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散歩の途中

iPhoneもって散歩しながらいろいろ観察したノート

東海道を歩く その2 川崎から戸塚

歴史の道をあるく 神奈川 川崎市川崎区 横浜市鶴見区 横浜市神奈川区 横浜市西区 横浜市保土ヶ谷区 横浜市戸塚区

日本橋から出発して川崎まで来た。この日は川崎から神奈川、程ヶ谷を経て戸塚をめざす。

 その1はこちらからも。

miwa3k.hatenablog.jp

日本橋から歩き出して気づいたことのひとつは、この街道を下るときいつも太陽を正面に見ながら歩くことだった。明るいのはよいが辛いことも。酷いまぶしさで風景がよくわからなかったり、進む先はいつも影になり、写真を記録するのに逆光になる。地図を見るとたしかに日本橋から藤沢あたりまでは南、南西方向にすすむことになるので太陽がいつも正面にある。それならばということで曇りの日に歩いてみることにした。どんよりと曇った空だが、雨が降るのは夜になってからと予報は言っていた。
旧東海道にほぼ沿って走っている京急線京急川崎駅

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駅から川崎宿砂子(いさご)までは歩いて2,3分。川崎宿からこの先生麦付近まで東海道はずっと旧道をたどることができる。とはいっても見た目はごく一般的な普通の歩道付き車道だが。
いさご通り

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小土呂橋交差点

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正面奥へ向かうのが旧東海道、一直線に八丁畷(はっちょうなわて)へと進む。八丁畷駅の手前で京急線の踏切を渡るが、その前後に碑が2か所あった。
松尾芭蕉の句碑

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元禄7年(1694)5月、江戸に住んでいた芭蕉は、子の治郎兵衛と共に長崎へ旅立ち(途中大坂で発病し、10月に死去)、芭蕉との別れを惜しむ江戸の門人の利牛、野坡、袋水は多摩川を渡り、川崎宿まで見送りにきて八丁畷の榎だんごという店で最後の別れをかわした。この時、芭蕉が詠んだ句「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」が刻まれている。

駅北側の慰霊塔など

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八丁畷の由来と人骨」の解説板、人骨慰霊塔などがある。この近辺の整備開発に伴って工事を行ったときに多数の人骨が見つかったそうで、解説板には「江戸時代に身元不明の死者を宿はずれのこの地に葬ったと思われる」といったことが書かれている。
八丁畷の先、市場上町交差点で川崎市川崎区から横浜市鶴見区に入る。
市場上町付近の旧東海道

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武州橘樹郡市場村一里塚

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江戸日本橋から5つ目の一里塚だそう。昔はこのあたり市場村。
その先で東海道鶴見川を渡る。現在の橋の名前はそのまま「鶴見川橋」だが昔は「鶴見橋」だったそうだ。最初の架橋は1601年(慶長5年)。

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現在の橋は1996年(平成8年)に架け替えられたもの。
渡り終える前に振り返って

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橋を渡り終えるとほどなく鶴見の街中に入ってくる。旧東海道は現在の京急鶴見駅の真下を通って線路の反対側に出てくる。
京急鶴見駅にぶつかる駅前の交差点

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駅の反対側へ出て、商店街のなかを通る。

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しばらく進むと旧東海道第一京浜との下野谷町交差点をまたぐ。その先でJR鶴見線国道駅高架の下をくぐる。
国道駅ガード下

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駅名の由来は反対側にある第一京浜国道から。ある意味ここは名所である。太平洋戦争時の機銃掃射の跡が残っていたり、昔はいろいろ商店がこの中にあったらしい。今回はのぞき込むだけにしておく。
国道駅を見上げる

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その先は生麦。旧道に沿って鮮魚店が何十軒も並ぶ一帯があった。
生麦魚河岸商店街から

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まつりの幟はまだだいぶ先の予定のものだった。そして、すでに一日の賑わいのピークは完全に過ぎていたので閑散。さらに、魚屋さんの数はピーク時の3分の1から4分の1に減ってしまっているらしい。
生麦事件発生現場」

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生麦事件 (朝日新聞掲載「キーワード」の解説)
1862年(文久2年)9月14日、薩摩藩島津久光の一行が江戸からの帰路、東海道の生麦村(現・横浜市鶴見区)で馬に乗った英国人4人と遭遇。英国人が馬を下りずに行列を乱したのを無礼とし、藩士が刀で切りつけて1人が死亡、2人がけがをした。薩摩藩は賠償請求と藩士の引き渡しを拒み、薩英戦争に発展。敗北して近代化の必要性を痛感した同藩は攘夷(じょうい)論から開国論に転じ、これを機に開国、明治維新の流れができたと言われる。

発生現場付近の風景、現在はごく普通の住宅地

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その近く、街道沿いの商店、昔のたたずまいを残す一軒

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この先はすぐに高速道路(首都高横浜環状北線)の建設工事中で、その先、生麦一丁目交差点で旧東海道第一京浜に合流してしまう。交差点の海側はキリンビール横浜工場だが、いつの間にか建設中の高速道路に飲み込まれそうになっているように見える。
ここからまた第一京浜歩きがはじまる。この先で横浜市鶴見区から神奈川区に入る。
第一京浜入江橋のうえから下流海側

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このあたり、子安浜と呼ばれる江戸時代からの漁師町で、沖合の埋め立てがすすんだ現代でも漁業はおこなわれている。なかなかディープな一角のようだ。
子安の隣には浦島町というところがあり浦島太郎伝説が残っている。
滝の川、第一京浜の橋のうえから

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神奈川宿は神奈川町と青木町のふたつの町からなり、滝の川が両町の境を流れるとの解説がある。すでに神奈川宿に入っているはずだが第一京浜沿いには何の痕跡もない。街道から奥まった場所には多くの寺院などがあるようだが。

神奈川宿 Wikipediaからの抜粋では
神奈川宿は神奈川湊の傍に併設された町であり、相模国武蔵国多摩郡方面への物資の経由地として栄えた。
神奈川湊についてはこれが記録に現れるのは、鎌倉に幕府が置かれた13世紀以降のことである。しかし、古代から東京湾内海交通の拠点として当地に港が存在したことは確認されている。
神奈川宿は神奈川町と青木町の二町からなり、両町の境には滝野川(現滝の川)が流れていた。江戸側の新宿村に隣接する江戸見附から順に並木町、新町、荒宿町、十番町、九番町、仲之町、西之町と続いて滝野川を渡り、滝之町、久保町、宮之町、元町、七間町、下台町、上台町、軽井沢といった町並みが続いていた。なお、本陣は石井本陣が西之町に、鈴木本陣が滝之町にそれぞれ置かれ、問屋場は仲之町に、一里塚は下台町にそれぞれ設置されていた。町並みは東海道沿いのみに限らず、十番町からは内陸に仲木戸横町が延び、仲之町から海辺沿いに小伝馬町、猟師町、内陸には飯田町、御殿町、二ツ谷町がそれぞれあり、枝郷として斎藤分(神奈川町)、三ツ沢(青木町)があった。
幕末には開港場に指定されたが、実際には対岸の横浜村(現在の中区関内地区)が開港となり、開国以降次第に商業の中心は外国人居留地が作られたこの横浜村に移っていった。
横浜市神奈川区のHPでは
東海道五十三次のひとつ神奈川宿。この地名が県の名前や区の名前の由来です。 またここが、近代都市横浜の母体でもありました。しかし、関東大震災第二次世界大戦によって、歴史的遺産の多くを失いました。そのため地元の人でさえ、東海道がどこを通り、宿場町の様子がどのようであったかを知る人は少なくなりました。現在、宿場町当時のものはほとんど失われてはいますが、台町の坂などに、当時の面影を見つけることができます。

神奈川宿はあのディープな子安浜のあたりからずっと続いていたようだ。そして現在の横浜駅のあるあたり古くは神奈川湊で、そこに街道の宿場ができたということらしい。
この先で日本橋出発以来たくさん歩いてきた第一京浜(国道15号)と分かれる。国道15号は日本橋から横浜市神奈川区青木通までの道路で、終点は目前。ところで東海道と言えば現在の国道1号という印象があるが、日本橋から神奈川までの東海道は、なぜ国道15号になっているのか、国道1号ではないのか。

1885年(明治18年)の国道指定で、1号国道は日本橋から横浜港に至る道路に指定された。一方、2号国道が同じく日本橋から大阪港に達する道路として指定され、1号国道と2号国道は日本橋ー神奈川間で重複していた。これが現在の国道15号(第一京浜)にあたる道路で、重複はしているものの当時はれっきとした国道1号だった。その後交通量の増大で1934年(昭和9年)からバイパスとして第二京浜国道の建設がはじまる。1952年(昭和27年)の新道路法施行のときに国道1号線として東京ー横浜間では第二京浜国道の区間が指定され、元の1号国道は国道15号となって現在に至る。
国道にバイパスが完成するとそちらを新たに国道に指定する慣例にのっとったので第二京浜が1号線を名乗ることになったのでは、という推測が受け入れやすい。

横浜市立幸ヶ谷小学校の先で右に折れると宮前商店街、ここから旧道となる。

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旧道にはいって途中、洲崎神社の社号標と鳥居があったが、写真を撮ろうとしたところで真ん前に車が駐車、断念。
商店街のなかの旧道には昔の名残はないと言っていい。通り奥に神社や寺院は残っているようなので、そこから今通っているところが旧街道だったことを想像するくらいである。商店街をぬけると京急線神奈川駅前に出る。
駅前にあった神奈川宿解説

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京急線東海道線の線路を越えて
青木橋交差点から三宝寺の高架本堂

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ここから台町へ坂を上る。
坂の途中、古くからの料亭の建物は上がマンション

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またしても駐車中の車に阻まれるの図。黒い塀はこの宿の有名な割烹のもの。店が工事中だった。

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神奈川台の関門跡石碑

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このあたりが坂の頂上あたり、見晴らしもよく、関門をつくって警備をするには都合がよかったのではないだろうか。
この先はまた下り坂。

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台町あたりは街道が整備された当時、すぐそばまでが海で反対側は崖のように切り立った地形、その間のせまいところに道を通している。広重の五十三次の風景絵でも神奈川はこの坂が描かれている。
旧東海道の下を通る市道、奥は横浜駅西口方向

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このあたりで神奈川宿のはずれになる。横浜市神奈川区から西区へ入る。
浅間神社入口の鳥居と崖

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台町の坂を下りても街道に沿って結構傾斜のきつい崖が続く。街道の海側にはまたわずかながら段差が残っていて、かつての海岸線がそこにあったことがわかる。
八王子街道追分

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左へ行くのが東海道、右に折れるのが八王子街道。左へ行くともう保土ヶ谷宿の入口、江戸方見附となる。横浜市西区から保土ヶ谷区に入る。
昭和の風情が残るにぎやかな洪福寺松原商店街をぬけ、相鉄線天王町駅の北側近くに現代の帷子橋

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広重の五十三次程ヶ谷宿の絵に描かれた橋は天王町駅の南側にあった。昭和になって帷子川の改修があり、流路が変わっている。

程ヶ谷(保土ヶ谷)宿
程ヶ谷宿は慶長6年(1601)、東海道に宿駅伝馬制度が始められたとき、伝馬宿として指定された。指定当初は元町(現在の保土ヶ谷町2丁目から3丁目の旧東海道沿い)付近に宿場があったが、1648年(慶安元年)に保土ヶ谷ー戸塚間が境木から尾根道となる権太坂を通るルートに変更されたことと併せ、新たな町(現在の天王町駅付近から保土ヶ谷町1丁目、外川神社付近まで)が立ちあげられてそちらが宿場となった。本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠67軒(天保年間(1840年代)ごろの規模)。宿(しゅく)として管理の範囲は芝生村追分(八王子道の分岐)から境木立場(武蔵・相模国境)までであった。

天王町駅を横切って南側へ出ると広場になっていてそこに帷子橋のモニュメントがある。

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帷子橋の解説と東海道の案内

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程ヶ谷宿内の商店

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JR保土ヶ谷駅付近の旧東海道

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金沢横町道標四基

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金沢(かなざわ)道の分岐点、金沢、浦賀、鎌倉方面への追分。

この先踏切を渡って街道が右に折れるあたり、
程ヶ谷宿本陣の門跡、通用門だそうな

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ここで国道1号に合流する。
外川神社

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このあたりに程ヶ谷宿上方見附があり、宿内から外に出る。しばらく進むと旧道は国道1号から右に逸れる。そのあたりから程ヶ谷宿の元町、1648年までの古い宿場となる。
元町のなかにある樹源寺

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元町をぬけると左に曲がってすぐ右にカーブ、そして権太坂にかかる。
権太坂のいちばん下あたり

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権太坂(ごんたざか)
旧東海道を江戸から西に向かうときの最初の急勾配。一番坂、二番坂と二段の勾配になっていて登り切ったところは境木、武蔵と相模の国境になる。
箱根駅伝の難所としても紹介されるが、駅伝のルートは国道1号を通過していて旧街道の権太坂は通らない。

解説はこちらも

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途中横浜横須賀道路のうえ、権太坂陸橋から

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この陸橋自体もかなり勾配がついている。坂の勾配はたしかにきついがそれほど長い距離でもない。標高差にしても6,70m程度である。いったん登りきってしまえば丘の尾根に出る。尾根のうえで武蔵、相模国境の境木。
境木地蔵尊の入口

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武相国境の木

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台座に武蔵、相模の地図と東海道宿場名が刻まれている。ここで横浜市保土ヶ谷区から戸塚区にはいる。
ここからは焼餅(やきもち)坂の急坂を下り、品濃一里塚に達する。
品濃一里塚

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例によって解説板

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品濃一里塚、B面もあった。

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そしてさらに進んで品濃坂を下る。

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この坂の途中は下に横浜環状2号線を通したため、陸橋(歩道橋)で渡る。
陸橋と下は環状2号線

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ちょうどこの陸橋を渡り始めるころに雨が降り出してきた。少し様子見をしていたが、雨雲レーダーを見るとますます雨が強くなりそうな気配で、ここからは駅も近かったので本日はここで撤退することに決めた。戸塚区には入ったが、戸塚宿までは行きつかなかった。次回はこの坂からスタートして平塚まで行きたい。
このあと横須賀線東戸塚駅へ。この日の歩行距離は20.8km。