誰でも知っている級のメジャーな川を歩いたのは久しぶり、冬のしわすの隅田川。
河口から少しずつさかのぼっていきます。いつもよりゆっくりと。
最初に湧いた疑問は、隅田川の河口ってどこなんだろうということ。きちんと調べずに出てきました、はい。
たとえば多摩川だと0キロ標識(=河口)が存在するので明確に分かるのだけど。
まあ、このへんだろうという適当な目星をつけて…。
竹芝桟橋から見た河口と思われるあたり(別の日の撮影)
正面に船が停泊している豊海水産埠頭と手前の竹芝桟橋を結ぶあたりが現在の河口かなと。
今回は豊海水産埠頭側へ出没。
先っぽまで来るとレインボーブリッジが正面に
とりあえず突端まできた。
さっきの写真とは逆に
竹芝桟橋側を望む
歩いたあとで隅田川河口位置を調べてみたけれど、はっきりしなかった。多摩川のように厳密に決まっていないのかもしれない。
なので、隅田川河口は豊海水産埠頭と竹芝桟橋の間を結ぶ線とします。勝手に。(あとで情報が得られれば何とか誤魔化すとして)
河口から遡上開始。
中央区勝どき5丁目都営アパート付近
左が隅田川側。この付近は潮止めのごつい可動ゲートが何か所も設けられている。右側の閉まっているところ、正面の溝の間などあちこちにある。道路と右側都営アパートの間には頑丈なコンクリートの壁。結構厳しいところに住宅をつくってしまったのだなと思った。
その付近から川の方向を見る
築地大橋方向
築地大橋を越えて
2020年のオリンピックにあわせて正式開通予定の、「東京都市計画道路環状第2号線」が通る築地大橋。橋長は245m、上部工構造形式は鋼3径間連続中路式アーチ橋。
何でも工事進捗は100%で完成しているはずが、開通していない。築地市場移転がらみの問題で連絡道路が未完成とか、いろいろ問題てんこ盛り。
対岸右側は当初計画ではもう存在していないはずの築地市場。
橋自体はアーチのリブが外側に開いた特徴ある構造で、アークの流れなどとても美しいと思うのだけど。
対岸から見た2017年12月の築地市場も
1
2
築地大橋と東京タワーもまじえて
近くから
「勝鬨橋」橋名標をいれて
まん中が跳ね上がる構造になっている跳開橋なので、橋中央に信号機が取り付けられている。ちなみに川の方角にもついている。
歩道側の信号機と制御室右側に川に向けての信号機
橋中央部の可動部分にて、2枚
現在可動部は固定されて橋を跳ね上げることはできず、信号等にも通電されていない。
かつては隅田川で一番下流の橋だったが、築地大橋ができて2番目になった。下流側に橋ができたことで、ここを背の高い船が通ることは物理的にも不可能になった。
勝鬨橋の竣工は1940(昭和15)年。長さと構造は、51.6mの可動部がシカゴ型双葉跳開橋、86mの固定部が鋼ソリッドリブタイドアーチ橋。
アーチ部分を間近で
勝鬨橋を渡って隅田川右岸へ
下に見えるテラスに沿って行く。
少し歩いて行くと佃大橋が見えてくる。
聖路加ガーデン前あたりからの佃大橋
近くまで来て
佃大橋は1964(昭和39)年竣工の、隅田川に架かる橋では新しくできた部類に入る。橋の開通まで渡船「佃の渡し」があった。
橋長は476.3m、形式は3径間連続鋼床鈑箱桁橋。ガーダー橋のせいか、見た目は地味である。(個人の感想)
橋のうえから聖路加タワー
2つのタワー間を結ぶ通路があるが、東日本大震災でタワーが揺れたとき、ここが伸び縮みしてはずれて落下するのを防いでいたことをいまだに思い出す。おまけ話
佃大橋を渡って左岸側は佃、月島。この日は佃を通る。
佃煮の商店など
2017年の佃島
住吉神社の赤い鳥居、向こうは佃公園の石川島灯台モニュメント。
赤い鳥居の下から
向こうが住吉神社。
住吉水門
水門後ろ側は佃島と石川島を分ける「堀」
石川島側の佃公園に「江戸時代末期の佃島・石川島」の解説板があった。少々長いが
佃島は摂津国西成郡田村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師達が幕府の許可を得て築造した漁村である。
家康が1582年(天正10年)、京都から堺の地に遊んだ時、本能寺の変が伝えられ、急遽踵を返して間道を通り抜け大坂に向かったが、出水のため途方にくれている時に佃村の庄屋孫衛門が多数の船を出して一行を助け、ここに徳川家と佃島漁民の間に固い絆が結ばれることになった。
その後、家康が江戸に幕府を開くにあたり、佃村の漁師に対する恩賞として彼らに幕府の御菜御用を命ずべく、老中安藤対馬守を通じて、その出府を促し、1613年(慶長18年)には「網引御免証文」を与え、江戸近海において特権的に漁が出来るようになった。
1644年(正保元年)には現在の地に百間四方の土地を埋立てて築造し故郷摂津国の住吉神社の分霊を奉祀し、島の名を佃島と命名した。
石川島の灯台は1866年(慶応2年)、石川島人足寄場奉行清水純畸が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台であった。この完成を最も喜んだのは近在漁師であった。
このたび佃公園を整備するにあたり、モニュメントとして灯台を建設するとどもに、護岸前面に安藤広重の浮世絵をレリーフしたものを3題設置して往時をしのぼうとするものである。
平成元年 3月
佃公園から対岸、亀島川水門など
別の日に別方向から撮ったものを
この橋の開通は1994(平成6)年、全長210.7mの2径間連続鋼斜張橋。フランスのデザイン会社が設計し、主塔は日本の兜をモチーフにしたデザインになっている。
橋の中央には彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」がある。
像は川のほうを向いている
主塔を見上げて
橋を渡った右岸側は霊岸島(れいがんじま)と呼ばれる、中央区新川。四方が川で囲まれ、島のようになっている。
霊岸島側の橋のたもとに「水準点」
一等水準点「交無号」と呼ばれる水準点標石。近くの解説板を抜粋要約すると
日本の高さの基準である東京湾平均海面(標高0m)が、明治6年から12年の間に霊岸島で行われた潮位観測により決定され、その結果は近くの水準標石に取り付けられた。明治24年には新しい基点としてここ「霊岸島新点・交無号」が設置された。水準点番号「交無号」の由来は、水準路線が交差する点であることを示す「交」と、0を意味する「無号」を合わせたものである。
現在の標石は平成15年にここに移転したもので、その前の昭和5年の移転時に花崗岩でつくられたものである。
といったことが書いてあった。
現在の霊岸島水位観測所
ここは水準原点検証用の観測所としての役目は終え、現在は荒川水系の水位観測点として観測を続けている。観測所の特徴的な形などの解説板があったのだけれど、いかんせん長すぎて…
水位観測所から見た中央大橋
このあと隅田川右岸側をさかのぼり、次は永代橋なのだが、その1はここまでに。