散歩の途中

iPhoneもって散歩しながらいろいろ観察したノート

東海道を歩く その4 平塚から小田原

今回は平塚を起点に大磯、二宮を通り、酒匂川を渡って小田原を目指す。
行程

JR東海道線平塚駅に下りる。

f:id:miwa3k:20161128204850j:plain

前回は平塚駅前交差点まで来たが、正確には平塚宿にはまだ達していない。駅西方に位置する平塚宿にまず向かう。現在の繁華街をぬけて高い建物が少なくなってくる、市民プラザ前交差点の近くが平塚宿の江戸見附跡。

平塚宿
平塚宿は東海道五十三次のうち七番目の宿場で、慶長6年(1601)徳川家康による東海道整備とともに成立した。当初はいわゆる本宿だけであったが、慶安4年(1651)本宿の東に新宿が加えられた。それでも規模はそれほど大きくない宿場だったようである。天保14年(1843)の宿場は、人口2114人・家数443軒・旅籠54軒・本陣1軒となっている。
平塚宿は東西一直線に町を横切る東海道沿いを左右帯状に家並みをなし、その長さは平塚新宿を含め十九町五間(約2km)ほどであった。

かつての平塚本宿の真ん中あたり

f:id:miwa3k:20161128204851j:plain

平塚の街は関東大震災や太平洋戦争の空襲で大きな被害をうけて、古い建物がほとんど残っていないそうだ。史跡に碑や案内板などが建てられているが、残念ながら風景からかつての面影を探すのは難しい。
そんななかで広重の描いた平塚宿の浮世絵にも出てくる高麗山(こまやま)が旧街道の正面に現れる。

f:id:miwa3k:20161128204852j:plain

古花水橋交差点近くからの高麗山

f:id:miwa3k:20161128204853j:plain

この交差点で国道1号に合流する。そして平塚宿の西の端となる、京方見附跡がある。
ここで平塚市から大磯町にはいる。

f:id:miwa3k:20161128204854j:plain

見附跡を反対側から見ると東海道平塚宿の碑

f:id:miwa3k:20161128204855j:plain

国道1号花水橋から花水川上流方向

f:id:miwa3k:20161128204856j:plain

左側高麗山の稜線、向こうは大山、丹沢

同じ場所から間近に高麗山

f:id:miwa3k:20161128204857j:plain

高麗山 Wikipediaから抜粋)
高麗山(こまやま)は神奈川県の平塚市と大磯町に跨る山。大磯丘陵の東端にあたり、標高168m。名称は高句麗中国東北部から朝鮮半島北部にわたる地域)からの渡来人に由来するといわれる。7世紀に滅亡した高句麗からの亡命者の一部がこの付近に定住し、寺院を建立してこの名をつけたと考えられている。江戸時代まで高麗寺という寺が山中にあり、現在の高来(たかく)神社も高麗神社として寺内にあった。

高来神社の鳥居

f:id:miwa3k:20161128204858j:plain

高来神社の先、化粧坂(けわいざか)交差点で旧道に分岐する。坂といってもとても緩やかなもので、旧道の途中には一里塚(江戸から数えて16番目)、化粧井戸、道の両側は松並木が残っている。
化粧坂の途中で、広重の五十三次大磯宿浮世絵と解説板がたてられていた。

f:id:miwa3k:20161128204859j:plain

この先で東海道線の線路を歩行者用地下道でくぐり、海側へ出ていく。
線路の先の旧道から江戸方を振り返って

f:id:miwa3k:20161128204900j:plain

このあたりから大磯宿にはいる。そして再び国道1号に合流する。

大磯宿
大磯宿は東海道五十三次のうち八番目の宿場で、慶長6年(1601)徳川家康による東海道整備とともに成立した。隣の平塚宿との間は27町(2.9km)と短く、小田原宿との間は4里(15.7km)と長い。南側の海と北側の山に挟まれた細長い町並みで長さ1.3km、宿場としてはどちらかといえば小規模であった。江戸後期の家数は676軒で、3つの本陣と66軒の旅龍があり、問屋場は北本町と南本町の2ヵ所にあった。

大磯宿内、新杵の建物

f:id:miwa3k:20161128204901j:plain

明治24年(1891)創業の和菓子店とのこと。
鴫立庵(しぎたつあん)

f:id:miwa3k:20161128204902j:plain

鴫立庵 (大磯町HPなどから)
平安末期の歌人西行法師が大磯あたりの海岸を吟遊して詠んだといわれている歌「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」で名高い鴫立沢に、寛文4(1664)年、小田原の崇雪(そうせつ)が、草庵を結んだのが始まりで、元禄8(1695)年、紀行家、俳諧師の大淀三千風(おおよどみちかぜ)が入庵し、第1世庵主となりました。京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに、日本三大俳諧道場の一つと言われています。

国道のすぐ脇にあるためちょっと窮屈なかんじがする。写真右側から左手前方へ沢になっていて水の流れがあり、これが鴫立沢。
その先は「東海道松並木」

f:id:miwa3k:20161128204903j:plain

東海道の松並木はここだけではないはずだが、ずばり東海道松並木を名乗っている。松の木は東海道の整備に伴って植えられたもので、その後木が枯れると植え替えていまに受け継がれているとのこと。そしてよく見ると松だけではなくいろいろな種類の木が植えられている。
その先、旧吉田邸(政治家・吉田茂(1878~1967年)が、晩年まで住んだ邸宅)近くの切通橋が架かる川の名前が血洗川

f:id:miwa3k:20161128204904j:plain

血洗川とはなにやらいわくありげだが、こちらに由来など。

血洗川 - Wikipedia

道路の先で実際に切通になっているところを行くとその先城山公園前交差点で旧道が分岐、大磯城山公園(おおいそじょうやまこうえん)の入口になる。

f:id:miwa3k:20161128204905j:plain

大磯城山公園は、旧三井財閥別荘跡地と旧吉田茂邸跡地を整備した神奈川県立都市公園とのこと。
公園の先に特徴のある白い橋・本郷橋

f:id:miwa3k:20161128204906j:plain

神奈川県のHPに紹介がある。「昭和2年に建設されたアーチ状の道路橋。構造は、鉄筋コンクリート変断面ラーメン橋で、高欄、親柱、橋側面のデザインが重厚である。」橋を横から見ると下部がアーチ状になっている。
ここの東海道旧道部分はしばらく行くとまた国道1号が隣に寄り添ってきて、国府新宿交差点で合流する。
国道をしばらく歩いて行くと大磯町から隣の二宮町へと入る。
国道1号二宮町との境界付近

f:id:miwa3k:20161128204907j:plain

その先、二宮交差点に「日本橋から73km」の標柱

f:id:miwa3k:20161128204908j:plain

二宮駅入口、吾妻山入口などの交差点を過ぎた先で旧道が分岐する。

f:id:miwa3k:20161128204909j:plain

旧東海道の名残り」という言い方になぜか力が抜ける。「名残り」にはいると醤油の工場があったり、落ち着いたいい感じ。
途中、海岸へ出る道から北側吾妻山方向を見る

f:id:miwa3k:20161128204910j:plain

右側フェンスの上にみえるのが醤油工場の建物、旧東海道は突き当りを左(京方)右(江戸方)に。正面の山が吾妻山で高さは136m。
山西の交差点でまた旧道が国道1号と合流するが、その交差点近くに”集めてきちゃいました”的ないろいろ。奥は吾妻山。

f:id:miwa3k:20161128204911j:plain

また国道をすすむと川匂神社入口交差点近くで旧道が分岐し、そこに江戸から十八里の一里塚跡

f:id:miwa3k:20161128204912j:plain

一里塚の先には急な坂、押切坂があり、そこを下りるとまた国道に合流する。
先ほどの「旧東海道の名残り」付近から押切坂の間は大磯宿と小田原宿の間の「間の宿」梅沢と呼ばれた、準宿場といった場所であった。現在も梅沢、茶屋という地名が残っている。
押切坂から

f:id:miwa3k:20161128204913j:plain

坂を下りると押切橋を渡り、二宮町から小田原市に入る。

f:id:miwa3k:20161128204914j:plain

この先は小田原宿にはいるまでずっと国道を歩く。そして相模湾がだいぶ間近に迫ってくる。

f:id:miwa3k:20161128204915j:plain

国府津駅前を過ぎたあたり

f:id:miwa3k:20161128204916j:plain

このあたりは江戸時代の、とはいわないが、古い建物が多く残っていた。

f:id:miwa3k:20161128204917j:plain

国府津を過ぎると大磯あたりから続く丘陵地帯をぬけ、足柄平野とも呼ばれる平らな低地に出てくる。
このあたりにも街道沿いは松の木が多く残っている。

f:id:miwa3k:20161128204918j:plain

開けた平野に出てきてずいぶん長い距離に感じたが、実際には2,3kmを淡々と歩くと酒匂川にようやく到着。
現代の東海道は酒匂橋を渡る。長さは350mほどの橋だ。
酒匂橋のうえから、箱根方面を見て

f:id:miwa3k:20161128204919j:plain

同じく橋のうえから酒匂川下流方向、西湘バイパスとその向こうは河口

f:id:miwa3k:20161128204920j:plain

酒匂川の渡し 小田原市HPより)
江戸時代、小田原を流れる酒匂川には橋がなかった。旅人は渡し場から川越し人足によって川を渡らなければならなかった。雨が降り続き、水深が胸あたりになると、川留めとなった。川留めは、旅を急ぐ人々にとって大変な難儀であった。東海道を上方へ向かう旅人は、酒匂川が川留めとなると、付近の農家を借りたり、野宿して川明けを待ちわびた。

江戸幕府は酒匂川の架橋、渡船を禁じたため、この川を渡るには橋はもちろんなく、渡し舟も使えず、上にも書かれたように川越の人足を使って歩行で渡るしかなかった。川の増水で渡し賃が割り増しになったり、川止めになることもあり、東海道の難所のひとつであったことを想像するのは容易である。
酒匂川を渡ってもすぐには小田原宿に入らない。1キロほど先に進んで久野川を渡ると山王神社があり、その少し先に江戸方見附があった。
山王神社のある山王橋交差点から

f:id:miwa3k:20161128204921j:plain

東海道小田原宿の碑、江戸方見附付近

f:id:miwa3k:20161128204922j:plain

ここから小田原宿の宿内にはいる。

小田原宿
小田原宿は東海道五十三次の9番目の宿場である。箱根越えを控えてここで宿泊する旅人が多く、参勤交代で往来する大名行列も同様に休泊し、本陣4件、脇本陣4件、旅籠95件と、規模も東海道で最大級。江戸を出て最初の城下町にある宿場である。
小田原は戦国時代から後北条氏の城下町として発展、江戸時代には東海道の宿場として、また江戸の西側を守備する防衛拠点であった。

西の箱根越えも難所ながら、広重の浮世絵には小田原城箱根山よりも酒匂川の渡しを小田原のメインモチーフにしたものが多いことから見ても、東側の徒歩渡し酒匂川越えも、相当な難所と言えそう。(個人的な印象だが)
国道1号新宿交差点で左に折れ、旧道に入る。旧道は現在の国道1号から見て一本海側の通りになる。
旧道に折れて最初の標識が「かまぼこ通り」

f:id:miwa3k:20161128204923j:plain

たしかにかまぼこを売る商店が何軒かある。旧町名は万町(よろっちょう)と呼ばれていた。
このあたりから宿の中心には古い建物も結構残っている。旧東海道よりもう1本、国道1号からは2本海側の通りの方には雰囲気のある商店がいくつか見られた。
いわゆるショーウインドウの展示が渋い運野商店

f:id:miwa3k:20161128204924j:plain

建物にも味のある鰹節、削節の籠常商店

f:id:miwa3k:20161128204925j:plain

これは「小田原宿なりわい交流館」という観光客向けの「お休み処」&案内所

f:id:miwa3k:20161128204926j:plain

交流館のHPから抜粋
この建物は、関東大震災(大正十二年)により被害を受けた建物を、昭和7年に再建したもので、小田原の典型的な商屋の造りである「出桁造り」という建築方法が用いられています。また、2階正面は出格子窓になっていて昔の旅籠の雰囲気を醸し出しています。

2階は写ってませんね。元々は江戸時代の旅籠だった建物だそう。
この先、御幸の浜交差点でこの日は東海道から離脱。小田原城の堀に沿って駅へ向かった。
途中、小田原城の堀と櫓(隅櫓)

f:id:miwa3k:20161128204927j:plain

同じ隅櫓と向こうわずかに天守

f:id:miwa3k:20161128204928j:plain

小田原城の先は繁華街となり、すぐに小田原駅

f:id:miwa3k:20161128204929j:plain

宿場以外の場所は単調な国道歩きが多くなるこの区間。この日の歩行距離は22.9km。
次は箱根八里となる。

miwa3k.hatenablog.jp

miwa3k.hatenablog.jp

miwa3k.hatenablog.jp