散歩の途中

iPhoneもって散歩しながらあれこれ観察したノート

中川:平井大橋から新中川分岐間

旧中川ー中川ー新中川と歩いたまとめの2つめは中川。
この川の延長は83.7kmとかなり長いけれど、今回はそのごく一部、江戸川区葛飾区境界の平井大橋から葛飾区高砂の新中川との分岐点の間。旧と新の「つなぎ」感は否めないが。

3回分の足あと、地図

前回の旧中川

荒川に分断された旧中川の上流端まで来て、中川の続きを追いかける。

木下川水門(きねがわすいもん)付近の荒川

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旧中川の上流端になる地点。荒川がなかったころは前方からこちらに中川が流れてきて、ここより下流は現在の旧中川の流路を流れていた。荒川対岸、右側の小ぶりな斜張橋の右下に中川水門、その向こうに中川が流れているのでそこをまず目指す。

荒川と中川を平井大橋で一気に越える

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平井大橋は橋長616m。

橋の上から荒川

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中川左岸側へ渡り、中川水門(首都高高架下)、上平井水門(右)

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現在の中川は荒川と接する地点からたがいに並行して流れている。荒川と中川を隔てる堤防上を首都高速中央環状線が通る。
中川水門は船の通航に使用されている。こちらは旧中川と違い、ロックゲートは必要ないようだ。

右の大きな上平井水門は中川、綾瀬川への高潮遡上を防ぐ目的でつくられている。水門のすぐ上流側が中川と綾瀬川の合流点。

上平井水門、近くから

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現在耐震補強工事で一部の水門が閉鎖中。
水門うしろは首都高かつしかハープ橋

かつしかハープ橋の下から中川・綾瀬川合流点

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右側が中川。左側は綾瀬川が、さらに上流から荒川と並行して流れ、ここまで来ている。

その対岸から

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手前は上平井橋。下の流れは中川。

上平井橋の上流側から川沿い両岸にテラスになった歩道が整備されている。

中川左岸緑道公園(葛飾区西新小岩5丁目付近)

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旧中川のような河原はないが、最近整備された遊歩道があり、ずっと歩いていくことができる。

平和橋

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大きくカーブする流れ(葛飾区奥戸1丁目付近から)

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前の写真で前方に見えていたあたりから振り返って

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奥戸橋上から緑道公園遊歩道建設工事現場

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奥戸橋手前までは遊歩道ができていたが、その上流側は現在延長工事中。
作り方を垣間見ることができて、個人的に興味深かった。

奥戸橋で右岸に渡り、ちょっとだけ寄り道。

帝釈天王石柱(葛飾区立石8丁目)

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柴又帝釈天への道(帝釈道)が通っていて、立石の中川堤防近くのここが立石道との分岐点。立石道は古代東海道とも言われる街道である。石柱左側には「文政三庚辰歳四月」とあり、1820年の建立。
付け加えるなら、堤防沿いの道は鎌倉古道としても歩いたことのあるところだ。

帝釈道をほんの少し行き、道を折れたところにある小さな児童公園の中に「立石様」の史跡がある。

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文字起こし。

東京都指定史跡
立石(たていし)
立石は、中川右岸に形成された自然堤防上に位置する石標です。石材は千葉県鋸山(のこぎりやま)周辺の海岸部で採集された、いわゆる房州石(ぼうしゅういし)で、最大長約六〇センチメートル、最大幅約二四センチメートル、高さ約四センチメートルが地上部に露出しています。もともとは、古墳時代の石室を作るためにこの地に持ち込まれた石材と考えられます。
一般的に「立石」という地名は、古代交通路と関係が深い地名で、岐路や渡河点などに設置された石標に因むとされています。この立石のある児童遊園の南側、中川に接する道路は、墨田から立石、奥戸を経て中小岩に至り、江戸川を越えて市川の国府台へと一直線に通じており、平安時代の古代東海道に推定されています。そのため、この立石は古代東海道の道標として建てられたと考えられます。
江戸時代後期以降、立石は寒さで欠け、暖かくなると元に戻る「活蘇石(かっそせき)」として、『江戸名所図会』などの地誌類に多く記載されるようになります。立石が玉石垣で 囲われるようになったのは文化年間(一八〇四~一ハー八年)以降で、その周囲には柳や小竹が繁茂する、社義(しゃそう)を呈していました。
『雲根志』には、立石が高さ二尺(約六〇・六センチメートル)程度であったとされていますが、御神体として祀られて以降、風邪の煎じ薬や、愛石家のコレクションとして人々に削り取られていきました。また、御守として戦場に持参したという言い伝えもあり、その結果、現在の高さに至っています。
なお、大正一二年には人類学者の鳥居龍蔵(とりいりょうぞう)がこの地を訪れ、石器時代人が信仰のためか、墓標として建てたものと結論づけています。その後も中谷治宇ニ郎(なかやじうじろう)、大場磐雄(おおばいわお)ら考古学者により、先史時代の思想や信仰を明らかにする遺跡として取り上げられてきました。
東京低地における古代の交通史、近世以来の民間信仰をうかがい知ることができ、日本先史時代の研究史上重要な遺跡です。
平成二七年三月建設 東京都教育委員会

公園東側から

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寄り道ここまで。川沿いにもどる。

奥戸橋上から上流側

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このへんは堤防外側の歩道を歩く(葛飾区青戸1丁目)

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京成線青砥駅をかすめ、その先で青砥橋を渡る。

青砥橋上から上流側

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正面左へ屈曲して中川上流側に高砂橋、そこから右の方へ分かれて行くのが新中川、手前へ中川である。

あおとばし(青砥橋)

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後ろは環七通り、交通量は多い。

中川、新中川分流点付近から中川上流方向

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左へ中川、右へ新中川が分流する。正面高砂橋。
この先は新中川のノートに譲ることにする。