の道標と解説

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中道その5のノートにも記した道しるべ。そちらでは西、西国富士道・板橋道をここまで来た。今回は南、江戸道からここに到着し、東、日光岩付道・川口善光寺道へ進む。

宝幢院門前から

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古い道しるべに従って東へ進むとすぐに赤羽交差点。
赤羽交差点

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右向こうから左向こうへ右折するのが国道122号で岩槻街道または北本通り、左手前からは環八通り。真正面の小さな建物が東京メトロ赤羽岩淵駅入口。この先左向こうへ向かうと新荒川大橋へ。

赤羽交差点のすぐ先に橋跡
仙甚橋(でいいのかな?)

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向こうに車止めがあるということは暗渠の存在? 手がかりがあまりないので後で調べることにする。

赤羽交差点付近から新荒川大橋にかけては日光御成街道岩槻街道)の岩淵宿のあったところ。だが、それに関連したものは何も見当たらない。

新荒川大橋近くで、立派な瓦屋根の小山酒店

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ここは23区内唯一と言われる酒造所の店舗。工場はマンションの向こう側にあった。
小山酒造

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新荒川大橋を渡る。この橋は正確には新河岸川と荒川の2つの川を渡っている。橋の長さは約800m。

新河岸川

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荒川

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橋を渡ると埼玉県川口市に入る。

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橋がなかった時代は川口の渡し、岩淵の渡しなどと呼ばれる渡し舟が古くからあった。当時の川幅は、川がひとつしかなかったこともあり、約60間(100m強)とのこと。

現在橋の架かっているところから旧道の道筋へ戻るため、国道をそれる。
荒川堤防のすぐ下に鎌倉橋の碑(左奥)

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近くの解説板から

日光御成道鎌倉街道
日光御成道は中世の鎌倉街道中道をもとにして整備されました。鎌倉街道中道が通っていた頃より、この地は奥州への要所でした。「義経記」には、源義経が奥州から鎌倉に向う際に小川口(こかわぐち:現在の川口市)で兵をあらためたと記されています。
御成道が将軍社参にふさわしい道として整備されたのは寛永年間(1624~44)といわれています。
荒川北側の小川に架かっていた土橋は鎌倉橋と呼ばれ、江戸時代においても重要な橋の一つで、たびたび修築を加えられ昭和初期まで残されていました。しかし、荒川の河川改修などにより消滅し、現在はこの緑地内にかつての橋の存在を記念して、石碑が建てられています。

この碑がある緑地から川口宿に入っていく。

川口宿のメインストリート

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古い建物もいくつか存在している。

現在は接骨院となっている建物

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薬局の看板がかかっている

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鰹節(「節」は当方推測)

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川口市本町1丁目のこの一帯は、このほかにもいろいろ古くからのものが残っている。

産業道路という広い通りを越えた北側、本町2丁目にはいると
錫杖寺(しゃくじょうじ)山門

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中へ入ってみる

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錫杖寺
養老元年(717)に行基が本堂を建立、自ら地蔵菩薩を刻み本尊とし開基したと伝えられています。のち、北条時宗の帰依を受けた鎌倉長楽寺開創の願行上人が再興、寛正元年(1460)には、室町幕府八代将軍足利義政により七堂伽藍が整備され、中興の祖宥鎮和尚を晋住させました。以降、醍醐三宝院直末関東七ヶ寺の一つ、十一談林所の一つとして末寺53ヶ寺を有する名刹として栄えました。
元和8年(1622)には江戸幕府二代将軍徳川秀忠の日光参社の際の休息所となり、以降歴代将軍により利用されました。また、三代将軍家光からは金子、材木を拝領し、御成門を建立するとともに、御朱印20石を賜るなど、”川口宿”の中核寺院として繁栄しました。

川口宿からの鎌倉街道中道の道筋はそのまま日光御成道に引き継がれたようで、それはそのまま現在の国道122号、岩槻街道となっている。つまりここからはひたすら国道歩きとなる。

国道へ出る前に芝川を渡る

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国道(岩槻街道)に出るとすぐに十二月田(しわすだ)という名前の交差点がある。いやただ珍しい地名だと思っただけ。

その先に旧田中家住宅

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味噌醸造と材木商により財をなした田中家により、大正12年頃に建造された和洋折衷の住宅。ここには正面の煉瓦造り洋館が写っているが、横には昭和に入って増築された数寄屋造りの和館が併設されている。このほかに日本庭園、茶室などもある。

さらにずっと歩いて行く。

南鳩ヶ谷駅入口

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次の鳩ヶ谷宿を目指していたのになんとも半端なところだが、とにかくここで離脱。まあこういうことも時々ある、暇ができたらまた先を歩けばいい。