葛飾、江戸川の一帯には多くの河川があり、水路もかつては縦横に張り巡らされて、その痕跡は現在もそこらじゅうで見ることができますが、その中から代表的な水路跡をたどってみました。
上下之割用水(かみしものわりようすい)、その下流側に続く中井堀(なかいぼり)です。こちら”仲井堀”の表記もあります。
どちらも江戸時代中期頃、人工的に開削された灌漑用水です。
関連河川水路流路図
江戸川区史第二巻12より一部抜粋
上下之割用水は別名大用水といい、小合溜井(こあいためい)を水源とする。岩槻橋を経て南下し、新宿(にいじゅく)の大堰枠で左に小岩用水を振り分け、幹流は少し下った曲金でさらに東用水(東井堀)を分水し、細田字三角で中井堀、西井堀の二線となる。(中略)
中井堀は本一色を二分しながら大杉を経て春江と一之江の境を画しながら右に振れ、やがて新川につながる。
上記区史では下端が新川とありますが、明治期迅速測図、同じく明治期地理院地図を見ると、中井堀は現在の一之江町付近で一之江境川につながっているように見えます。
今回はこれに従い、一之江境川へ合流する地点をスタート位置としました。
区史の記述と逆方向にさかのぼって歩き、一応終点を水源の小合溜井としました。
小合溜井は水元公園にある大きな池にあたります。現在も「小合溜井」の名称は使用されています。元々、江戸時代以前は利根川の流れでしたが、幾度かの変遷で川の両側が締め切られて農業用水などの溜井(=ため池)となりました。
新大橋通り(都道50号)、三島橋(みしまばし)交差点です。(江戸川区一之江6丁目)
一之江境川親水公園
この付近でかつて中井堀が一之江境川と合流していました。(別の場所でも中井堀から一之江境川への分水はありましたがここが中井堀のほぼ末流)
現在は中井堀は埋め立てられ、一之江境川は暗渠、上部が親水公園となって緑道が通っています。合流点の痕跡は見つかりません。
一之江境川などは以前たどって歩きました。
新大橋通り、三島橋東隣りの交差点から北東側へ分岐する歩道があり、これが中井堀の痕跡です。
すぐ一般道となり、一之江ひだまり公園を通過します。
一之江ひだまり公園内の歩道
公園内を斜めに横切る歩道が中井堀のかつての流路と一致してます。
この一帯は昭和30年代頃、金魚の養殖池がたくさんありました。当時の地図や航空写真をみると一之江境川や中井堀の流路はそれらの池の中に埋もれてます。
中井堀流路跡を進むと都営新宿線一之江駅前に出て、駅上を通る環七通りに沿っていきます。
環七一之江陸橋下をくぐり、その反対側へ出てくるとそこから仲井堀親水緑道がはじまります。
ここからしばらく緑道が続きます。
親水緑道途中
もう少し行くと新中川の堤防に近づきます。
右が新中川の堤防、歩道部分が中井堀です。
ちょっと先で新中川堤防に上がって振り返る
右側が中井堀跡の道路、ここで堤防に跳ね返るように上流側ではまた新中川から離れていきます。
新中川は水害対策で中川の水を旧江戸川に流すために人工的に開削された河川。かつて中川放水路と呼ばれ、1963(昭和38)年に完成しました。
中井堀に戻ってさかのぼると首都高速7号小松川線が横切ります。その付近で最初に出てきた一之江境川と再び出会います。
一之江境川親水公園のはじまり付近
手前を横切る道路が中井堀跡、一之江境川はこの付近が源流、かつてはこの付近で中井堀の水が一之江境川へ分水されていたそうです。
奥に写るのは首都高速小松川線の高架。
中井堀流路はこの先環七通りを斜めに横切り、さらに京葉道路(国道14号)を横切ります。
京葉道路の北側へ出ると”仲井堀通り”
水路の痕跡はない普通の道路です。(江戸川区大杉5丁目)
時々別の水路跡が合流/分岐します。
これは江戸川区大杉1丁目で分岐する水路跡(右)
左、中井堀跡の下流方向を向いて。
右に入って行く別水路、地図ではだいぶ先まで続いているのが確認できましたが、名前などわかりません。
菅原橋交差点
現在は千葉街道、鹿骨通り、同潤会通りなどの道路に仲井堀通りも交わり、総勢11の道が交差するといわれる交差点です。
中井堀は正面2つの建物の間から足元へ、またここには写っていませんが小松川境川の流れがこの交差点横からはじまっています。中井堀からそちらへ分水されていたようです。
菅原橋交差点を越えた先も普通の道路です。
仲井堀通りは一時的に名称が変わります。
しばらく先へ進むとJR総武線が横切ります。その付近で再び環七が寄ってきて、蔵前橋通りとの交差点で中井堀は斜めにクロス。この一帯はちょっと慌ただしいですが、またすぐに元の風景に戻ります。
左端が中井堀通り、右端には宝蔵院があり、その向こうは新中川が流れます。
八剱神社裏手からは新中川の堤防に沿うように中井堀通りが伸び、新中川の三和橋西詰に出ます。
この付近で西側から西井堀の流れが寄ってきて橋のたもと付近で合流(正確には流れが分岐)します。
三和橋西詰から中井堀、西井堀跡道路(下流方向)を望む
左端新中川の堤防、その右下が歩いてきた中井堀跡、右側の道路が西井堀跡です。
この付近より2つの堀がいっしょになる上流側は名称は「上下之割用水(かみしものわりようすい)」でしょうか。どこで名称が変わるのかはあいまいなようです。もう少し中井堀の名称を使います。
小広場正面は新中川三和橋についての解説が置かれてました。
この背後、上流側へは新中川の流路内を斜めに横切って対岸へ出ています。新中川は1963(昭和38)年に開通した河川で、中井堀流路はそのときに分断されています。
新中川上流方向、中井堀が斜めに横切っていたあたり
三和橋西詰からです。大体、この正面方向、次の橋の少し先で対岸へ達していました。
新中川対岸、葛飾区細田3丁目あたりへ出るとすぐにJR新金貨物線の線路を渡ります。
新金貨物線東京街道踏切から
道路左側が堀跡ですでに埋められていますが、線路が踏切にかかる手前、いまだに橋梁が残っています。(ちょっとわかりにくいですが)
堀跡と残る橋梁部分
踏切を渡った先から振り返る形、これもいまいちはっきりしない…枯れすすき側から向こうの木がある方へ堀があったと思ってください。
道なりに進むと高砂小橋という交差点、その東隣りを並行する道路は東用水せせらぎ緑道、上下之割用水から分岐した別の水路が近づいてきてその分岐点は近いです。
この付近、昔の字名は曲金(まがりかね)、西側を流れる中川にはかつて曲金の渡しがありました。
高砂小橋交差点は下に空いた歩道でアンダーパス、
大光明寺前を通過
特徴ある山門です。鐘楼にも見えますが鐘はないようです。
すぐ先を京成線が横切っていて車窓からも山門がよく見えました。
京成のガードをくぐって少し先、右から道路が合流してきますがそこが中井堀と東井堀の分岐点です。
中井堀、東井堀分岐点付近から上流方向
現在は水路がここで分岐していたというはっきりした痕跡はなく、車道に比べてだだっ広い歩道があるのみ、さらに堀跡は車道拡張工事中でした。
3つの堀が合わさりましたので、ここから呼称を上下之割用水に替えていきます。
再び新金貨物線を踏切で渡りますが道路工事区間内で堀跡も何も確認はできません。
その先は道幅広めの一般道となり高砂から新宿(にいじゅく)へ。水戸街道(国道6号)を渡りしばらく行くと流路は東側に少し曲がり、旧水戸街道の道すじへ一瞬でます。
上下之割用水と旧水戸街道分岐
左の立派な道路が用水路跡です。一方街道分岐点にはたくさんの石仏、石塔が集められて並んでいました。旧水戸街道、かつて鎌倉街道の一部としてこのあたり歩いた記憶があります。
用水跡を先へ進むとほどなく大堰枠の交差点
上下之割用水と小岩用水の分岐点
用水路としては下流方向を見ています。右へ上下之割用水、左へ小岩用水が分岐していました。ここはそのほかにもこの周辺へ水を供給する小規模な用水路がいくつも分岐していたようで、何本かその痕跡を残しています。
上下之割用水をさかのぼるとすぐにJR常磐線線路を横切ります。金町駅の西側になります。
常磐線交差手前
鉄道交差の手前、原田橋が正面にあります。現在橋の下は車道が通っていますが、用水路跡で、橋は元々は水路に架かっていたものではと想像させます。
線路を越えて北側すぐに東京理科大葛飾キャンパス前を通過。また幅の広い一般道を北に向かってしばらく歩きます。
岩槻橋交差点(葛飾区南水元4丁目付近)にくると、その先は小合溜井からのびる池の先端です。
交差点は地下歩道で渡り、先へ出ます。
地下道から出たところ
手前の石垣が上下之割用水のはじまりの堰にあたる場所、その向こうは小合溜井から続く細長い池になります。
現在、堰にあたる部分から上下之割用水方面へは水は繋がっていないはずです。
その先、池、堀、川のどれか?の様子
奥へ向かって
奥に土手があってその向こうは水元公園、小合溜井へつながっています。こちらの池には中央に人工滝が設置されて水が供給されているようです。
滝に近づいて
水元公園に入る
水元大橋(歩道橋)の前へ出ました。こちらの水が小合溜井、元々は古利根川(中川)の流路で、1729(享保14)年に両端を閉めきってつくった溜池(用水池)です。
上下之割用水へはここが源となり、水路の遡上はここで終わりですが
水元公園内の小合溜井沿いに歩きました。
対岸は埼玉県三郷市になります。
両岸ともに公園として整備されていてきれいです。以前、初夏に訪れましたが、その時は華やかさも加わっていました。
場所を少し変えて
この後、小合溜井の上流側につながる大場川に沿って三郷市から八潮市方面へ少し足を伸ばしてみましたが、そちらはまた別の機会にしたいと思います。