散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

東海道を歩く その3 戸塚(品濃)から平塚

前回、川崎から戸塚宿を目指して歩き出したが、品濃坂(横浜市戸塚区)を下りてきたところで雨に降られ、戸塚宿まで進むことを断念した。今回は品濃坂の下から再開する。戸塚、藤沢を経て馬入川を渡り、平塚を目指す。

JR横須賀線東戸塚駅に下りる。

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前回、横浜環状2号線に架かる陸橋を下りたところで旧東海道を離脱したのでその場所を目指す。この日もまた曇り。
ここが旧東海道品濃坂の下の方

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ここは道幅、傾斜とも昔のままだろう。江戸方から来て権太坂が険しかったのと同様、西の方から来た人には、やはり険しい場所だったと思う。
坂を下りると川の流れる低地に出る。東戸塚駅入口交差点で国道1号を渡るが旧道はすぐに国道に合流、赤関橋で平戸永谷川を越えて不動坂でまた国道1号から逸れる。
旧道沿いのれんが造りの倉庫は「鎌倉ハム」発祥の地だそう。

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明治10年(1878)頃近くに住んでいた英国人が居留地外国人向けのハムを製造したのが始まりとされる。この付近、現在は横浜市だが当時は鎌倉郡と呼ばれたので鎌倉の名をつけたとのこと。いまある倉庫の建物は大正の築造。
舞岡入口の交差点で国道1号に合流して五太夫橋を渡り、まもなく戸塚宿の江戸方見附跡。
舞岡入口交差点と五太夫橋

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江戸方見附からしばらく行くと柏尾川を渡る。
吉田大橋と柏尾川

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橋の反対側(川の上流側)は大きな団地

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広重の東海道五十三次之内戸塚で描いたのがここの橋の風景である。
橋を渡るとまもなく戸塚駅。車は地下道、人は歩道橋で東海道線横須賀線の線路を渡る。戸塚駅前はかつて有名な開かずの踏切があったところ。2015年(平成27年)に踏切はなくなった。
東側から西へ歩道橋を渡り、戸塚駅西口側からみた歩道橋

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歩道橋は駅や駅前のビルなどともつながっているため迷路のよう。
現在の戸塚駅前周辺も戸塚宿内になるが、現代の開発により当時の面影を残すものは駅近くには見られない。駅のバスターミナル近くには内田本陣跡の案内板のみあり。

戸塚宿 (戸塚区のHPなどから抜粋)
戸塚宿の成立は、慶長9年(1604)で、隣宿である藤沢、保土ケ谷の宿が成立した慶長6年(1601)に遅れること3年でした。日本橋から数えて5番目の宿場町で、起点の日本橋からは10里半(約42km)の距離にあり、朝江戸を発った当時の旅人の一番目の宿泊地として最適であり、さらに鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿として大変な賑わいを見せていました。
天保14年(1843)頃の記録によると宿内の人口は2900人余、本陣2、脇本陣3、旅籠75軒。

駅から南方向へ行き、戸塚町交差点付近に冨塚(とみづか)八幡宮

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社殿後方の山上にある塚(古墳)を「富塚」と呼び、それが地名となり「戸塚」に変化したとの説が。近くに「富塚郵便局」もある。
冨塚八幡宮の先には戸塚宿上方見附跡があり、その先は宿の外に出る。そして「大坂」というだらだら長い坂となる。
大坂上交差点から

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先に見えるマンションの建物あたりで国道1号線バイパスと合流する。
バイパスとの合流あたり

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大坂の長い坂を上がると丘の尾根筋に東海道が通っている。
丘の上から戸塚方面のながめ

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この尾根の上を長い距離進み、坂を下りるともう藤沢なのだが、その途中には原宿、鉄砲宿という間の宿があったということだ。
国道1号の原宿交差点は渋滞の名所だったが、2010年に立体交差が完成していた。
国道1号バイパス歩きは約1里続く。車の通行量も多く、特にこれといった見どころもない。
影取町交差点の先でようやくバイパス歩きから解放される

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車は藤沢バイパスのほうへ流れていったと思うとすぐ藤沢市。現在は県道となっている旧国道1号東海道

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遊行寺坂を下ると藤沢宿が近い。下る途中に一里塚の案内板があった。

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坂を下りると遊行寺こと清浄光寺が現れる。休憩がてらちょっと立ち寄る。

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清浄光寺 Wikipediaから)
清浄光寺(しょうじょうこうじ)は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称され、明治時代より法主・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の遊行寺の方が知られている。藤沢道場ともいう。
正中2年(1325年)に俣野領内の藤沢にあったという廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山と言われる。

清浄光寺総門

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門前は藤沢宿東海道が整備される以前から清浄光寺門前町としてにぎわっていたとのこと。

藤沢宿 藤沢市ふじさわ宿交流館HPより)
藤沢宿東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場です。
すでに戦国時代から、小田原北条氏が弘治元年(1555年)に藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を置くなど、交通上の要地ではありましたが、慶長6年(1601年)に駅制が定められるにあたって藤沢宿として整備され成立しました。また、それ以前の慶長元年(1596年)に徳川将軍家の宿泊施設である藤沢御殿が築かれていました(17世紀半ばに廃止)。
宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で構成されていました。範囲は遊行寺東側の江戸方見附(みつけ)から台町の東手前(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附までですが、時代が下るにしたがって宿域は街道に沿って広がり、「藤沢沿革考」という記録によると、天保7年(1836年)に清浄光寺(しょうじょうこうじ。通称は遊行寺)領の西村(鎌倉郡。現西富)も宿内になっています。
天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」に、宿内人口4,089人(男2,046人、女2,043人)で、総家数919軒、旅籠(はたご)45軒、大名や公用の旅客の宿泊施設である本陣が1軒、脇本陣が1軒と記されています(享和3年(1803年)の記録では脇本陣は2軒)。
当時の代表的な名所・旧跡としては、(1)江戸方口にある清浄光寺(しょうじょうこうじ。通称は遊行寺)、(2)宿場から一里ほど南へ歩いたところにある江の島(江島神社)を象徴する一ノ鳥居、(3)京方口近くにある「義経首塚及び首洗い井戸」とゆかりの白旗神社義経を祭神とする)

左はふじさわ宿交流館、向こうの赤い欄干は遊行寺

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藤沢宿交流館の正面にまわって

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右端のほう、高札場が再現されている。
遊行寺橋のたもとから

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下を流れるのは境川境川をさかのぼって歩いたときもここを通ったが、そのときは道路工事中。今日は落ち着いて通ることができた。

 

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 橋を渡って右に折れると国道467号だがこの先伊勢山橋まで宿場の雰囲気が残る通りに出る。
蔵造りの商店(桔梗屋洋紙)

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内田商店本店、金物の商店

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常光寺

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隣には関次商店の古い蔵がある。
その先をすすむと白旗交差点、そのすぐ先は伊勢山橋

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下は小田急江ノ島線が通っている。このあたりで藤沢宿上方見附となる。県道となっている旧東海道を西にすすむ。
しばらくすると引地川を越える。
引地橋から引地川下流側を望む

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川を越え、坂を上がるとメルシャンの工場があり、あたり一帯ワインの匂いが漂っていた。
その先、住宅地を進んでいくと国道1号に合流、ここからはずっと国道1号を歩くことになる。新湘南バイパスを分岐した先ではあるが国道だけあって交通量は多い。
国道1号合流点の近く、羽鳥交番交差点あたり

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辻堂の近くで大山街道との交差を過ぎると藤沢市から茅ヶ崎市に入る。

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江戸時代の東海道には松を多く植えたということで、浮世絵にも多く描かれている。茅ヶ崎市にはいると街道沿いに松の木が植えられているところが目立つ。

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国道を淡々と進むと茅ヶ崎の市街地に出てくる。
一里塚交差点付近

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ここに茅ヶ崎一里塚がある。

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一里塚を過ぎると茅ヶ崎駅前交差点で歩行者は地下道を通らなければならない。
現代の茅ヶ崎の繁華街をぬけるとまた住宅や商店の並ぶ街道を淡々と行く。
茅ヶ崎市南湖あたりの東海道国道1号

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南湖と呼ばれるこの付近は江戸時代、藤沢宿と平塚宿の間にできた、間の宿が形成されたところで、近くには茶屋町と呼ばれる一帯がある。この先馬入川の川越えがあり、天候などでは宿泊の需要が結構あったのだろう。
このあたりから馬入川(相模川)の支流の川などがつくる湿地帯だったと思われる場所に出ていく。
鳥井戸橋から

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下を相模川の支流千の川が流れる。向こうに少しみえる鳥居は鶴嶺神社のもの。鳥居をくぐれば神社の参道。この付近は東海道の左手に富士山が見える場所(ふつうは右手)として景勝地になっていたらしい。この日はくもりで富士山見えず。
進むと同じく相模川の支流小出川の流れに出会うが、その橋のたもとに旧相模川橋脚のモニュメント

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国指定史跡・国指定天然記念物「旧相模川橋脚」 茅ヶ崎市HPから)
相模川橋脚は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡です。当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926)年に国の史跡に指定されました。
平成13年から実施された保存整備に伴う調査では、橋脚についての詳細が確認された他、新たに橋脚の北側から関連する大きな土留め遺構も発見され、19年2月6日に追加指定を受けています。
また、地震によって生じた液状化現象の痕跡も確認された他、橋脚の出現状況は関東大震災地震状況を残す遺産としても評価され、24年度、史跡指定に加え国の天然記念物としての指定を受けることになりました。

この橋が確認されたことにより、中世における相模川は現在よりかなり東方を流れていて、氾濫や地震による流路の変遷を経て現位置へ移動したものと推定される、とのことである。先ほども書いたが、このあたり相模川と支流による湿地、デルタ地帯である。
相模川(馬入川)はもう少し。
馬入川にかかる馬入橋を渡る手前で平塚市にはいる。

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馬入橋のうえで

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橋のうえから下流側、東海道線の橋梁、電車の向こうには湘南大橋が見える。その向こうは相模湾

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ここは江戸時代には橋は架けられておらず、渡し舟があった。
相模川をたどって歩いたときに見た「馬入の渡し」

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 馬入川を渡ると平塚の市街にはいる。1号線から逸れて街中にはいる道へ

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馬入一里塚跡の碑

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塚はもうない。
しばらく進むと平塚駅前交差点

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平塚宿はまだこの先なのだが、平塚駅に向かうためここを左折して離脱。平塚宿は次回歩くことにする。
この日は26.9km歩いた。

 その1、その2

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