横浜・千代崎川(ちよざきがわ)の暗渠歩きをしました。
千代崎川は横浜山手台地の湧水が源流となって本牧の北で河口に達する、距離的には4~5km程度の小さな川です。
南区山谷(猿田川)、中区寺久保(簑沢川)、中区根岸台根岸森林公園(江吾田川)におもな3つの支流源があり、それらが中区山元町付近で合流、柏葉、麦田町、千代崎町を経て小港町で東京湾(横浜港)に注いでいました。
現在は最下流の一部を除いて下水道暗渠となっていて、支流上流部の流れの有無は不明瞭なものもあります。
今回、河口からさかのぼる形で歩き、上にあげたの3つの源流近くまで足を運びました。しかし猿田川と簑沢川の源流は根岸米軍住宅敷地内にあって、いずれもフェンス手前までしか行けてません。
スタート地点の河口あたりからいくつか。
河口
レモン型のフェンス向こうは東京湾、ここが千代崎川河口です。
ちなみに橋がいくつかかかっているのは本牧埠頭(左A突堤、右BC突堤)です。
河口付近から上流方向
河口から200m弱がいわゆる開渠区間、普通の川です。
小港橋があった地点から先は暗渠
下に開いているのが暗渠出口。
かつてここ(暗渠出口の上)にあった小港橋の親柱が海側に2つ残されています。


一方に「小湊橋」(港の文字が異なる)、もう一方には「大正十五年十二月竣工」。
千代崎川には橋が25架かっていた(個人が架けた勝手橋を除く)そうで、うち24が関東大震災の復興事業の一環として建設されたものです。小港橋の竣工が大正15年12月とありますが、他の橋もそのころ架けられました。当時は木橋もあり、戦争中の空襲、川の暗渠化や橋の老朽化に伴い、その痕跡はあまり残ってなく、あってもボロボロだったり、です。
かつての橋上から河口方向
様々な護岸が隣り合ってます。もっとも手前側がいちばん古い護岸、その先は埋め立てにつれて延長されたものでしょう。
なお明治初期までの河口はここより北に250mほど離れた場所にあったようです。震災復興事業では千代崎川の流路もあちこちで見直されました。
暗渠区間に入ります。
小港橋背後の道路を渡るとフェンスで囲まれた敷地を100mほど進みます
右側フェンスの中が流路跡になります。車止め先を横切る道路にはかつて『東泉橋』がかかっていたそうです。
現在千代崎川下流部は下水道となり、通常時に水は河口近くの中部水再生センターに導かれているはずで、この付近から流路が変わっているはずです。
降雨があるとすぐに通常時でなくなり、暗渠出口から処理できなくなった下水が直接放水されるのは多分全国共通
フェンス先は一般道になっています。
カーブする道路が流路跡(中区本牧町)
やや先で隣にもう1本道路が接近してきます。
すると段違いの道になります
左の路盤が高いほうが暗渠化された川です。厚い蓋をかぶせたのでこんなになってしまいました。道路はそれぞれ一方通行で実質2車線になってます。
低い側の道から
横切る道があるとどうなるか気になります。
千代崎町4丁目交差点
低い側をマウンドにするということで、どうってことはありません。
右側道路は昔から存在しており、千代崎川の流れを挟んだ対岸にも住宅などがいくつもあったため、この区間はたくさんの橋(個人の勝手橋も)が架かっていたそうです。
勝手橋ではない、『市場橋』の親柱が残っています。
コンクリート製の親柱は左手前と建物角、箒の右側。橋名標などは残ってません。左奥には橋の名のように市場の名残りがあり、小さな店が開いています。
角度を変えて
かつては仲台上台市場といい、現在も奥はスーパーマーケットです。(市場の名称についてご指摘いただきましたので修正しました)
市場橋跡から少し先で段差のある道路が分かれます。
左カーブするかつての川跡。現在の車の流れはうまいこと処理されているようです。
川跡はすぐ先で広い本牧通りを斜めに横切ります。
奥が本郷町1丁目本牧通りとの交差点
川筋は交差点の先で別の道路に合流して右に曲がります。
その先道路中央部が川の跡、ここは消防倉庫の建物があります
倉庫の先
ちょっと殺風景ですが、橋や護岸の一部が保存されていました。
ここにあった『西ノ谷橋』のもののようです
だいぶ傷んではいます。右側にあるのは川護岸にはめ込まれていた間知石だと思います。
川と橋についての解説も写真つきで掲げられていました。
千代崎川とその橋の歴史
千代崎川の源は根岸と山手の丘陵であり、そこから生まれた猿田川、簑沢川、江吾田川が山元町付近で合流し千代崎川となり、柏葉、麦田、大和、上野、千代崎、北方、本牧、小港を流れ東京湾に注いでいた。
古くから川は水田に利用され、また雨水の排水路となっていたが、川幅が狭く、屈曲が多く、川底が浅かったので良く氾濫した。
幕末には大和町が外国軍訓練のための鉄砲場となり、これを横切っていた千代崎川の中央に長い旗ざおを立て、射撃開催の有無を知らせていた。また、河口の小港には外国人のための今日でいうところの食肉施設がつくられた。
関東大震災後、復興・複奮事業で災害を防ぐ目的で、川の流路を変えて曲がりを少なくし、浚渫、護岸工事を行い、同時に24の橋が架けられ、これらは震災復興橋と呼ばれている。
戦争が始まるとこの橋の欄干は金属は軍に納め、木等で補修した。昭和20年(1945)5月29日の空襲で多くの橋が炎に包まれたが、橋そのものは残り、戦後欄干は鉄で補修された。
そして人口の増加と伴に川は汚れ悪臭がするようになったが、まだこのころは夏にはトンボが舞い、毎日のようにトンボ取りに夢中になった少年が川に転落した。
昭和37年(1962)に中部下水処理場が出来、それに合わせて千代崎川は公共下水道となり、川筋は最下流を除きすべてが覆蓋され、旧千代崎川となった。
この時、上野地区では4つの橋の親柱・欄干が残ったが平成20年(2008)年度から行われている下水道再整備事業でもこれらも撤去される事になったので、上野橋と西ノ谷端の一部を保存し千代崎川の歴史と伴に後世に伝える。
なお、この碑のそばに置かれている自然石は千代崎川の護岸に使用されていたものです。
その先で川幅が少し狭まったことがわかります。
そして痕跡がなくなりますが、でっかい看板が主張しています
駐車禁止
この道路は、旧千代崎川に蓋をして整備したものであり、[ 消去 ] 事故及び災害防止のため車輛の駐車を全面的に禁止します。 昭和60年12月6日
昭和60年は1985年。
また少し先で再び橋跡、親柱が残されていました。
大和橋跡
道路向こう側の左、手前の右です。向こう側の右はにんきのおみせ、行列できてます。
道路を渡ってふり返り
ここに残る親柱もコンクリート製、化粧がはがれて無残な状態です。
横切る道路を右へ行くとJR山手駅方面、解説板にあった「外国軍訓練のための鉄砲場」がこの道路沿いなので、「長い旗ざお」が立ったのはこのあたりでは。
川跡のほうを進むと
暗渠の中洲?
不明なスペースです。
そして本牧通りに出ます。
鷺山入口交差点付近
正面川跡は本牧通りに接し、跳ね返るようにまた左奥へ引っ込みます
川跡の奥は銭湯の煙突です。
写ってませんが、左側は急峻な崖、そちらが『鷺山』と呼ばれた一帯のようです。
銭湯の脇を先へ行くと前方にも急峻な崖が現れ、流れは西寄りに方向を変えます。
このあたりの路面、独特の縞模様になってます。
JR根岸線高架をくぐります
先で柏葉通りと交差、その先へ出ます。そこの信号機には「柏葉橋」とあるので暗渠化前には橋があったのでしょう。
柏葉通りの先で川は崖ぎわを流れていたようです。
荷物の運搬も大変そうです
いったん柏葉通り沿いまででますが、通りに跳ね返る形でまた奥に引っ込みます。
通りを渡らず、右へ旋回してます。
またすごい擁壁
山手の台地は地質的に『下末吉台地』と呼ばれ、12万5千年ほど前の海中で堆積した層でできています。その後陸化と海進を繰り返して侵食を受け、現在のように複雑な地形に変化しています。
上の写真のような急な崖は千代崎川の浸食によって形成されたものです。
古くから存在していそうな階段
白っぽい路面は橋の跡でしょうか?
再び柏葉通りに出て、今度は通り沿いに流れていたようです。
不自然に広い歩道部分が川跡
そこからまた少し引っ込んでしまいますが、くねくねと流れが続いて
右は城壁のようです
ここ、道路に面してはまだ形状を維持できてますが、右の方はすでに石垣が崩壊していて、全体がかなり危険な状態になっています。
そこを回り込むとまた柏葉通りへ
階段の上が柏葉通り、今度は交差して通りの向こうへ流れが移ります。
そちらは入ってくれるなというオーラが発せられてましたが、入っていくと
川跡を覆う形で小屋がたちふさがってました
であれば小屋の反対側にまわり込みたいのですが、この先しばらくは流路上にも住宅が建て込んでいて私有地でもあり確認のしようがありません。
そんなところで偶然流路跡(と思われるところ)が更地になっていました
正面が下流方向になりますが、後でチェックしてみると、流れは右の擁壁下を通り正面建物の下あたりへ入っていたようです。(その向こうでスーパーマーケットの建物下を通過し、先ほどの小屋の前へ出てくる)
背後、上流側も同様に家が密集していてきちんと流路を見定められないのですが、袋小路の通路奥がこのとおり
ここは足元が流路だったことはほぼ確実です。
そこから少し上流方向にさかのぼって
向こうが上流方向、そしてこのあたりが千代崎川の3つの支流、猿田川、簑沢川、江吾田川が合流していた場所になりますが住宅が建て込んで痕跡がなく、正確な位置は把握できません。
支流に分かれてすぐのところ、横浜駅根岸道路が横切っています。
大平町入口交差点から(中区山元町2丁目)
向こうにむかって道路が窪んでいます。その底を右へ入る2本の道路があるのですが、2つの支流(猿田川、簑沢川)の流路跡です。
力はいって長くなりました。ここでいったん休憩、各支流の様子は次回です。
流路地図をおきます。
濃い青(紺色)ラインが千代崎川