散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

二宮から松田へ歩く 海・山・鉄・川

2019年12月、神奈川県二宮から松田へ歩いた備忘録。

JR東海道線二宮駅からスタート。
駅ホーム越しに吾妻山

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吾妻山は標高136m、頂上付近吾妻山公園は初春の頃、菜の花畑となります。この日はのぼりません。

 

西へ歩きます。

東海道国道1号)川勾(かわわ)神社入口交差点歩道橋から

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向こう小田原方面へ下り坂。

東海道旧道がこの手前で分岐しています。

近くに東海道一里塚跡があります。

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解説一部抜粋

東海道一里塚の跡
(前略)
ここ二宮の一里塚は、江戸日本橋から十八番目の一里塚で、大磯宿と小田原宿の中間に位置しています。塚は街道を挟んで両側に築かれ、北側の塚は、高さ一丈二尺(約三・六メートル)、上には欅(けやき)が植えられ、南側の塚は、高さ一丈(約三・三メートル)、上には榎(えのき)が植えられていました。周辺には、旅人目当ての茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。
二宮町教育委員会

二宮は街道で”間の宿”との位置づけだったよう(たぶん江戸時代中後期)。

 

旧道しばらく行くと二宮坂の下で現国道に合流、中村川の流れに出合います。

中村川、河口方向

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正面は海岸、「海」です。その手前に西湘バイパスの橋梁。

対岸の河原に出て河口の砂浜を目指します。

海岸まで出られず

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地図ではまっすぐ海に向かっているはずの中村川の流れ、このときは河口手前で右折してから海に出てました。
向こうのブロックを乗り越えないと海岸には出られません。ここで足止め。

海沿いの景色は小田原から真鶴、その向こうは伊豆半島

 

反対方向も

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結局海の水には直接触れられず。「海」編はここまで。

 

内陸部、「山」へ。

しばらく歩くと東海道新幹線線路(小田原市上町)

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少し新幹線線路沿いに歩き、新幹線弁天山トンネル入口の上を渡って山間部へ。

山といっても最高300m程度、曽我山、曽我丘陵とも呼ばれる場所。
その東側から上がって西側へ下ります。

坂道をあがりつつ

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新幹線はこの地下を通過。向こうは丹沢、少し雪がありました。

 

尾根近くへきて東側

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二宮町、遠く三浦半島、房総半島まで。

 

尾根を越えて、南西側が開けてきます

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下は小田原市街地方向。

 

箱根を正面にしているはず

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西側は雲行きが怪しい。このあと雲の通り道となった下を歩くことに…

 

曽我梅林を下に見て

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緑のみかんの木の向こう、冬の梅林が丘陵の裾野に広がります。

 

山を下りて梅林の中を進む

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12月で花はまだ。この冬は暖かそうなので1月中には咲く?

 

みかんの集荷場

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宗我神社を目指して歩いている途中。

ケースの中はどれもみかんでいっぱい。隣りの建物では「小田原みかん」「湘南のかほり」の箱詰め作業、出荷準備中でした。

 

宗我神社

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旧曽我郷の総鎮守とありました。
鳥居脇に立つ解説から日本語部分のみ

宗我神社
祭神 宗我都比古命(そがつひこのみこと)
   宗我都比女命(そがつひめのみこと)
宗我神社は明治28年の神社上書に依れば、「長元々年(1028)に奈良県橿原市曽我町の武内大社宗我都比古神社の神主だった宗我保慶が祖先の宗我都比古命の墓を訪い、同時に武内宿弥及び宗我都比古命を鎮祭して・・・」が当社の創建と決めています。
足柄上郡旧上曽我村及び曽我大沢と、下郡の下曽我に属する旧四村を併せて、古くは曽我郷六ヶ村と呼ばれました。その総鎮守が、宗我神社でした。小田原北条氏の時代から小田原城鬼門擁護の神社とされていました。江戸時代には小沢明神の名で総崇され、明治に入って六ヶ村それぞれの鎮守をこの社に会示し、新たに宗我神社となりました。現在の社殿は大正12年(1923)関東大震災後に復興したものです。

 

いくつかの梅林を見ながら歩くと
JR御殿場線梅林踏切

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ここから少し「鉄」です。

この踏切の場所は1960年代まで、酒匂川河原で採取した砂利を運搬するための線路が分岐していくところでした。

 

踏切を渡って左はこんな風景

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左側御殿場線線路、向こうへ行くと下曽我駅。そこから砂利運搬線線路がここまで並走していたようで、正面の道がその跡です。

向こうの橋は用水路、水が上を流れています。いつ頃できた橋なのかわかりませんが、橋脚が微妙な位置にあります。

 

反対方向の様子

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ここからは線路跡が左へカーブして御殿場線から離れていきます。現在はここから立派な道路になっています。

 

線路特有のRを描いて

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方向が定まったらひたすらまっすぐ

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1300mほど直線が続き、その間いくつかの大きな用水路を橋で越えています。

 

酒匂川の手前までくると川に向かって再び左カーブになります。
現在の県道711号交差点からまた左カーブ

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最後は酒匂川堤防に沿った、砂利の積み込み設備やヤードのあった場所へ。

終点手前、現在小田原木工団地となっている砂利積込場所跡

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木工団地の建物が並ぶ一帯が砂利積込み場所でした。
砂利採取線は譲原砂利(現:譲原建設㈱)という会社により利用されていたとのことです。

 

小田原木工団地脇、酒匂川堤防から(小田原市桑原)

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砂利積込みが行われていた場所付近、堤防にあがってみました。(ちょうど低い雲の通り道直下)

 

ここから「川」、酒匂川左岸堤防を上流に向けて歩きます。

堤防上から丹沢方面を望む

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堤防に植えられた松の並木(大井町西大井)

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酒匂川両岸堤防には松(クロマツ)がよく植えられてます。二宮尊徳が苗を植えたのがはじまりともいわれてますが、根が張ることで堤防が固められ、治水に効果があることは昔から知られていたのでしょう。

 

一瞬あたまをのぞかせた富士山

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この時だけ、正面、矢倉岳の背後に雪をかぶった頂上が見えました。

 

対岸は開成町

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足柄大橋を望む

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橋の上には、まさかりかついで熊に跨がった金太郎の銅像があります。

 

正面、川音川(右から)と酒匂川合流点

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前方へ進めなくなった、というよりこの日はここまでの予定。

 

川音川沿いに対岸へ渡る橋へ

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ずっと向こうは東名高速の橋梁。

 

小田急新松田駅

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足あと地図(必要かな?)