昨年(2016年)12月以来、旧東海道を久しぶりに歩いた。
日本橋から箱根まですでに歩いたので、その続きとして今回は箱根から三島を経て沼津まで歩いた。6-1はそのまた前半として、箱根関所から山を下って三島宿にはいるまでのノート。
旧東海道その6行程
箱根まで来たときのリンク
前回、箱根八里の東海道は小田原から山登りをし、息を切らして到着した芦ノ湖ほとりの箱根関所跡まで、この日はバスで楽々到着。
スタートは箱根関所跡バス停
正面「箱根関所」看板を左に入っていくと関所の京口御門。
京に向かって
この道路(国道1号である)の両側がかつて箱根宿だったところ。向こうの山は箱根外輪山。
箱根宿について (国交省関東地方整備局・東海道Q&Aから長々と引用すみませんです。)
箱根宿の成立年代は確定されていませんが、『新編相模国風土記稿』によれば、元和4年(1618)に、箱根山越えの便宜を図るために宿場を新設したと記されています。
さらにその場所については、土俗の伝えとして、幕府は初め、古くから箱根権現の門前町として栄えた元箱根を宿場としようとしましたが、それができなかったため、芦ノ湖畔の原野で人気のない今の箱根町箱根に宿場を設置したといわれています。
このとき、隣宿の小田原宿と三島宿からそれぞれ50軒ずつ移住させ、宿場を設けたのです。現在の箱根町箱根には、字として小田原町、三島町という名前が残っていますが、この字名はこのときに由来するものと伝えられています。
ところでこの字名は、たんなる表記という意味ばかりでなく、小田原町は小田原藩領分であり、三島町は三島代官所(宝暦期以降は韮山代官所)が管轄する天領であるという意味を持っていました。つまり江戸時代を通じて箱根宿は、1つの宿場でありながら、2人の領主を持つという特殊な宿場だったのです。このような支配形態を持つ宿場は、東海道五十三次の中で箱根宿だけです。
だいたいだけど、道路真ん中の大きな案内標識より手前が小田原町、向こうが三島町。
芦ノ湖を垣間見る
かすかに富士山稜線や大学箱根駅伝の像も。
大学駅伝往路ゴール地点の碑
駅伝ゴール地点へ折れる交差点次の信号でY字路を右に入る。奥へ進んでいくと芦川橋という小さな橋を渡った先に旧道の入口が見えてくる。橋の手前には赤い鳥居の駒形神社がある。
箱根旧街道入口付近
左奥へ行くのが箱根旧街道。この先は石畳の道になる。
林の中へ入っていく手前でたくさんの石仏に出会う。
芦川石仏群(一部)
近くの解説板から
芦川の石仏群
この箱根旧街道向坂地区の入口付近には、「芦川の石仏群」と呼ばれる、数多くの石仏・石塔があります。
もとは芦川集落内の駒形神社境内にあったものを移したといわれています。ここには、箱根で最も古い万治元年(一六五八)の庚申塔や、江戸時代後期に建てられた多くの巡礼供養塔などがあります。
これらの石仏・石塔には、当時造立にかかわった地元の方々の名前が見られ、地域の信仰のようすを知る上でも貴重なものとなっています。
箱根町教育委員会
石仏群のあるところから旧街道は石畳の細い道となって、杉並木、林の中に入る。
細道となってからはしばらくずっと上り坂が続く。箱根はカルデラ式火山で、内側の芦ノ湖のほとりから歩き出したので、これから外輪山の縁までは登りだ。ここには坂道が4つあることになっていてそれぞれ名前がついている。
解説板から
国指定史跡「箱根旧街道」向坂地区杉並木・石畳
旧箱根宿の西側にあたる芦川の町並みを過ぎると、旧東海道は、箱根峠までの約四百メートルにわたって、急坂が続きます。この坂は順に「向坂」「赤石坂」「釜石坂」「風越坂」と呼ばれています。
江戸時代前期、街道整備の一環として、この急坂の両側には杉が植えられ、道路には石畳が敷設されました。これらは今日まで残されており、当時の街道の面影を今に伝えていることから、昭和三十五年に国史跡に指定されました。
釜石坂にて
解説には杉並木のことが書かれているが、このあたり周囲は笹やぶ。石畳の石もさほど古いものではないと思う。山中の急斜面で大雨などがあればすぐに剥がれて流れてしまうから。
4つの坂とそれ以外の名前の坂もあった、を上り切ると国道1号に出てしまう。数百メートルの間、歩道のない国道を歩く。
途中で箱根新道も合流してきてそれを渡り、いったん箱根くらかけゴルフ場の標識のある道へはいる。
ゴルフ場への分岐
左へカーブして上がっていく道へはいる。
坂を上がり切ったところが神奈川県と静岡県の境界、箱根峠だ。
ゴルフ場への道路から国道1号箱根峠、県境のサインをみる
ゴルフ場へ向かう道路が静岡県側から上がってくる道と合流するところで、そちらの道路へ移り、下りていくとまた国道1号と合流するが、目の前にある信号(箱根峠交差点)を渡ると静岡県側には歩道がある。
静岡県側から見た箱根峠交差点
峠の標高は846m、向こうの山は駒ケ岳、神山など箱根内輪山。
大型車用のパーキングの裏を通り、国道1号とは別の道路が分かれて行くほうへすすむ。こちらも2車線ある一般道だがしばらく行くと旧街道が分岐している。
旧街道の分岐点
右側の石標には「是より江戸二十五里」、側面に「是より京都百里」の文字。
ここから旧街道にはいるとひたすら下り坂になる。まわりの景色はほとんど見えない場所が多い。時々後からできた国道1号を横切ったりして少しずつ下っていく。
往来する人馬のため、粥や飼葉、焚き火などを施した接待所、茶屋のあった「接待茶屋」跡、「かぶと石」という兜を伏せたような形の石、などの解説つき場所を過ぎる。
かぶと石
この石の有難さは私にはよくわからない。
三島方面の眺望の良いところあり、ということで街道からちょっと逸れた場所へ寄り道。周囲の木を切って広場のようにしたところがあってたしかに良い眺め。
この時は富士山頂までみえた
この日、天気は良かったけれど富士山頂までは雲でなかなか見えず、ということで代表してここから。
三島、沼津、伊豆方面
旧街道に戻って
山の上の方でまだ人家がないところの旧街道はこんなかんじで保存されている。
もう少し下って、こちらも典型的な石畳の道
手間暇かけて街道に修復された石畳は、雰囲気はよいのだが、見た目より凸凹が大きくとても歩きにくい。端の石の敷かれていないところをわざわざ選んで歩いたりするが、下りの割りには速度が稼げない。急ぐなってことなのだろうけど。
滑らないように歩く場所をあちこち選んでふらふら行くと
雲助徳利の墓
盃と徳利の墓石。大酒のみで事件を起こして西国から流れてきた久四郎という男がこの地で雲助仲間に入り、やがて親分以上に慕われるようになったが酒で命を縮めることになった。彼を慕い、助けられた仲間たちがお礼に墓をたてて恩返しをしようと、徳利と盃を刻んで供養することにした。というようなことが解説に書かれていた。
この付近は山中という地名、このあたりから人家も現れてくる。
諏訪・駒形神社鳥居
山中城址という石柱が立っているが、神社の後ろは広く山中城跡、公園になっている。
山中城跡駐車場と隣の道は旧街道
山中城跡(解説板から抜粋)
山中城跡は小田原に本城のあった北条氏が、永禄年間(1558~1570)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。箱根山西麓の標高580mに位置する自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、天正18(1590)年3月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に1日で落城したと伝えられている。
城跡の発掘調査では北条流築城術の特徴ある堀が発見され注目された。
三の丸跡の宗閑寺には北条軍の松田康長、間宮康俊、豊臣軍の一柳直末などが眠っている。
興味深いところなのだけど、広くて時間がかかりそう、中は見ずに先へすすんだ。
城跡からまた石畳の旧道を少し行くと国道1号山中城口交差点、その先にも森の中へ下りていく旧街道があるのだが、工事のため通行止め。
だいぶ前から歩道を塞いでいることは情報入手済みだったが、さすがにもう終わっていると思っていた。ということはどうせ毎日工事なんかしていないだろうと高を括って入っていったら、やってた。あまりに細々と。
脇に農道のようなのが並行していたのでそちらへ移って知らん顔で通り過ぎる。
通行止めの旧街道には下草も生えちゃって
進まぬ工事の先で国道1号に合流、三島スカイウォークという大きな吊り橋が売りの観光施設の前へ出る。駐車場には結構な数の車が駐まっていた。
その駐車場出入口前から旧道へ。周囲は畑などでその分遠くまで見渡せる。
東側、左の方、山の向こうは熱海かな
旧道とまた国道1号が交差する手前に一里塚が残っている。
笹原一里塚
箱根旧街道笹原一里塚・三島市の石標あり。このあたりの地名が笹原、江戸から二十七里。一里塚は2つの塚を並べるが、ここは片方だけが残されている。
ここで国道1号を渡るとそこから先の旧道は現代の舗装された普通の道路に吸収される。
ここから舗装道路
この集落内も坂道だが、そこをはずれると「こわめし坂」と名前のついた長い急坂になる。そこは軽自動車が「上がるの精いっぱい」で喘ぎながら登っていた。坂名は、あまりに急で長い坂のため、背負っていたお米が、汗と熱でこわめし(強飯、おこわ)になったことが由来とか。どんだけ発熱する人体なのだ。
こわめし坂から
急坂感がないけどそれは写しかたの問題で、20%程度の勾配はありそう。
坂を下り切ると三ツ谷新田という集落に入る。ここからはそれほどの急坂はなく、のどかな街道歩きとなる。
三ツ谷新田・松雲寺
江戸時代は東海道を通る大名の休息所、寺本陣としても使われていたとのこと。
ちらりと頂上を見せた富士山、三ツ谷新田付近から
街道沿いの六地蔵×2
臼転ばし坂という、旧街道名残りの石畳道を少し歩くがすぐに元の道に戻り、その道も現在の国道1号に合流する。
新旧道分岐点にいくつかの石碑
影になって見にくいが、道しるべや古い供養塔など。正面の大きな石には道路側に「箱根路」の文字。
ここからしばらく国道1号に沿って松並木と石畳の歩道が設けられている。歩道部分が旧街道の道筋になるらしいが、改修はごく最近のようだ。
国道1号脇の遊歩道と松並木
途中に錦田一里塚
左手前と現国道をはさんで向こう側(柵でちと見にくい)に塚。江戸から二十八里の一里塚、2つとも残っている。
五本松交差点まで国道1号脇に最近整備された石畳の遊歩道を歩くと、そこから国道を右にそれる一般道にはいる。
愛宕坂という坂を下りると東海道線の旧東海道踏切
踏切後ろ側には箱根旧街道入口「箱根旧街道図」の大きな古い看板が立っていた。
踏切前方は緩い小さな、今井坂で、これが箱根路最後(最初)の坂道だそうだ。そこを下りると三島宿への入口となる。
小さな川をひとつ渡ると県道(22号三島富士線)に合流する。すぐに大場川を渡る。
新町橋・大場川
この橋を渡ったところが三島宿江戸見附、宿場の東側入口となる。
その6-1はとりあえずここまで。