散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

利根大堰を渡り利根川堤防を川俣へ歩く

見沼代用水路を起点の利根大堰へ歩いたあとの記録です。

利根川にかかる利根大堰の管理橋、武蔵大橋を渡って群馬県に入り、利根川堤防を下流方向へ
川俣宿跡を通って東武伊勢崎線川俣駅まで歩きました。

 

最初は利根大堰付近から
利根大堰で取水された水が堤防の外へ流れてきていくつかの水路に分岐する(大分水工)手前、ここは含まれる砂などを沈殿させる沈砂池でもあります。


利根川右岸堤防から見下ろして

 

利根川方向
こちらが利根大堰全景

全部で11の堰柱が立ち、各間に門扉(ゲート)が10あって利根川水位の調整を行います。

水位がやや上がった大堰上流側、手前側に見える取水口と堤防に設けられた樋管を通って分水工へ水を通します。〈見沼代用水・その5でも同じような事書きました〉

大堰に併設された管理橋兼道路橋(武蔵大橋)がみえます。

 

武蔵大橋を通る道路、利根川が埼玉・群馬県境
橋を背後に埼玉県に入ると分水工が前に

 

向きをかえて橋を渡ります
幅の狭い道路のこれまた狭い歩道を先へ

 

渡り始め

中央は取水口、左端は堤防を通す樋管入口側ゲート。

橋の真下に大堰の魚道などを観察できる施設があるようですが立ち寄りませんでした。

 

水面上へ出て〈これは前回再掲の写真〉


湖面のような上流側

水面に点々と、鳥の群れ〈鴨かも〉

 

車道側、下流方向


対岸に近づいて上流側


渡り終わってふり返り


対岸は群馬県千代田町


ここから利根川左岸堤防を下流方向に向かって歩きます。


利根大堰、間近からもう1回


堤防天端の道

歩道とも自転車道とも表示はなかったです。たぶん管理道〈車両乗り入れは制限されますが自転車歩行者は通れます〉。

 

河川敷

対岸堤防まで大雑把に700mほど。〈都内の荒川下流と同じくらいか〉

 

これは反対方向

堤防付近は意外に住宅が多い、と思いました。

遠くに見えるのは男体山、赤城山など〈自信はない〉

 

利根大堰から2㎞ほどで千代田町・明和町の境界を過ぎ
今いるところは明和町、河川敷側は新堀川排水樋管

利根川北側を流れるいくつかの河川の出水時、利根川へ排水するための設備とのこと。

 

その周辺、河川敷は運動場となってました

 

運動場の端まで行くと海から151.0㎞の標識

先に架かる橋は国道122号昭和橋。

橋の手前で堤防から下ります。
利根川堤防を歩いた距離は3㎞ちょっと。川の長さに比べると物足りないですがまたいつか機会を見つけて。

 

国道122号の先へ出ると国道と並行する道路へ

前方に見えるのが利根川左岸堤防。

堤防手前で道はぷっつり途切れてますがここは古い道。途切れた先は利根川を渡る『富士見の渡し』がありました。

 

反対方向を見て

道がまっすぐのびています。日光脇往還(裏街道)、千人同心街道、館林道などと呼ばれた街道筋です。

そしてこのあたりは川俣宿内、道の両側に数十軒の商店、宿屋などが建ち並んでいたそうです。今も住宅が道すじに並んでいます。

 

利根川堤防から街道を500mほど先へ行くと碑がたってました。
「川俣事件衝突の地」碑

 

横には解説文

明和町指定史跡
川俣事件衝突の地
 平成十一年十二月二十八日指定
 所在地 明和町川俣五五八番地
 所有者 水資源開発公団
足尾銅山の鉱毒に苦しめられた渡良瀬川流域の農民は、明治三十三年二月十三日、鉱業停止を求め東京へ向かうが、その途中、この地(橋付近)で警官隊と衝突した。これが、川俣事件である。
当時の佐貫村長や村民は、負傷した農民を真如院にて手厚く介護したということである。
平成十二年二月 明和町教育委員会

 

事件の碑がある場所がほぼ宿場のはずれ、街道次は館林宿。

この日は鴻巣から歩いてきて余裕もないので先へは進まず近くの駅へ向かいました。

 

田んぼの向こうを走る東武伊勢崎線


川俣駅

 

ここまで。