埼玉県桶川市内に川の起点があり東京都葛飾区で中川に合流する、流路延長48㎞の綾瀬川を歩いています。久しぶりに歯ごたえのある川歩き〈って何だ?〉
その1を書いている時点でまだ歩ききってませんが、咲き誇っていた桜の写真なども撮りながら歩いていたのでそんな風景が色褪せないうちにまとめることにしました。
平井大橋の上から出発です
蔵前橋通りが通る平井大橋、下は荒川と中川が並流し、橋の途中で首都高出入口が分岐しています。出入口2本の道路の間に堤防に下りることができる歩行者通路があるのでそこを下ります。
荒川の方向を見ていますがスカイツリーに雲がかかって天気が怪しいです。
下は荒川と中川を分ける中堤、背割提(せわりてい)ともいう堤防の上、そこを上流へしばらく歩いていきます。堤防の上は首都高です。
背割提の上から右側、ここはまだ中川
中川の先にある水門は上平井水門、高潮や津波が川を逆流するのを防ぐ(止める)ための水門です。
左にある階段がついた設備も水門で中川水門、こっちは隣りを流れる荒川増水時に水が中川へ流れ込まないよう制御する水門です。普段は開いていて小さな船の通路としても利用されます。
首都高上にあるのはかつしかハープ橋。
左からまっすぐ来るのが綾瀬川。右は中川、先は流れが大きく蛇行していて七曲りといわれる区間です。この日は左へ進みます。
少し先からふり返り
かつしかハープ橋、上平井水門、中川の方は上平井橋です。
隣りが荒川なのは同じですが綾瀬川との背割提となった上を引き続き歩きます。
向こう左岸側がちょいと高くて橋が傾いてます。
その上を通る首都高、このあたりは中央環状線でそのうち6号三郷線になりますが、ずいぶん先まで綾瀬川左岸に沿ってついてきます。
東四つ木避難橋付近から上流方向
左に荒川、右に綾瀬川、正面左のトラス橋は木根川橋。(右綾瀬川上も同じ木根川橋でした)
この付近、荒川も綾瀬川もほぼ流れは直線です。大正から昭和初期の荒川放水路開削工事と同時に中川に合流する綾瀬川の新流路も開かれました。
それ以前の綾瀬川は現在の堀切橋付近で現荒川流路を横切り、隅田川へ合流していました。
それとは別に現堀切橋付近で本流から分岐した古綾瀬川が存在し、現在の綾瀬川流路付近を流れて中川に合流していました。荒川放水路はこの古綾瀬川に沿って流路が設定され開削工事が行われたものです。
木根川橋の先、京成押上線橋梁、新四ツ木橋、四ツ木橋と連続して橋をくぐります。
四ツ木[小]橋の上流側から
手前から四ツ木小橋(綾瀬川は別橋の扱い)、向こうは新四ツ木橋(Wikipediaによれば『新四ツ木小橋』)、上を交差する首都高はだいたいいつでも渋滞してます。〈いらんこと混ぜない〉
四ツ木小橋から500m上流には堀切避難橋、さらに400mで堀切菖蒲水門。
下流側から
このあたり川に水門が多いです。綾瀬川この上流に綾瀬水門があって増水時、荒川への強制排水を行うのですが、下流で合流している中川の水まで逆流させて効率が悪いことがわかり、間に造られたのがこの水門です。
周囲は0メートル地帯で土地の傾斜がなく、川の水を所定の方向に流すのも結構大変ということです。
堀切菖蒲水門の上流側は首都高堀切ジャンクション
綾瀬川は護岸工事中のようです。
その先、堀切橋、京成本線橋梁が続きます。
京成線橋梁上流側から
上流側に目を転じると綾瀬水門
綾瀬川が荒川と並行するのはここから。つまりこれより上流は綾瀬川単独の流れとなり、荒川との間にあった背割堤もなくなります。
水門のゲートは定常時開いています。大雨時など荒川の水位が上がると閉められて正面の白い建物、綾瀬排水機場ポンプから綾瀬川の水が強制排水されます。その時に下流の中川からも水が逆流するので、というのは先ほども記した堀切菖蒲水門のこと。
荒川の堤防から降りて排水機場の先へまわり込みます。
『中の橋』上から下流方向
正面に綾瀬水門。荒川はこれから離れていきますが首都高はまだずっとついてきます。
同じ橋上から上流側
首都高は小菅ジャンクションです。
お花見までの長い道のり
〈綾瀬川と直接関係ない〉
次の新水戸橋から上流側
先に見える緑の橋が水戸橋、古くからある橋で千住から分かれてのびる水戸佐倉道にかかっていました。たもとには『水戸橋跡地』として古い橋台、灯籠などが残されていました。
綾瀬川もかつての隅田川合流点からこの周辺を含めて内匠橋(足立区南花畑3丁目)付近までは寛永年間(1624~44)ごろに掘削された水路です。寛永以前は現内匠橋付近で分岐している垳川(がけがわ)流路を通って古利根川(現在の中川)に合流していました。
こちらは水戸橋上から上流方向
ここから東京拘置所の東側をさかのぼっています。古くは古隅田川が綾瀬川の流路を横切る形で流れていたり、この周辺の川の流れは複雑怪奇だったようです。
ところで寛永年間に開かれた綾瀬川流路部分ですが、現在はコンクリートの高い堤防にはさまれて川端の道路から水面を望むことはほぼ不可能です。橋のあるところでその上へあがり様子をみてまた戻るの繰り返しでした。
水戸橋の上流側隣りの橋は伊藤谷橋、その隣をJR常磐線がわたります。
伊藤谷橋から上流側
五兵衛橋から五兵衛新橋
川横の堤防
少し前まではコンクリートむき出しでした。いわゆる『カミソリ堤防』と呼ばれた薄い板状の壁で、だいたい昭和30~40年代に整備されたものが多いです。
綾瀬新橋付近
この橋は高さが護岸堤防より低い位置にあります。そのため陸閘(スライド式の水門、青く塗られている部分を横に引き出して閉じる)が備えられてます。
綾瀬新橋から下流方向
たしかにこの橋は水面まで近いです。ちょっと背の高い船は通過できませんね。
その次のみどり歩道橋から
堤防の薄さがよくわかります。
さらに500mほどさかのぼると環七通り・新加平橋に達します。
新加平橋から上流方向
首都高は加平IC、蚊取り線香みたいなループ状のランプウェイが上下線2か所に付属する、地図で見るとよく目立つところです。
一方でここは歩行者泣かせ、環七を横断するのにかなり迂回を強いられました。
新加平橋から約500mで次の六町加平(ろくちょうかへい)橋です。
左側、新しい堤防建設工事を行ってます。薄いカミソリ堤防からこれはスーパー堤防と呼んでいいのでしょうか、に造り替えてます。
堤防以外にも橋が通る道路や周辺の土地改良区画整理が大規模に行われているように見えました。
六町加平橋からしばらく行くといつの間にか従来タイプの堤防に戻り、1000mほど先は内匠橋(たくみばし)。
内匠橋上から下流方向
首都高の下、堤防の切れ目から花畑運河合流。
花畑運河は中川と綾瀬川を結ぶ延長1.4㎞の運河です。中川から東京中心部への舟運の利便化をはかるため1931(昭和6)年に完成したものですが、直後から舟運の衰退がはじまり、有効利用された期間は短かったようです。
こちらは内匠橋から上流方向
この付近から下流が寛永年間に開削された綾瀬川、これより上流はしばらくオリジナルの流路です(改修箇所は多々あります)
とりあえず左岸上を並行していた首都高とはここでお別れになります。
内匠橋の100mほど上流にて
この上流(左)側に向かって川は左にカーブします。首都高の下に四角い2階建て建物がありますが、垳川排水機場、手前の樋門で向こう側を流れる垳川(がけがわ)と水のやりとりをしています。先に記しましたがここから下流にのびる水路が掘削される前(江戸時代初期以前)は垳川が綾瀬川本流でした。
また垳川から綾瀬川この上流へと現在東京埼玉都県境になってます。
左へカーブした綾瀬川に沿って進むとこれまでと雰囲気が一変します。
都県境の綾瀬川となって
こちら側は東京都足立区、対岸は埼玉県八潮市。(厳密には都県境が旧流路に沿っているのでこの足元に関しては八潮市になっています)
少し先へ歩くと旧流路沿いの遊歩道には桜が咲いてました。
ようやく桜登場
ほどなく浮花橋
文字通り桜の花びらが流れていました。
標識がデカい。
しばらく住宅と工場が隣り合うところを通っていきます。
少し先に青い壁の建物が見えますが
染物(捺染)の工場でした
また少しさかのぼってから下流方向(足立区花畑6丁目付近)
足立区立鷲宿東公園の桜
公園の先では3つの流れ+αが交わります。
3河川合流点
手前から毛長川(けなががわ)、水門から流れ出る伝右川(でんうがわ)、その奥に目立ってないのが綾瀬川です。さらにその右+α分の水路(農業排水路かと)も合流しています。
《追記》+αの水路部分、相当昔の綾瀬川流路の名残りでもあるようです。
少し手前から(木の枝邪魔ですが)
あまり桜出てこなかったですが、長くなったのでまずこのへんで刻みます。
これより綾瀬川は埼玉県を流れます。そちらはその2以降で。
(まだ途中までですが)流路地図を置いておきます。その1で歩いたのは紫色の区間
続きです。