散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

品川用水跡を下る その1 玉川上水分水口から目黒区鷹番

品川用水の跡をたどって歩きました。

◆品川用水とは

品川用水は江戸時代に開削され、現在の品川区の広いエリアに農業用水を供給した用水路である。この用水は玉川上水からの分水で、分水口武蔵国多摩郡境村(現在の武蔵野市境3丁目付近)にある。当時すでに存在していたここの分水口からの水路(現在の調布市仙川方面に供給する灌漑用水路、仙川用水がすでにあった)を途中で分岐、延長する形で、工事は1667(寛文7)年に開始、開通は1669(寛文9)年、メインストリームの長さは約25kmに及び、末端では広い地域の田畑に水を供給するため多くの支流が分岐していた。
明治時代以降は品川区周辺の都市化等で需要が減少、その後部分的に暗渠排水路にされるなどしたが、戦後まもなくに水路はほとんどすべて埋められて、その跡はおもに道路に変わっている。

用水が流れていたところと終端部分で関連する河川について、図で示すのがわかりやすいので行程(足跡)と別に地図を置いてみた。
品川用水の流路と関連するいくつかの川、水路の地図

品川用水行程

こちらは歩いた足跡である。

 

玉川上水の分水口へ向かう

水口玉川上水の、北側には東京都水道局境浄水場、南側には武蔵野市立第六中学にはさまれたところにひっそりとある。

最寄りの駅、JR中央線武蔵境駅で下りる

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水口には直接向かわず、武蔵境駅東側からきれいにカーブして続く歩道を歩いてみる。
緩やかに左へカーブする歩道

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ここは境浄水場へ資材(ろ過に使う砂など)を運んだ鉄道引き込み線の跡だそうだ。カーブのはじまりが中央線の線路に接したところにあるし。
興味深いのは、この線路跡とほとんど対象形に隣の駅三鷹側からも線路跡が伸びていて同じようなカーブを描いている。間の距離はいちばん近づくところでは50mもない。そちらは現在「堀合遊歩道」となっているが、元は国鉄武蔵野競技場線(三鷹~武蔵野競技場前 3.2km)というれっきとした中央線の支線だったそうだ。鉄道好きな人には有名なのかもしれないけど、はじめて知った。2つの線路跡がつくる地図上の対象形の模様がなんだかおもしろい。

引き込み線跡を浄水場手前まで歩いて行く途中に玉川上水
付近の玉川上水の流れ、松美橋から

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左が玉川上水の流れ、右側土手の向こうが境浄水場

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玉川上水の松美橋と1つ上流の桜橋の間、ここに品川用水の分水口があった。
水を分けるための堰が残っている

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堰への階段が向こう側にある。季節的に見えにくいので、初冬に玉川上水を歩いたときに同じ場所で撮った写真を。
反対側から

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左側が上流、この堰で水のかさを上げ、分水口(手前側にあった)から品川用水側へ水を取りこんだ。現在は分水口は埋められている。

品川用水の解説板

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◆品川用水跡を歩く 武蔵野市内、三鷹市

ここで分けられた用水の水は、現在南側にある武蔵野市立第六中学校の敷地内を通り、堀合(ほりあわい)通りとなっている道路に沿って、南西方向へ流れていた。
先ほども書いたが、用水跡はすでに埋められており、埋めた後はほとんど道路となっている。その作業は昭和20年代に行われたと古いこともあって流れの痕跡はほとんど何も残っていない。道路上に残る微妙なカーブに流れの跡を想像するくらいである。
この先はひたすら道路歩きとなる。

中学校の敷地から出てきた場所

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木立ちの向こうは中学校の校庭、そこを横切って手前の道路のほうへ流れがあった。

その道路を流れの下流方向へ歩いて行くと
ゆるくカーブする道路・堀合通りにて

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平地にもかかわらずゆるくカーブする道路に流れの跡を想像する。(三鷹市上連雀1丁目付近)

この先で用水跡はJR中央線とクロスする。
通りの先に中央線線路

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三鷹駅の西側である。完成時の用水はここを真っ直ぐ先に進んでいたが、鉄道が通るようになって用水路は線路下をくぐるようになった。その跡は現在、堀合地下道という歩行者用の横断路になっている。

でもそこはあえて通らずに、地下道のもう少し西側にある跨線橋を通る。
三鷹陸橋・線路北側から

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1929(昭和4)年につくられた古い跨線橋でだいぶ年季がはいっているけど、いまだに現役で使われている。間近で見ると鉄道のレールなどをうまく組み合わせて造ってある。上からは電車の車両基地がよく見渡せて地下道をあるくよりは楽しい。
車両基地を望む

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そして南側へ下りると

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陸橋の南側から

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線路を渡ると用水路跡は三鷹駅南側の繁華街を斜めに突っ切っている。
三鷹通りを横切るところ

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左側から微妙にカーブしてくる道路が用水跡で、通りを横切ったあと三鷹駅近くの商店街をななめに通り抜ける。

この先は商店や住宅地の間を時々流れの方向を変えながらずっと通っていく。
風景的にはこれといった特徴もないので少し端折り気味に行く。
杏林大学井の頭キャンパス前を南方向へ下り、人見街道三鷹市新川交差点に出てくると昔の用水路はこの付近で二手に分かれていた。一方は東方向に流れていく品川用水、もう一方は西方向に流れていく仙川用水なのだが、このノートの冒頭にも記したとおり、品川用水は仙川用水の途中から分岐、延長したもので、ちょうどこの付近が分岐点だった。

分岐点近くの人見街道三鷹一小交差点付近

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分岐点が1つ手前の新川交差点からこの三鷹一小交差点付近にあったようだが、交差点付近には用水路の痕跡は見えないので、普通に道路交差点の風景ではある。現在の人見街道はここで左に折れ、用水路跡は正面の下本宿通りを通ってその先で東八道路へ合流する。

東八道路三鷹台団地南口交差点近くで中川遊歩道

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現在のこの遊歩道は、水無川三鷹市内で中川と呼ばれる)を暗渠化したうえにつくられたもの。この地点は「中川」の最上流部に近いが、過去には用水と川の交差があったはずで、両方の水をどのように交差させていたのだろう。ちなみに品川用水と水無川の交差はこれより下流の世田谷区粕谷付近にもある。
水無川(中川)を歩いたとき

miwa3k.hatenablog.jp先の交差点付近で用水跡は東八道路から離れ、今度は烏山通りに入って南進する。

◆品川用水跡を歩く 世田谷区内、目黒区内

烏山通りに入ると世田谷区となる。世田谷区に入ってもこれといった変化はなく。
世田谷区北烏山6丁目、9丁目境界付近の烏山通り

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この先品川用水路跡は千歳烏山駅前商店街のなかを突っ切って京王線千歳烏山駅ホーム下を横切る。そういえば水無川(現在は暗渠)も千歳烏山駅ホーム下を通っていたはずで、ふたつの水路はこのあたりでごく近くにあったということだ。

品川用水跡に沿い、駅の南側に出て南の方向へ進む。数百メートル先のY字路になったバス停の間に
粕谷地蔵尊

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お地蔵様のすぐ先は
水無川緑道の起点

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先ほども出てきている水無川(中川)の品川用水との交差地点でもある。水無川は歩道向こうから手前へ流れ、品川用水は道路上、右から左へ流れていた。
東八道路三鷹台団地南口交差点付近にも両水路の交差があって、ここで交差2か所目。三鷹台の方はどのように交差していたかはわからなかったが、こちらは水無川のうえに品川用水を掛樋で通していたということで、流れの立体交差になっていた。
どちらも細い水流で、なぜ2回も水路を交差させたのかということだが、水無川の水は基本的に現在の世田谷区内流域の田畑で使用するために流れを確保し、品川用水の水は元々需要量に対して供給量が少なく、なるべく損失無く現在の品川区内まで運びたかった、ということできちんと分離したのではないだろうか。水無川の水を品川用水へ合流させてしまうと世田谷の人が困り、品川用水を水無川のほうへもっていけば品川の人が困るということになる。

用水路跡である千歳通り沿いにずっと進むと環八との交差点に出る。
環八船橋交差点付近

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千歳通りは環八を斜めに交差し、その先小田急千歳船橋駅近くでガード下をくぐる。ガードからこの先のバス停先にかけて道路は左右に何回かカーブしていて、昔は水路が蛇行していた名残りだろうけれど、なぜここで蛇行していたのかはよくわからない。

その先で崖に沿って道路(昔の水路)が通っているところに出る。ここにずっと玉石がはめ込まれている。
道路片側が玉石で補強されているところ(世田谷区桜丘2丁目、千歳通り)

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玉石の石垣はもしかすると用水路があったころから存在していたではないかと推測。歩道上の車除けコンクリート柱もこのへんあちこちで見かける。ちなみにこのあたりの千歳通りは1964(昭和39)年東京オリンピックに伴って用水路跡を整備開通した道路なのだそうで、道路としては比較的新しい。

用水路跡はこの先、東京農大前交差点で世田谷通り(都道3号)に合流し、そのすぐ先で馬事公苑東側を通る道路に沿って南下する。
馬事公苑に沿って(世田谷区弦巻5丁目付近)

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右側塀の向こうが広大な馬事公苑の敷地。何だか知らないけれど敷地全般にすごく大規模な工事中で園内には入れない。(付記:2020年の東京オリンピックに向けての工事とのこと。当分なかへは入れなそうだ。馬事公苑はなくなったものと考えておこう。)

そういえば以前、蛇崩川の源流がこの辺ということで馬事公苑東側の弦巻5丁目交差点へ来たことがあったが、そこは品川用水の流路跡だったとは。
蛇崩川からアプローチしたときの弦巻5丁目交差点

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向こうからこちらに向かって用水が流れていた。

さらに南へ進むと旧大山街道(にして国道246号の旧道)にぶつかる。用水もほぼ直角に曲がって街道沿いに流れていた。東急田園都市線桜新町駅前のメインストリートだ。
桜新町商店街から

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ちょうどこの歩道に沿って品川用水の土手があったそうだ。

東の方向に進み、国道246号新町1丁目交差点近くで、用水が現在の国道を避けるような形で北側にいったん逸れてさらに東方向へ進む。駒沢小学校前を通過したあとしだいに南東方向へ向きを変えて国道246号と環七通りの上馬交差点を通り、今度は環七通りに沿って南東方向、野沢交差点まで行く。

ここで環七から東側へ逸れて行く道に入り、しばらく行ったところに
水車橋バス停

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現在は何もないが、このあたり用水に沿って水車小屋と水路にかかる橋があったそうでその名残りがバス停の名前になっている。
おそらく個人が掲げたものだと思うが絵図があったので

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その先で駒沢通りに合流する。駒沢通り歩道の一部だけレンガで囲われたちょっと不自然な植え込みがある。
歩道の植え込み

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地図で確認すると、ちょうど用水路跡と一致する部分だけが植え込みになっていた。

その先、次の信号で用水路跡は駒沢通りから分かれ、三叉路を東の方へ入っていく。
目黒区鷹番3丁目付近

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東急東横線学芸大学駅北側の商店街の通りになる。上を通っているのが東横線線路。

用水路跡はここから目黒通りに出ていくのだが、こちらが疲れたのでいったんここで切り上げて後日出直してくることにした。まだ品川区には到達していない。(なげーなこの用水路)