散歩の途中

iPhoneもって散歩しながらあれこれ観察したノート

清戸道を歩く 江戸川橋から清瀬清戸へ(1/2)

古い道、清戸道(きよとみち)を歩いてきた。
起点は現在の文京区関口あたり、神田川にかかる江戸川橋が起点とされ、道はおよそ北西方向に向かって伸びて、清瀬市の清戸(上清戸、中清戸、下清戸など、かつては武蔵国多摩郡上清戸村、中清戸村、下清戸村)との間を結んでいた。

この道は例えば東海道のような、参勤交代の大名なども通るといった「立派」な街道ではなく、典型的な庶民の道である。もっともこの道がにぎわったのは、たぶん明治に入ってからである。

説明の都合上最初に、清戸道の途中、練馬区貫井須賀神社前にあった解説板を貼ってしまおう。

f:id:miwa3k:20180618151948j:plain

清戸道(きよとみち)
清戸道は、練馬区の東端から西端まで延長約十五キロメートル、区のほぼ中央を横断している道路です。この道を東に行くと目白駅を経て江戸川橋に達し、西に行けば、保谷、東久留米を経て清戸(清瀬市)につきます。大泉から先、清瀬までの道筋は幾とおりにも分岐していきます。
練馬の村々から江戸に出るためには、この道を通るのが最も近道でした。江戸時代から練馬のお百姓さんは、朝早く野菜をもって町に向い、昼頃には下肥を運んで帰って来ました。その下肥を、中農以上の百姓は馬の背で、それ以下の百姓は天秤棒で運びました。このように清戸道は、農産物輸送の重要な道路でした。
明治、大正時代には、大八車が発達し、目白坂には、車の後押しをして金をもらっていた「立坊(たちんぼう)」がいたのも有名な話です。金輪のはまった車の音は、静かな夜明け前の空気を震わせていたことでしょう。
平成十三年一月 練馬区教育委員会

細かい説明はノートの中に都度付け加えるとして、今回の足あとを以下に。

清戸道 足あと

今回は起点から終点まで一気歩きをした。歩く向きが、野菜を運ぶ方向ではないが、そこは気にしないことにして。

スタートは東京メトロ有楽町線江戸川橋駅1a出口

f:id:miwa3k:20180618152020j:plain

この出口から外へ出ると、すぐ後ろ側は街道起点とされる、神田川に架かる江戸川橋。ほぼ助走なしでスタート地点。

江戸川橋

f:id:miwa3k:20180618152035j:plain

神田川はかつてこのあたりで江戸川と呼ばれていたため、江戸川橋。上にかぶさっているのは首都高速5号池袋線神田川はここから下流へしばらく、上を高速道路に覆われてしまう。

橋を渡った北側ですぐに左へ入るやや細い道へ入る。ここから清戸道なのだが、起点とされる根拠、由来について、調べた範囲ではわからなかった。また、「清戸道」の名称が文献などに現れるのは明治に入ってからだという。それまでは道はあっても名前は無かったようだ。

入るとすぐに上り坂で、坂の名は
目白坂

f:id:miwa3k:20180618152102j:plain

目白坂
西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の低地へ急傾斜で下るようになる。
この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。
そもそも三代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。
 目白台の空を真北に渡る雁 稀に見る雁の四、五十羽かも  窪田空穂(1877-1967)
東京都文京区教育委員会 昭和63年3月

目白坂の名の由来となった新長谷寺は戦災で焼失、不動尊は上記のとおり金乗院へ移されているが、坂の途中には現在も多くの寺院、神社が並んでいる。

そのうちのひとつ、永泉寺

f:id:miwa3k:20180618152123j:plain

坂を上がり切ると左側は椿山荘。元は久留里藩黒田氏の屋敷、のち山縣有朋の邸宅となったところである。
椿山荘入口付近で目白通りに合流する。清戸道は起点から現在の練馬区内に至るまで、道筋はほぼ目白通りが踏襲している。

並木のある通りを、カトリック関口教会を右に見て、目白台3丁目交差点を過ぎると
田中邸の門

f:id:miwa3k:20180618152142j:plain

田中角栄私邸、いわゆる目白御殿の入口。現在私邸の東側は相続の都合で目白台運動公園に変わっている。

その反対側は日本女子大学目白キャンパス。

不忍通りが合流してきて、その先には鬼子母神表参道入口で、交差する道は鎌倉街道といわれる高田1丁目交差点と続く。
高田1丁目交差点

f:id:miwa3k:20180618152202j:plain

鎌倉街道を歩いたときに鬼子母神方向へ道路を渡った記憶がある。

そこを過ぎると千登世橋。その手前に千登世小橋があって、下を都電が通っている。
千登世小橋東側から

f:id:miwa3k:20180618152223j:plain

橋の上から
都電線路は緑が豊か

f:id:miwa3k:20180618152245j:plain

千登世橋

f:id:miwa3k:20180618152301j:plain

下は明治通り

橋を渡ると学習院
学習院大学正門前

f:id:miwa3k:20180618152318j:plain

学習院キャンパスの西隣りは山手線目白駅
目白駅の橋上化により架けられた目白橋の欄干が残る

f:id:miwa3k:20180618152336j:plain

現在の駅前広場と目白通りの間に一部が残されている。

駅を過ぎ、山手線の外側へ出てまだしばらく並木のある目白通りを行く。

山手通りとの広い交差点を直進し、その少し先の三叉路を右に入る。
南長崎交番の二又を右に入るのが旧道

f:id:miwa3k:20180618152415j:plain

まっすぐ行く方が目白通り、ここからいったん旧道へはいる。

こちらは”トキワ荘通り”の別名がある。
昭和レトロな建物も残る商店街通り

f:id:miwa3k:20180618152435j:plain

道とはあまり関係はないのだが、
トキワ荘といえば、これ

f:id:miwa3k:20180618152456j:plain

記念碑裏側もきちんとつくってある

f:id:miwa3k:20180618152514j:plain

こちらにはめこまれたプレートの解説を

トキワ荘のヒーローたち
トキワ荘は、豊島区椎名町五丁目(現在の南長崎三丁目)に一九五二(昭和二十七)年から一九八二(昭和五十七)年にかけて存在した木造アパートです。
上棟式は一九五二年十二月六日、当時の漫画雑誌出版社である「学童社」が、自社の雑誌で連載を持つ漫画家をこのアパートへ入居させ、そうした若手漫画家らが後に著名となったため、漫画家、漫画ファンからは聖地的な扱いをされています。
最初にこのアパートに住んだ漫画家が手塚治虫。次に入居した寺田ヒロオは、手塚の向かいの部屋に住みました。寺田は、トキワ荘に次々と入居してくる新人漫画家らと「新漫画党」を結成し、彼らが理想とする漫画を描きました。この新漫画党が活動していた頃には、通ってくる漫画家も多く、トキワ荘は”漫画家の梁山泊”といわれました。
現在、一流漫画家といわれる人たちが、青春時代、下積み時代を過ごしたトキワ荘。彼らはこの地で研究と努力を積み重ねて、今日の地位を築いていったのです。ここトキワ荘には志を同じくする若者の明るい青春があったのです。
二〇〇九年四月吉日  豊島区 トキワ荘記念碑設置実行委員会

道を西に進み豊島区南長崎4丁目付近、江戸末期の商家造りの建物が目をひく。(建物自体は再建されたもの)
岩崎家住宅

f:id:miwa3k:20180618152533j:plain

当時は肥料や糠などを商う商家だったそうだ。会社化され現在もいろいろ商売を続けられているようだ。
屋敷内の大木も立派。

先へ進むと向こう側が並木道となる交差点にぶつかる。この先は千川通り千川上水の流れが並木道をこちらに下って、交差点を北東へ直角に折れている場所だ。
千川通りの並木道を正面に望む交差点へ

f:id:miwa3k:20180618152557j:plain

個人的にはひと月ほど前に千川通りを向こうからこちらに来て、この写真右方へ曲がった場所。今度はまっすぐ行き、千川通りを以前と逆方向に歩いて行く。

千川上水としてたどった時の記録

千川上水を歩く その2 上鷺宮から西巣鴨千川上水公園 - 散歩の途中

この先豊玉北目白通り交差点まで清戸道、千川通り道筋が重複する。

江古田駅南口交差点

f:id:miwa3k:20180618152624j:plain

江古田銀座商店街には入らず、二又を左へ行く。

しばらく行くと武蔵大学キャンパス。
大学の塀の苔を写してみたつもり

f:id:miwa3k:20180618152654j:plain

すぐに環七豊玉陸橋下をくぐり、千川上水跡の桜並木が続く桜台へ。

さらに西へ進むと西武池袋線練馬駅近くには清戸道の石標と「清戸道と千川上水」の解説板(再掲)

f:id:miwa3k:20180529145454j:plain

練馬区内には”清戸道”と記された石標が何か所か建てられている。
解説板の内容は「千川上水その2」のノート中へ記したので省略。

その先、豊玉北六丁目交差点で目白通りとX字交差。
豊玉北六丁目交差点付近

f:id:miwa3k:20180618152715j:plain

千川通りから右側、目白通りへ入る。

少し先で西武池袋線の高架下をくぐってまっすぐ行き、貫井2丁目交差点のひとつ手前の二又を右に入り、すぐ左へ行く道に入る。ここが旧目白通り、清戸道旧道部分で、すぐにまた現在の目白通りと合流してしまうが、途中に貫井須賀神社がある。

須賀神社と清戸道石標

f:id:miwa3k:20180618152735j:plain

石標左側の解説板が、冒頭に文字を起こしたものだ。

目白通りの歩道を再び200mほど進んで、練馬二小前交差点を右折する。右折してすぐのところに石の道標が残る。
”東高野山道”道標

f:id:miwa3k:20180618152803j:plain

清戸道と東高野山道の分岐点らしい。

高野山とは、現在の練馬区高野台にある長命寺のことで、そこへ至る”長命寺道”と呼ばれる道がこの付近に数本あった。ここもその一本。千川上水を辿ったときも、練馬区南田中付近の千川通りで「右 長命寺道」と刻まれた道標を記録した。

横の塀にはめ込まれた解説によると、この場所にあるのは2基とも寛政11(1799)年に建てられた道標で、左は「左 東高野山道」のみ、右は東高野山の文字と、長命寺、道標の賛語が八字六句の漢文で刻まれている。
また、当時の清戸道は「所さハちヽぶ道(所沢秩父道)」と記されているようだ。
現在、右側道標の文字はかなり薄くなって所々しか認識できない。

道標の後ろですぐに左折するとゆるい坂道を下り、石神井川へ出る。
道楽橋が架かる

f:id:miwa3k:20180618152825j:plain

橋の架け替え工事の際に付近の農民を集めたところ、農繁期であったために人員が集まらず、なかなか工事が進まなかったことから、道楽で橋を架けているように見えたためにその名が付いたとされる。とうぃきぺには記されている。

橋を渡り、次の交差点脇に庚申塔と供養碑の石塔がある。(記録してなかった。)
石塔は1715(正徳5)年、石神井川のひどいぬかるみの道に石を敷く工事をしたときに建てたもので、周辺の練馬以外に清戸、秋津、所沢付近の村々からも工事に赴き、協力した人々がいたことも刻まれている。その頃には清戸道に相当する道がここを通り、重要な道路であったことの証明となる。

その先、環八の陸橋をくぐると左へ細い道が分かれ、いったん入る。そこからまた右折して元の道へ戻るので、旧道の名残りにしては少し不自然な気もするが、理由は不明。
左の細道へ入り、前方で右側の道路の先へ出る

f:id:miwa3k:20180618152850j:plain

右側の道路の先に出てから東京ガスのガスタンク群を巻いて通り、自動車学校の先でまた目白通りに復帰。

すぐに練馬区総合体育館があり、その敷地と通りの間に清戸道の碑と解説板がある。練馬区内ほかの場所とほとんど同じものなので省略させてもらう。

体育館のすぐ先は谷原(やはら)交差点。現在ここを交差する大きな道路は目白通り笹目通りだが、富士街道も横切っていて、六差路だ。富士街道は古道の「ふじ大山道」に相当する。
この交差点に横断歩道はなく、歩道橋で渡る。

谷原交差点手前(東側)から

f:id:miwa3k:20180618152933j:plain

歩道橋を渡って西側から

f:id:miwa3k:20180618152951j:plain

左側がふじ大山道にあたる富士街道、右側が目白通りの続きだが、都道の番号が8号から24号になる。

 この先引き続き目白通りを進むが、内容が長くなったのでいったんここで区切りとする。