散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

文京区を歩いて一周してみた (1)御茶ノ水聖橋から千駄木よみせ通り

文京区の境界に沿って一周歩きました。

境界って、それいわば区の辺境でしょう、とはいえそこは東京23区でも中心のほうに位置する文京区、結構いろんなものが境界にもありました。若干My趣味の世界もありますが。

スタートは御茶ノ水の聖橋、ここから反時計回り、できるだけ忠実に境界を一周して再び同じところへ戻ってきます。

足あと地図

今回は御茶ノ水から西日暮里駅ちかくの黄色いぽちまでです。

 

聖橋の上から

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JR御茶ノ水駅聖橋口に下りて聖橋を渡ります。ここ、周辺を含めてずっと工事中なのですが、聖橋の姿は最近少し見えるようになりました。
といってもまだ映える写真になりません。

向こうの木立ちは湯島聖堂、その手前外堀通り、下はJR御茶ノ水駅です。地下鉄丸ノ内線の線路が見えてますが、その下にある神田川は見えません。

この付近、神田川が文京区と千代田区の境界です。

 

聖橋から湯島聖堂へ直接下りる階段があるのですね。(知らなかった。)その階段を下りて
湯島聖堂・入徳門から大成殿

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孔子像を見て仰高門を通ってから外(外堀通り)へ出ます。

仰高門近くに昭和11年文部省による「説明」があったので文字を

説明
寛永九年(一六三二)、尾張藩徳川義直 林道春(羅山)をして、上野忍ヶ丘に先聖殿を造營せしめしに始まる。その回祿(火災)の災に罹るや、元祿三年(一六九〇)、將軍綱吉之を今の地に移して、大成殿と稱せり。後、寛政十一年(一七九九)大成殿及び杏檀・入徳・仰高諸門を再建し、明治維新の際、大學を此地に置くに及び、一旦孔子以下の諸像を撤去せしも、後、舊に復せり。
建造物は暫らく東京博物館の一部に充てたりしが、大正十二年(一九二三)九月一日、関東大震災の為、入徳門・水屋等を除くの外、悉く焼亡せしを昭和十年(一九三五)四月四日鐵筋混凝立(コンクリート)構造に依りて原型に復せり。
昭和十一年三月 文部省

 

湯島聖堂の東側で区境が神田川からあがってきます。昌平坂下から湯島聖堂の塀ごしに少し坂を上がり、あれこれ入り組んでますが、まずは神田明神下へ。
湯島聖堂横の石垣と塀

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神田明神下の路地で珍しいものに出会いました。

神田で馬を散歩させている人がいました

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ちょっと遠慮して、通り過ぎてから一枚いただいてます。
ということで後ろ姿になってしまいましたが、芦毛のポニー、何事ぞ、思わず調べてしまいました。

その結果、ポニーは神田明神の御神馬・神幸号(みゆきごう)、通称は”あかりちゃん”といって、周辺を散歩させているということが分かりました。

散歩のはじめに神馬に出会うとは、幸先よろしい。ちょうど神田明神へ向かう途中でした。

 

明神女坂を上がって神田明神

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この坂(階段)近くを文京区、千代田区境界が通っています。階段下には千代田区外神田の標示です。

 

神田明神千代田区側となりますが、門前を通らないと区境へ出られません。ということで中を覗いていきます。

神田明神隨神門

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近くから(端が切れました)

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江戸総鎮守神田明神・長生殿

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隨神門付近から鳥居など

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道路向こう側は湯島聖堂です。

一旦鳥居をくぐって正面の中山道に出ますが、すぐ隣の通りへ引っ込み、引き返して神田明神西隣りの宮本公園に入ります。

 

宮本公園も元々は神田明神の敷地であったようです。いつ、なぜ分割されたのかは調べていません。

この公園の一角には現在、”神田の家”という古い民家が移築されていて、カフェを営業しているようです。これもどういういきさつなのか不明なのですが、建物は趣きがあったので

横から1枚

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元は神田鎌倉河岸の材木商店舗兼住宅、現在は千代田区指定有形文化財「遠藤家旧店舗・住宅主屋」だそうです。建物は昭和2年建築です。

 

公園を北側に蔵前橋通りへ出て渡り、妻恋神社のある妻恋坂へ。

妻恋坂の通りへ出る階段

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湯島聖堂からこのあたりまで文京区境界は複雑に入り組んでいましたが、いつしか昌平橋通りに出て北上、湯島天神下交差点のひとつ手前の信号まで行き東へ折れ、春日通りへ入って上野広小路交差点近くへ出ます。

このあたりへ来ると文京区と境界を接するのは台東区になります。

上野広小路交差点

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中央通り北方向、上野のほうを見ています。この交差点まで来ると台東区側に少しはみ出しているのですが、信号を渡って左へ春日通りを少し戻り、また路地をジグザグしながら不忍池南側をかすめ、湯島天神北側へと進みます。

 

向こうの通りまで出るとその先は上野公園、不忍池ですよって所

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区境は池之端と天神下の間で昌平橋通りを横切ると、旧岩崎邸庭園の後ろ側へ入り込み、関東財務局とか経済産業局とか、とにかく勝手に通りぬけられないところを通過しています。

こちらは春日通り、切通坂を上がります。

向こうは湯島天神、階段は夫婦坂?

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湯島天神入口交差点までは行かずに細い道へ折れ、なんとか財務局、産業局とかの脇を通ります。
古そうな塀が続きます

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旧岩崎邸庭園から続くこの一帯は江戸時代、榊原式部大輔高田藩中屋敷。そのお屋敷名残りの塀なのでしょうか。

 

その北側へまわるとレンガの塀が現れます。

立派な石垣とレンガ塀、道は無縁坂

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無縁坂が旧岩崎邸庭園敷地との境界になり、文京区・台東区の境界でもあります。

 

境界線はこの先東京大学の構内へ入ります。ちょっと戻って東大付属病院近くの鉄門から中へ入ります。

東大鉄門と付属病院

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門の脇に”由来”があります。

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鉄門の由来
東京大学医学部と附属病院の創立は安政五年(一八五八年)、神田お玉ヶ池の川路聖謨の屋敷地に開設された種痘所にさかのぼる。種痘所は類焼により同年、下谷和泉橋通りに移転した。種痘所の門扉は厚い板を鉄板で囲い、鉄板の間を頭の丸い鋲釘で打ちつけ真黒に塗ってあったので、江戸の人々は種痘所を鉄門と呼んでいた。種痘所は西洋医学所、医学所、医学校、大学東校、東校、東京医学校と改称され、明治十年(一八七七年)に東京大学医学部となった。
東京医学校は明治九年(一八七六年)に本郷に移転した。本館は時計台のそびえる洋館で、現在の付属病院外来棟玄関の辺りに建てられた。正門はその向かい、現在の南研究棟(通称赤レンガ)の位置(本地点より西に約三十メートル)に設置された。移転当初は種痘所の門扉も使用されたが、やがて格子模様の鉄製扉に変えられた。
当時、医学部正門は本郷キャンパスの正門であった。明治十七年(一八八四年)に法・文学部が、翌年理学部が神田一ツ橋から移転してきたことにより、共通の公式門として本郷通り側に正門が設けられ、以後、医学部正門は鉄門と呼ばれるようになった。しかしながら、大正期に鉄門前の民有地が構内に取り込まれたため鉄門は撤去された。
東京大学医学部の創立百五十周年を記念し、鉄門をゆかりのある無縁坂上に再建した。末永く多くの人々に愛されることを願うものである。
東京大学医学部・医学部付属病院

 

区境界は大学敷地のいちばん端を通っています。

東大病院東側の崖下、少しうす暗いところを歩いて池之端門から外へ出ます。池之端門近くにかつて東大病院の霊安所があったことは知ってます、っていう感じの場所です。

東京大学池之端

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多分、赤門にこの標識はとりつけないでしょう。

 

外に出て道路を暗闇坂の方へ進みますが、その手前で折れて再び東大浅野キャンパスへ入ります。

なにこの放置されてる出入口

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理学、工学系のキャンパスですが、こちらも区境界はいちばんはじっこを通っています。

ここから入って行くと何年(十数年?)か前までは使われていた職員住宅跡が廃墟になって並んでいます。キャンパス内とはいえ学生どころか誰も通らないですね。門の前にも「本学関係者以外の無断入構を禁止する」掲示がされてます。(でも通っちゃいましたが)

 

構内から、崖の上、あのへんが弥生時代です

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弥生二丁目遺跡。弥生時代後期の集落跡が発見され、弥生土器の由来となった場所とされていますが、明治時代に土器が見つかった”向ヶ岡貝塚”は正確な位置が不明となっていて必ずしもここが「弥生」の由来とは確定できていないのだそうです。(文化庁文化遺産オンラインにそんな記述がありました)

またしても大学構内というかんじのしない場所を通りぬけ、言問通り側の門から外へ出ます。こちらの門は先ほどよりややましです。

こちらの門横に「旧向ヶ岡弥生町」の標示と解説がありました。弥生土器の向ヶ岡貝塚はここでいいんじゃないかと個人的に感じました。

 

言問通りを真っ直ぐ行くとすぐに根津駅ですが、区の境界はあちこち折れ曲がり、上野公園近くまで戻ります。

旧都電車両が一両保存されていた公園のある池之端二丁目交差点付近まで南下し、そこから今度はすごい細道を北へ反転します。

区境が通る細道

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左側が文京区根津、右側が台東区池之端(丁目略)です。

この細い通路ですが、藍染川(谷田川)の川跡のはずです。この川は巣鴨の染井霊園付近に源があって上野不忍池へと流れていました。大正末から昭和初期には暗渠化されて現在は流れを見ることはできません。

ここからこの川跡に沿ってしばらく区の境界がのびています。

 

北上して再び言問通りまで戻ってきます。

昔せんべいの大黒屋さんの前へ出てきました

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道は少し広くなりますが、まだずっと川跡に沿って歩きます。向こう奥へ進みます。

 

ここでなぜか、どなたも丁子屋さんを写真に撮りますね。藍染川に染物屋さん、川跡だと知ってる方ですね。

左手前の建物です

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根津、藍染川が流れていたのでここに店を構えたという丁子屋は明治28年創業、染物、洗張の店です。建物は最近建て替えられてきれいになっています。

 

紫陽花の季節です

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藍染川跡の道はこの先でまた細くなり、くねくね蛇行しはじめます。
「へび道」と呼ばれています

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サインカーブの道がしばらく続きます。実はへび道ははじめて歩いたのですが、車は何とか通れる幅があります。もっと細いと思っていました。

 

亀の子束子がさがってます(へび道にて)

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興味ありましたが中へは入ってません。

住宅が密集していて遠望が利かないですが、歩いているとほんとに右、左、右、左と規則正しくカーブしていることがわかります。そして地図をみるとそのカーブを忠実に区境界線がトレースしています。

 

へび道をぬけると区境、川跡はよみせ通りへと入ります。

よみせ通り入口

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こちらの商店街は藍染川が暗渠化され、その上の道路を拡張してできた通りに市が開かれてできたのだそうです。なのでそんなに古い商店街ではありません。

 

谷中銀座の通りが交わるあたり

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少し先に「谷中ぎんざ」商店街の入口が見えてます。最近はこちら「よみせ通り」もなかなかの人気スポットで、通りかかった時には外国人観光客の姿もずいぶん見かけました。

でも右側、店先に腰かけてところてんを食べてるおじさん2名の姿もなんか良いです。

ところでお店の看板にある、蒟蒻、白滝、竹輪麩、寒天、全部わかりますか?

読みはそれぞれ、こんにゃく、しらたき、ちくわぶ、かんてんですが、ポイントはちくわぶ。何が言いたいかというと東京近辺にしかないらしい食べ物ということで。

ja.wikipedia.org私は東京生まれなので子供の頃から馴染みがあるというか、どこにでもあるものかと思ってたのですが、全国では知名度が高くないということは最近知ったしだいです。話が飛びました。

 

谷中銀座、今日は入口からのぞくだけ

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境界線が通ってないのでこの日はこっちには入りません。

 

よみせ通りの商店街はもう少し先へも続きます(左:文京区千駄木3丁目、右:台東区谷中3丁目)

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そして道灌山通りの広い道路にぶつかるとよみせ通り商店街も終わりです。

文京区境はそのまま先の道路へとのびていきますが、ずっと隣接していた台東区から、ほんの一瞬だけ荒川区が境界を接する場所へ出てきます。

 

長くなったのでここでひと区切り、次は荒川区境界からです。