散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

千川上水を歩く その1 玉川上水分水口から上鷺宮

千川上水(せんかわじょうすい)を歩いた。2回に分けた前半は上流側、玉川上水分水口から下流に向けて歩いて行く。

千川上水

千川上水は、玉川上水の水を境橋(武蔵国多摩郡保谷村、現在の西東京市新町と武蔵野市桜堤の境界)付近で分水し、素掘りの水路を開削して、1696(元禄9)年に開通している。水路はほぼ東方向へ流れ、江戸城北地域の幕府諸施設(小石川御殿、湯島聖堂、上野東叡山、浅草寺など)へ引水され、本郷、下谷、浅草方面の飲料水としても使用された。
のちには農業用水としても利用されるようになり、千川上水からの分水も多く設けられた。明治時代以降も工業用水として、1971(昭和46)年まで利用されていた。
境橋の玉川上水分水口から豊島区の千川上水浄水場跡(千川上水公園)まで、22kmの水路とされるが、現在は上流側約5kmが開渠で、玉川上水から分けられた水が流れる。下流部は暗渠となっているが、水は流れていない。暗渠上部は都道千川通りになっている。

千川上水足あと(その1は青色ライン)

 

まず玉川上水分水口近くの、五日市街道境橋交差点を目指す。
JR中央線武蔵境駅に降りて、駅前を通る都道123号を道なりに北に進む。

境橋交差点

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バイク通過中のゼブラゾーン直下には玉川上水の流れがあり、右側には境橋の低い欄干がみえる。正面奥、木立ちの連なりが千川上水、遊歩道がここからはじまっている。

境橋の少し下流側に現在の分水口があるが、このとき立ち寄るのを忘れてしまった。以前玉川上水を歩いた時のを
分水口

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手前から向こうへ玉川上水の流れ。左側に少しだけ見えている部分で水が分かれ、千川上水へ流れていく。この分水口、建設当時は「3尺5寸四方の水門をもって」分水していたとのこと。
この分水口の玉川上水すぐ下流側には別の用水路、品川用水の分水口があった。

現在ここを流れる玉川上水の水は、多摩川で取水されたものではなく、昭島市内にある多摩川上流水再生センターで下水を処理再生した水である。したがって千川上水に分かれていく水も同じものとなる。*1

五日市街道側へ移動して
千川上水の流れはじめ

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玉川上水の分水口から分けられた水がこちらへ導かれ、置かれた大きな石の間から流れ出している。

境橋交差点からはしばらく五日市街道の中央、上り車線と下り車線の間が千川上水の緑道になっている。

緑道から

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左右両側が車道、並木が続きそこに歩道と上水の流れがある。

水辺近く

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関前5丁目交差点

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時々道路が交差し、歩道は分断される。歩道の先へ移動するのに横断歩道を都合3回渡る必要があり、正直面倒くさい。

車道外側からみた歩道の並木(関前5丁目交差点近く)

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武蔵野大学前交差点にて

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ここで五日市街道の中央を通っていた水路と歩道は横に寄り、街道の分離帯はなくなる。緑道はこの先も続く。

近くに大きな庚申塔があった。
文字庚申塔

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千川上水と直接関係あるかはわからないけど、解説板つきで写したのでその文字を

西東京市指定文化財第二十号
文字庚申塔(もじこうしんとう)  天明四年(一七八四)建立
現新町の全域は、江戸時代の享保九年(一七二四)から上保谷新田として開発された新田村でした。それから六十年後の天明四年(一七八四)九月、この大きな文字庚申塔は、上保谷新田の入口に建立されました。塔右側面の銘文中に「願主新田中」とあるのは、新田村の全戸によってこの庚申塔が造立されたことを意味します。塔正面の左脇に、他の庚申塔には例を見ない「五穀成就」と彫られています。村中あげて穀物が実ることを庚申に祈った、その願いを読みとることができます。この塔造立の前年の天明三年は、浅間山の大噴火・洪水・冷害が重なって江戸時代最大の飢饉が始まった年であり、翌天明四年は関東各地にその影響が及びました。村の入口から飢饉が侵入しないようにと、それを防いでくれる庚申の強い霊力に祈願して建てたのが、この塔であったはずです。
塔の下部には十万に通じる道しるべを銘文して、上保谷新田の地理的な位置を示し、上端に庚申の種子「※*2」(ウン)、下端に三猿を刻んで庚申の像容の一部を表現しています。天明四年の原位置は、現在の場所とほぼ同じであり、塔の正面は東方を向いていました。
昭和六十一年三月   西東京市教育委員会

そして先の交差点を渡った先には”石橋供養塔”ともうひとつの庚申塔があった。

石橋供養塔、庚申塔

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石橋供養塔
五日市街道と千川上水が交わるこの地に、古くから橋が架けられていた。この橋は井口橋と称し、修補を加えながら人びとに利用されてきたが、天保十二年(一八四一)八月に至り、関前村々民の総意に基づき、さらに近隣諸村の助成を得て石橋に架け替えられた。この石橋供養塔は、その完成を記念するとともに、石橋を供養するために建てられたものである。橋の供養は悪霊の侵入を防ぎ、神を慰めるとの願いを込めたもので、これにより当時の人びとの橋に対する思いの一端が知られる。本市内ではこの種の供養塔は現存する唯一のものである。
なお、かたわらの庚申塔については、制作年代が天保十一年(一八四〇)二月であること以外、願主の名前・由来などの詳細がまったく不明であることを付記しておく。
平成十四年十月   武蔵野市教育委員会

こちら側は武蔵野市だったのか。

供養塔付近の千川上水

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葭窪橋(よしくぼばし)

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上水を横切る橋にはこのような歩行者専用のものも多くある。

西東京市東伏見4丁目付近

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五日市街道と並行していた水路はこのあたりで離れ、住宅地のなかを流れて行く。

更新橋付近(練馬区関町南4丁目、武蔵野市緑町3丁目境界)

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左側に庚申塔を祀った祠がある。庚申塔がある場所の橋で「庚申橋」表記のはずが「更新橋」に変化したのだろうか。祠の正面に解説「更新橋の庚申塔」があったが説明はなかった。
祠のなかも暗く、庚申塔の詳細はわからなかったが、解説板によれば青面金剛像、鬼、三猿が刻まれた典型的な庚申塔のようだ。

そこからさらに東へ流れを下る

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練馬区関町南4丁目、武蔵野市吉祥寺北町5丁目境界。

その近くには千川上水に沿って畑もまだ残っていた。

水路と畑

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向こう側にある石塔は「千川上水施餓鬼亡霊供養塔」といい、上水で溺死した子供の霊を慰めるため、1908(明治41)年に地元の人々が建てたものだそうだ。昔は水路に柵などなかっただろう。
供養塔は道標にもなっていて、右田無小金井道、北関青梅街道、左吉祥寺停車場井之頭道とある。

次の橋からふりかえって

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関町南2丁目付近

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流れが見られる区間ももうそろそろ終わる。

青梅街道関町1丁目交差点手前

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正面の穴の向こうは暗渠となる。かつてはこの場所に井草村分水(多摩六ヶ村分水とも)の分水口があり、千川上水の水が分けられていた。

道路は左へカーブして青梅街道を渡ると、その向こうは「千川通り」となる。昔の千川上水の流れ跡はこの先ずっと千川通りとなる。

ただ、通りの下に暗渠は残っているそうだが、現在ここに見える水は流れていない。この水は別の導水管を通って、善福寺池から流れ出した善福寺川の最上流部に接続されている。善福寺公園入口近くにある美濃山橋の下にその放流口がある。
善福寺川を歩いたときの放流口の写真があった。

美濃山橋下部から

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左から流れ込んでいるのが千川上水からの水。手前は善福寺池から、向こうへ善福寺川として流れて行く。

 

元へ戻って
青梅街道を横断し、千川通りのはじまり付近

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こちら歩道側が流路跡を整備した道。この先わずかな区間だが、練馬区千川上水緑道が整備されている。

その先、立野橋(かつて千川上水にかけられた橋の名前だろう)の交差点脇にも「上石神井立野の庚申塔」と「出羽三山・百八十八ヶ所観音供養塔」の祠があった。

またその先、上石神井千川児童遊園のなかに、かつてこの付近にあった水車をイメージした遊具と水車の解説があった。
水車をイメージした公園の遊具

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奥の解説から

千川上水の水車
千川上水は、元禄9年(1696年)につくられ、飲料水や灌漑用水だけでなく、水車にも利用されてきました。最盛期には、この流域だけで10基以上の水車があったといわれていますが、今では、その姿を見ることはできません。
この児童遊園のそばには、昭和40年頃まで水車が回っており、区内でも一番最後まで、上水を利用し、粉が碾かれていました。

さらに先へすすむと西武新宿線の線路と交差するが、その手前、車道より一段高くなった歩道が続く。水路の痕跡で、妙正寺川の支流、井草川をまたぐために高くしたそうである。(井草川も現在は暗渠でその流れは見えない。)

そして踏切付近に上水の流れ跡が少しだけ顔を出すところがある。
かつての流路跡

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線路部分はまだ橋になっていて「千川上水橋梁」の標示がある

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この付近ではすでに通水されていないので枯れ川状態ではある。

これより先は流れの痕跡を直接見ることはできず、千川通りに沿ってずっと歩くだけになる。

千川通り、旧早稲田通り交差点付近

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西側を見ている。道路こちら側は練馬区南田中、向こう側は杉並区井草。バス停「八成橋」は千川上水の橋名。

橋があれば道があったはず、その近くには道標が残されていた。

長命寺

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「右長命寺道(みぎちょうめいじみち)」道しるべ
江戸時代に立てられた道標です。高野台の長命寺方面と江古田、落合方面との岐路を示しています。
ここには、かつて千川上水が流れており、三兵橋が架かっていました。その傍らに東を向いて立てられていました。その位置は西側の道路脇となります。
平成一七(二〇〇五)年五月   練馬区教育委員会

もう少し先へすすむと中野区境界

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電柱の上鷺宮は中野区、バス停の富士見台1丁目は練馬区の地名。

もうちょっと先まで千川通りを歩き、西武池袋線富士見台駅へ出て今回は離脱。
今回の歩きはいつもより短め。

*1:下水処理水といっても一般処理水をさらに高度処理したもので水質は悪くない。

*2:梵字があったが入力を断念。