桃園川跡を追いかけて行った同じ日に、さらに表記の川と水路の跡を歩いた。全部一気に歩いても大した距離にはならないと高を括っていたがさにあらず、終盤疲れて手抜きになっていたことは否めない。
桃園川界隈の暗渠を辿って荻窪駅近くに出たので、丸の内線で中野坂上へ出る。朝のスタートもここだったのでこの日2回目。
地下鉄中野坂上駅出口
朝とは別の出口、桃園川は駅から見て北方向、笹塚支流は南方向なので。
でもどちらも神田川に注ぐ川、合流点の間の距離は1km程度、笹塚支流が上流側で合流している。
中野坂上駅から神田川へ出るには坂を下っていく(って桃園川でも同じことを書いた)。
神田川・菖蒲橋(あやめばし)
中野区本町1丁目と新宿区西新宿5丁目の境界、東京都庁の建物も右端に頭を出している。この橋のすぐ下流側に笹塚支流の水の出口がある。
歩いた跡を貼り付けておく。
神田川笹塚支流、玉川上水新水路足あと
ここが合流地点
神田川笹塚支流はそのまた支流等を含め、1963(昭和38)年頃にはすべて暗渠化された。現在暗渠のなかは周辺の下水が流れている。集められた下水は水再生センター(下水処理場)へ流れていくため、通常時は笹塚支流を流れる水がここに出てくることはない。でも結構大きな穴があいている。
対岸の穴の上へ
合流点近くの歩道(2017/08撮影)
前方柵の向こうが神田川本流で、歩道の下が先ほどの合流点(流れの出口)。
通り1ブロック分さかのぼったところ
川跡は遊歩道、古い橋の欄干が残る(真ん中切れているが)。向こう側は児童公園。右向こうの親柱に”長者第一號橋”の文字があった。
次の通りに架かっていた羽衣橋の親柱
暗渠好きな人にとっては名所?
羽衣橋親柱の右側にもちょっと写っている、ぶた、ぶた、かば。(暗渠なみなさんこの絵を使いますね。)
この本の表紙イラストにも
そのすぐ先は柳橋跡
右に「柳橋」、左に「昭和七年九月廿日成」。
この付近、住所でいうと新宿区西新宿5丁目、細い道路に昭和の雰囲気が残る素朴な商店街。
もう少しさかのぼると地下鉄西新宿五丁目駅に出る、そのやや手前
新宿区内の川跡はこんなかんじ。
この周辺の変化を後に再び記録しました。
方南通り先の都道を西新宿五丁目駅直上で越えて、反対側に出ると
駅の駐輪場
駐輪場を過ぎると渋谷区にはいる。
山手通り、方南通りの交わる清水橋交差点。清水橋は笹塚支流に架けられていた橋の名前。
交差点近くにかつての清水橋の親柱と欄干の一部が保存されている
現在の清水橋交差点(2017/08撮影)
かつての川と橋のモニュメントが歩道にあった。
二軒家橋跡から下流方向(2017/08撮影)
ここは古い橋は残っておらず川跡はカラー舗装。厳重な車止めの柵は人が入ることも拒んでいるよう。
村木橋
この橋は欄干も完全な姿で残っている。川跡の舗装の色はもう少し工夫できなかったのかな。
新橋
橋は川から一段高いところに架けられ、現在は歩道からスロープが取り付けられている。
支流の合流点
向こうから来る道路は笹塚支流のさらに支流が流れていた場所。ここで合流していた。
その支流を歩いてここまで戻ってくる予定だったが…来てない。
中幡小学校東側(下流方向)
この色の舗装の歩道があるのはここまで。
中幡小学校東側で合流する支流跡
1枚上の写真の右側(南側)、道路をはさんだ向かい側の路地にあたる。
中幡小学校西側で別の流れ
このあたり笹塚支流としての流れが何条(幾筋)にも分かれていた、まさに「川」の字そのもの。そのうちのひとつの流れ跡。
この左側には武の湯という銭湯があった(その真裏にあたる)が、マンションに変わっている。
道路舗装に浸みこむ溝跡
正面の家の間につながっていく。
その先を追いかけていく
左側は笹塚中学校校舎。
玉川上水新水路脇を流れるようになる
右側土手は玉川上水新水路(水道道路)、明治になって人工的に築かれた土手で、左下を流れていた笹塚支流が削ってできた崖ではない。
玉川上水新水路はのちほど少し。
渋谷区・杉並区境界近くまで来ると笹塚支流もだいぶ上流部、
そこに小さな橋跡が残っていた
上の右側(ちょうど手前の車止めポールで隠れてしまった部分)に「堺橋」の文字があった。
もう少し水道道路に沿って先へ歩くと環七通りとぶつかる泉南交差点に出る。
環七を越えた先のマンホール密度が半端じゃない
なんつーか
そんなかんじで下ばかり見て歩いていたら、路地が突き当たって行き止まりになった。鶴が久保とも言われているようで、ここが笹塚支流の源流である。
その先は東京都水道局和泉水圧調整所。大きな丸いタンクが2つ、甲州街道からも見えるところだ。
そのすぐ北側にもう1本の流れの源流があるはず。
このへんに源流があると思うが、はっきりしない
後ろ側が細長い公園になっていて、元々その部分は玉川上水新水路跡の一部である。環七より下流側の新水路跡は水道道路になっているが、和泉水圧調整所から環七までの区間は生活道路や公園などになっている。
公園の横側に現れる側溝(下流方向を向いて)
「北側のもう1本の流れ」が突然現れる。
先まで行って振り返る
こちらもこの先流れ下って環七泉南交差点を越えていく。その先は先ほどたどって上がってきた川跡に沿って下っていく。
支流へ
小さな欄干が残っていた堺橋のすぐ上流側で合流している小さな支流がある。水道道路と甲州街道を越え、玉川上水から流れてくるのでこれを追ってみた。合流点はわからなかったが、甲州街道を越えた南側に跡が残る。
その真後ろ
コンクリート蓋の上に物置など置かれているが、その先へつながっている。(向こうが上流方向)
京王線の下をくぐり、ビルの下から道路上に唐突に流れのあとが顔を出す。
以前はここに橋があったのか
角度を変えて
正面へ進んでいくと
次の道路との交差部
さらに
玉川上水緑道との交差部
右端に玉川上水緑道の名標。
ここから正面の路地へ流れがはじまっている。(世田谷区大原1丁目付近)
この流れは玉川上水からの分水?
玉川上水旧水路から環七通りに出て甲州街道大原交差点を越え、さきほどの泉南交差点へ戻る。ここで交差しているのが玉川上水新水路跡で現在は水道道路。泉南交差点より西側は細い道(や公園、先ほど通ってきた)だが、東側は2車線の道路になり、新宿中央公園近くまで続く。
解説板があったが文字が薄れていたので文字起こししたものを
玉川上水新水路跡 笹塚三丁目17番
江戸市民の上水道であった玉川上水旧水路は、多摩川羽村から四谷大木戸まで掘り割りのため汚染がひどく、明治十九年(一八八六)には、コレラが流行したこともあって、改良水道が早急に必要となりました。
新水路は、代田橋付近から分水し、この前の通りを淀橋浄水場(現在の新宿中央公園あたり)まで送水するため築堤工事が行われ、明治二十九年(一八九六)にはほぼ完成しました。
この新水路にかかる橋には、新宿から順に番号が付けられ、その番号が通りの名称となり、この横の通りは十号通りといいます。なお、新水路は関東大震災により損傷したため昭和十二年(一九三七)甲州街道道路下に別の水路を設け、この水路を廃止にしました。その後、今のような道路に姿を変えました。
渋谷区教育委員会
付け加えると、水路を廃止したあとは築堤を崩して元の高さに戻す予定だったが、太平洋戦争の影響で工事ができなくなり、残った土手は道路となって現在に至るということ。
その水道道路に沿って長い区間にわたり都営住宅がつくられていて、そのアパート群も今に残る。
水道道路沿いの都営住宅
道路南側は長い距離、このようなアパートが一列縦隊で連なっている。
新水路跡といっても水路自体はすでに存在しておらず、土手の上のただまっすぐな道路を歩いているだけで、特に感慨はない。
泉南交差点から本町ずい道公園(渋谷区本町1丁目)まで歩いて、築堤の下へおりた。ここに笹塚支流の支流が横切っている。(「地蔵窪流」と呼ぶ人もいる)
ずい道公園下のトンネル(本町トンネル)
築堤の建設で街が分断され、行き来が不便ということでトンネルが掘られた。そのひとつがここ。
支流の流れはこのトンネルは通過しておらず、少し横を暗渠で通り抜けている。
その暗渠道
これを先へ行くと甲州街道にぶつかり、その先が玉川上水(旧水路)になる。
こちらも先ほど大原交差点近くの支流同様、玉川上水付近から流れがはじまっている。(分水なのかは不明だが、勝手に水を分けちゃった的な非公式の分水という気がしないでもない)
再び本町ずい道まで戻り、もう少し「笹塚支流の支流(地蔵窪流)」の下流方向へ進む。この支流がまた別の支流と合流しているところがある。(合流点はせまい路地のY字路で俯瞰できなかったため写真はない。)
もう一方の支流、上流側へ向かう。
こちらも小さな流れの跡
旗洗池流、出羽様池流などと呼ぶ人もいるようだ。2つの池を源流にした小さな流れ。
この流れも途中玉川上水新水路(水道道路)と交差していて、近くに
本村ずい道
これをくぐり、水道道路南側へ出てくる。
出羽様池流側へたどっていく
流れの横に、井戸の跡かな
もう少し行くとこの流れは新国立劇場北側に出る。
そこは現在テニスコート
左側が新国立劇場の建物、左うしろには東京オペラシティがある。ここはかつて松江藩主松平出羽守の抱屋敷があった場所で、屋敷内にあった池(出羽様池)が先ほどの流れの源流のひとつになっていたとのこと。ということはここに湧き水があったということか。
本当はもう少し流路跡をたどってみたかったが、さすがに疲れてしまって雑になってきた。この日はここまでとした。