散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

相模川高田橋から三増合戦場、志田峠を経て津久井湖へ歩く

相模原市中央区上溝から相模田名を通って相模川、高田橋を渡る。愛川町に入って三増(みませ)、戦国時代の北条・武田の合戦場跡の碑を見て志田峠へ。峠を越えて相模原市緑区の韮尾根(にろおね)、城山の姿を確認しながらその麓をまわり込み、城山公園から津久井湖のほとりへ出る。というコースでのハイク的歩いた記録となります。

足あと

最初はJR相模線番田駅で下車。

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駅から西の方へ向かい県道との田尻交差点に出ると、いくつかの石塔が目に入った。今日は街道歩きじゃないけど記録しておこう。
大山道道標にもなっている不動尊馬頭観音など

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ここは大山道、八王子道と呼ばれる古い道の辻になっているらしい。刻まれている文字は風化が進んでいるものもあって、現場ではあまり情報が得られなかった。

県道を渡り、次に国道129号を渡ると、その向こうに横浜水道みちの歩道が通る。そこを少し先へ行く。
横浜水道みちの歩道

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1887(明治20)年に給水開始された横浜上水道の原水を、津久井郡三井村(現相模原市緑区三井)から横浜野毛山浄水場まで運ぶため、水道管を敷設したルート上が歩道になっている。

このへんがたどったときの過去ノート

横浜水道みちを歩く その1 青山水源池と三井から上大島まで - 散歩の途中

横浜水道みちを歩く その2 上大島から南町田まで - 散歩の途中

今回はわずかな距離だけこの歩道を歩き、すぐに西側へそれる。

その先は崖になっていて坂を下りる。
段丘上から下の面を見る

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相模原市東南部はおもに相模原台地相模野台地)が占めているが、この台地は相模川による侵食のされ方によって、高さの異なる複数の面を持っている。ちょうど段々畑みたいなイメージ。

ちなみにスタートした駅前からここまでは田名原面、この下が陽原(みなばら)面という名前が付けられている。両面の段差はこの付近で15m程度。

崖線を下りると崖下の湧水などを集めて小さな川が流れていた。
八瀬川と左は農業用水路

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前方の暗いところが崖。周囲は東京の武蔵野台地でよくいわれる、「ハケ」「ママ」(いずれも崖の意)の様子とよく似ている。

陽原面からもう一段下へ

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また崖を下る。この下は現在の相模川の流れと同じ高さで、こちらの段差は25m程度。

少し先を相模川が流れている。川べり、橋のある場所に出て対岸へ渡る。
相模川高田橋

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相模原市側から見た橋。向こう側は愛川町

高田橋上から相模川上流側を望む

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鮎釣りの人がたくさんいた。

愛川町に入るとまたすぐに段丘を登り返す。
上り坂を途中でふりかえって

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ちなみに相模川右岸、愛川町側の段丘は中津原台地と呼ばれる。台地面はこの付近で130mから150mあるので相模川との標高差は80~100m、そこを登るのでこちら側は結構な坂道。

台地に上がると相模メモリアルパーク手前を通過して、三増(みませ)へと向かった。
途中の茶畑から丹沢東端の山々

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三増交差点

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ここを左に入る。向こうへ行くのは県道65号(厚木愛川津久井線)、愛川町の幹線道路である。

県道を折れて少し先へ進むと開けた場所へ出てくる。

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道路左側一帯は大きな養鶏場になっている。採れた卵の料理やお菓子を出す店があり、車で来ている人で結構にぎわっていた。

養鶏場と反対側の風景

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この付近は「三増峠の戦い」などと呼ばれる、1569(永禄12)年の北条氏、武田氏の間で行われた合戦場だった。

三増合戦場の碑

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養鶏場から5~600m先の小さな交差点の横に碑が立つ。左右に”合戦陣立図”と解説板がある。さらに左側は供養塔などで、最近になって近隣の畑の中から発見された、戦死者の人骨を埋葬しているそうだ。

解説板の文抽出。

三増合戦のあらまし
世は戦国、永禄十二(一五六九)年十月。小田原攻めの作戦を計画した甲斐(山梨県)の武田信玄は主力二万を率いて、小田原城北条氏康を攻めた後、「鎌倉鶴岡八幡宮へ参詣」と偽りの報を流しながら撤兵し、平塚で進路を北に変え、甲斐への道をとった。
この情報を得た氏康は、敵は必ず三増峠を越えるものと判断。子の氏照、氏邦、一門の綱成ほか関東各地の将兵ら二万を向かわせた。
先に三増の地に着いた北条方だが、いったん半原台地に退き体制を整え、その上で武田方に対陣しようとした。この間に武田方は、三増の高地に陣を敷き、旗を立てた。また、津久井城にいる北条方の動きを押えるため、重臣の一人小幡信定の隊を津久井長竹に配置した。
陣容を整えた北条方は、志田、道場、町屋の原に兵を進め、ここに三増合戦は開始された。激闘は北条方有利のうちに展開。武田方の侍大将浅利信種は、綱成の部下が放った鉄砲で胸を撃たれて戦死した。北条方は武田方を高地の下まで追いつめていった。
しかしこの時、先に中峠を登っていった武田方山県昌景らの指揮する五千の精兵が山の向うで折り返し、志田沢沿いをくだってきて北条方の側背に現れた。これを機に武田方の旗本が真正面から攻めかかったことで、北条方は総崩れとなり、中津川を越え、半原山に逃げた。
氏康の嫡男氏政以下一万の本隊は、荻野新宿(厚木市)まで駆けつけてきたが、時すでに遅く、敗軍と聞いて小田原へ引き返した。
信玄は長追いをせず、軍勢をまとめて串川(旧津久井町)から反畑(旧相模湖町)に出て、ここで戦勝の式を行い戦死者の供養をし、翌日甲府に向けて帰陣した。「甲陽軍鑑」によると戦死者は北条方三二六九人、武田方九〇〇人とあり、戦いの激しさを示している。
平成三年二月 愛川町教育委員会

三増合戦陣立図

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文字が小さくて見にくいのだが。赤が北条、黒が武田、現在地は図中にないが、北条軍の最前線あたりだろうか。北条軍のまわりに3つの沢、南側大将の前に中津川が流れる。武田軍の北側には串川があり、その向こうに津久井城山が砦のように描かれている。大外をまわるのは相模川

これから両者の間、まさに戦場となったであろう場所を通って北側武田軍の陣地の方へと歩いていく。

三増合戦場石碑横の道を右折し、北西方向へと進んで志田峠をめざす。
石碑横の交差点にある道標

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立看板の後ろあたりに見える道を行く。

しばらく行くと東名厚木カントリークラブ入口に信玄が旗を立てた「旗立松」の案内看板があったが、ゴルフ場の敷地内を示しているようで入っていくのはやめた。(後で調べてみると旗立松までは入って行けるようだ。)

ゴルフ場入口近く、志田峠へ向かう道

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周囲は住宅地というわけではないのだが、この付近は手入れがされている。

その先、だんだん道の勾配が出てきて、道路の舗装が途切れ、山道の雰囲気。
森の中へ入っていく

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けれど山道らしい区間はあまり長くなかった。峠へ近づくと斜面を大規模に工事中。周囲の樹木を全部切り払い、土が露出していた。

何の工事なのかこのときは不明だった

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ただ、樹木がないので遠望はきく、という事だけは言える。
向こう側からこちらへ上がってきて、この背後もう少しで峠に着く。

志田峠に到着

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峠の標高は310m、道標によれば三増からの距離2.5㎞である。後ろには馬頭観音などの石塔がいくつかあるが、壊れたり、摩耗の激しいものも。

しかしなんといってもこの背後は大規模な工事現場、どうやら工事残土処分場と化しているのだとか。何年も前から大量のダンプが行き来していたらしく、峠からこの先相模原市緑区方面への道路は舗装拡張されて山の中とは思えない。もしかして最近近くにできた高速道路(圏央道)のトンネル工事か何かの残土捨て場になったのだろうか。

今回のウェイポイントのひとつに着いたものの、なんだか落ち着かなく、峠の向こう側へすぐに歩いて行く。
峠の向こう側はまた森の中、舗装拡張された道路が不自然ではあるけれど、ダンプなど大型車の往来はなく、ほっとする。

下り坂が続き、その途中、お寺への分岐点

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左は峠から下りてきた道、右側奥には朝日寺(ちょうにちじ)への長い階段が控える。

朝日寺への石段

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300段以上あるらしい。全部見えているのかわからない。
詳細は省略するが、ここではとても変わった雰囲気を感じ、階段を上がらなかった。

元の道へ戻り先へ、もうしばらく下り坂が続く。
関東ふれあいの道”の志田峠から韮尾根(にろおね)バス停への分岐点へ

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道路向こうが志田峠なので振り返ってみている形。道路向こうにある看板には”東京農工大フィールドミュージアム津久井”、実習農場のような施設か。

こちらも道標に従って韮尾根バス停方向へ。
折れるとすぐに視界が開ける

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ここは牧草地にも見える。先ほどの大学施設の敷地かもしれない。

野辺の石仏、みたいな

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このあたり周囲は一面草地。石塔は草に埋もれて頭の見えないものもあり、結構たくさんある。
そういえば津久井と呼ばれるこのあたり、歩いていると大きな石塔をあちこちでたくさん見かけたことを思い出した。二十三夜塔なんていうものを知るきっかけになった場所だ。(説明省略御免)

また、関東ふれあいの道道標

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いちばん上の標識に津久井湖の文字がある。自分も津久井湖に向かっているけど、この道標に従うと向こうの山頂まで登っていくコースになる。そちらは省略してあまり勾配のない道を行く。また、ここで韮尾根のバス停へ出ることもできるが、バスの便は日に数本とよくないらしい。

それにしてもこのあたりはのどかで眺めも良い。

広い草地を過ぎ、畑の広がる場所を通り、ゆるゆると下りてくると、串川のほとりへ出る。三増合戦陣立図中で武田方陣地背後に描かれていた川だ。図中で川の後ろには(北条方)津久井城があった。
串川下流側、向橋から

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川が流れる場所は谷になる。川を越えて反対側はまた上り坂となる。

串川左岸側の段丘へ上る途中に「古戦場 圍ひ沢(隠し沢)」と題された解説板(昭和53年旧津久井町設置)があった。曰く、北条・武田三増合戦時、北条氏出城である津久井城牽制のため、武田方の兵約1200人が付近の沢に隠れたのでこの名がついたと書かれていた。

隠し沢あたり、沢の上側から

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杉林の中に沢が流れているが、それ以上のものは読みとれなかった。

この坂を上がりきると一般道を通り、城山のふもとへ向かう。
畑の向こうに見えるのが津久井城のあった城山

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城山近くまで来て、津久井湖城山公園に入り、山麓をまわり込む。
公園内から見る津久井湖

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津久井城址のある城山山頂は標高375m、間近からだと山の傾斜がきつく見え、まだ山の上へは上がったことがない。この日もパスしてしまった。

遊歩道と紫陽花

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津久井湖畔まで下りてきて、城山ダム

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ダム堤体上(天端という)を国道(413号)が通るという異色のダム。

その国道を歩いてダムを渡り、湖反対側の公園から

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左側に見える斜面が城山。

少々疲れ気味、天気も急に下り坂なのでこのあたりで切り上げることにした。
ダムを通る国道はバスの便数もある。近くのバス停からバスに乗り、橋本駅へ出た。