相模国大山に通ずる大山道歩きを続けていますが、今回からは”府中通り大山道”を歩きます。
武蔵府中を通過する大山道ですが、起点は現在の埼玉県春日部市、日光街道粕壁宿となっています。
Wikipediaに記された経路を引用してみると
日光街道粕壁宿(埼玉県春日部市) - 岩槻(以降、さいたま市) - 大宮 - 中山道浦和宿 - 荒川・羽根倉の渡し又は秋ヶ瀬の渡し - 宗岡村(志木市) - 清戸(東京都清瀬市) - 東村山(東村山市) - 甲州街道府中宿(府中市) - 中河原(関戸)の渡し(多摩川) - 関戸(以降、多摩市) - 乞田 - 瓜生 - 小野路(以降、町田市) - 図師 - 木曽 - 境川 - 淵野辺(神奈川県相模原市) - 磯部(猿ヶ島)の渡し(相模川) - 猿ヶ島(以降、厚木市) - 下川入村 - 三田村 - 八王子通り大山道を経て大山へ
全部歩くと長いので、今回は上記、宗岡村(志木市)ー清戸(東京都清瀬市)の間、新座市野火止から歩き始めることにしました。
街道上特別な場所というわけではなく、単純に新座駅が近いのでスタート地点にしました。
府中通り大山道その1 足あと地図 《新座野火止~府中》
新座駅前
駅前に水車があります。これは近くを通っている野火止用水のシンボルとして置かれ、水車の下には水の流れも再現されています。
以前、野火止用水を歩きました。
駅前から街道の道筋へ距離はありません。
新座駅南口交差点(志木街道)
このあたり志木街道がいわゆる府中通り大山道にあたります。
これと言って特長のないごく普通の道路ですが、古くからある街道の道筋を拡張しつつ現在まで使われています。この道を背後、東京都境方向へ歩きはじめます。
すぐに川越街道(国道254号)を野火止交差点で渡り、そのまま南西方向にずっと進みます。
道路中央に木が数本
近くには野火止用水、玉川上水を開いた松平伊豆守信綱の墓がある、平林寺があります。
東京都境
清瀬市に入るとけやき並木がずっと続きます。
志木街道沿いはかつて清戸(きよと)と呼ばれた地域で下清戸村、中清戸村、上清戸村などが存在していました。それらの地名は今も残っています。
昔から畑作を行ってきた農村で、今も街道の外側は広く畑が広がっているのを見ることができます。
その作物を江戸に売りに行くのに使われたという、清戸道を以前歩いたことがあります。
清戸道を歩く 江戸川橋から清瀬清戸へ(1/2) - 散歩の途中
清戸道を歩く 江戸川橋から清瀬清戸へ(2/2) - 散歩の途中
下清戸付近の志木街道けやき並木
上清戸まで進むと志木街道から分かれます。その分岐点にたくさんの石塔が置かれています。
街道分岐点の石塔群
一番右は他の大山道でもよく見かけた不動明王像かと思いましたが、よく見ると顔が3つに手が6本、三面六臂の馬頭観音像でした。
少なくとも右2つの石塔は道標にもなっていて、「右所沢 山口道/左八王子 大山道」「右青梅道/左 八王じ道」と刻まれています。
無事、大山道の文字が出現したので、左へ進みます。
志木街道から分かれてすぐは現在の清瀬市街地、細くなった道を行きます。
住宅地のなか細い道を通ります(清瀬市元町1丁目)
西武池袋線の踏切を渡り、先へ行くと病院や医療関係の学校、研究所がまとまった地域に出ます。
道路左は複十字病院、右は国立看護大学校
清瀬は結核療養地として1931(昭和6)年に東京府立清瀬病院が開かれ、以後最大15の病院、療養所が建てられました。
清瀬病院の跡地は市指定文化財となり、多くの病院は現在に引き継がれ、また研究教育機関になっています。
街道はその中をまっすぐ進みますが、市境をこえて東村山市に入るところ、国立感染症研究所ハンセン病研究センターの前で、この先へ伸びていた旧道は消滅します。
ハンセン病研究センターの先は多磨全生園(たまぜんしょうえん)の敷地になっていて、この中を旧道が通っていたのですが、現在園内を通りぬけることができるので中へ入れていただきました。
清瀬市側から入った園内の通路
多磨全生園は1909(明治42)年、公立療養所第一区全生病院として設立されたハンセン病の療養施設です。(のちに国立に移管、国立療養所多磨全生園となった)
現在日本ではハンセン病の新規患者数はゼロに近く、発病してもほぼ確実に完治することができるようになりましたが、かつてのハンセン病患者は国の政策のため、厳重に隔離されて治療、療養していました。
患者に対する偏見や差別、苦しい生活がある事についてここで詳細は書きませんが、知っておいた方がいいことと思います。
現在なお、治療方法が確立されて治癒しても、後遺症、あるいは偏見などのために社会に戻ることができず、ひきつづき療養所にしかいられない、というかつての患者の方々が生活している場所のひとつがここです。
適切な言い方かわかりませんが、園内はひとつの独立した村のよう、生活している方にとっては「世界」なのかなという印象を持ちました。
居住区域の建物群はもちろん、商店、食堂、郵便局や公園もあり、お寺、神社、教会もありました。
代表して教会の建物
現在は地域の子供も入園できる保育園も設けられているそうです。
また、周辺環境の整備などでボランティアを募集していました。
多磨全生園正門前から
街道跡はちょうどこの門の場所を通っていたようです。
一般道に復帰して背後へ延びる道にのります。途中歩道がない区間があり、交通量もそこそこ多いです。
東村山市の青葉町から恩多町を通過して西武新宿線久米川駅前へ出ます。
途中、恩多辻交差点付近
五差路の交差点、前の建物(自治会館)手前にいくつか石塔があり、地蔵、庚申塔、「高札場跡」と書かれた石碑などでした(詳しく見ていません)。街道辻ですが詳細は不明です。
とりあえずここで進むべき方向は左前、300mほど行った先にもひとつ庚申塔を見かけました。道標にはなっていないようでした。
新青梅街道を横切って
久米川駅北口付近
踏切を越えて先へ進むとほどなく府中街道にぶつかります。
府中街道八坂小前交差点
ここで左折、府中街道に入ります。
ここから先は府中まで、府中街道を歩くことになります。
八坂交差点、九道(くどう)の辻
かつて9つの道が交わる交差点、で九道の辻。
ここは以前にも通っていて、そのノートに交わる道のことを書いていましたが、読み返すと自分でもいまいちよくわかりません。(-_-;)
その中で「九道は、江戸街道、引股道(ひきまたどう)、宮寺道、秩父道、御窪道、清戸道、奥州街道、大山街道、鎌倉街道」としていますが、
南北に通る現在の府中街道は鎌倉街道・大山街道とも呼ばれます。どっちも南向きに行く名称で、かぶってますがねぇ…
東西に通る道は東へ江戸街道、これは良さそう、西へは秩父道?、正直どれもよくわかりません。(それらしい説明はあちこちありますが、何かちょっと腑に落ちない。)
以前の自分の説明はここに書いています。(が、あてにしないでね)
この辻は下を野火止用水が流れ、それを背にして石塔が2つありました。
馬頭観音、石橋供養塔
古い街道の面影は感じられない府中街道をとりあえず南下、青梅街道と交差してさらに南下。
木の数が増えたら津田塾大学前
右側が大学正門です。
せっかくなので門の内を
キャンパスの南側には玉川上水が通っています。
玉川上水・久右衛門橋
さらに南下すると上水本町から恋ヶ窪に出てきます。
上にも記しましたがこのあたり、以前鎌倉街道としても歩きました。その時は途中細い道も通り、そこに「鎌倉街道」と書かれた標識もありました。
その道と重複しているはずの区間ですが、今回は別の道すじ、府中街道を歩いています。
時代で道が変わったのか、変わるとすれば何を機会に変わったのか、歩いていてふと気になったあたりです。
上水本町交差点、来た方を振り返って
この南側で小平市から国分寺市に入ります。このあたりはずっと住宅地が続きます。
恋ヶ窪交差点の南、西武国分寺線踏切の前後に旧道の名残りがあります。
旧道名残り、線路北側から
旧道は現在線路で分断されています。ここは鎌倉街道でも旧道が残る区間として歩きました。
西武線線路を踏切に迂回し、再び旧道の先へ出ます。
道に並行して恋ヶ窪村分水跡
江戸時代に玉川上水から分けられた水路の堀がここに残されていました。
近くにあった解説では、左側を通る道が鎌倉街道と記されています。
その近くから南方向、
鎌倉時代から?続く古い道
先に見えるのは西国分寺駅付近のマンション。古い道を先へ行くとJR中央線西国分寺駅のホームで切れてしまいました。
この周辺には姿見の池、古代官道跡、武蔵国国分寺跡などなど、歴史的にも見て行くべきものがたくさんありますが、過去に1回は訪れているという理由で今回はパスです。
無機質な駅南側府中街道風景
ここから先、府中にかけて鎌倉街道旧道の道すじは府中街道の西側を並行に通っているのですが、今回はこのまま府中街道のほうを歩きます。参考にした資料によれば、明治期迅速測図などで府中街道の道すじがメインストリートとして描かれていることが理由のようです。
なだらかに整備された国分寺崖線の坂道を下ると府中市に入り、東八道路の立体交差を越えます。
府中刑務所の塀(北向きに撮影)
さらに南下していくと府中市街地に入り、甲州街道(国道20号)交差点へ
甲州街道寿町3丁目交差点
京王線高架をくぐって先へ行くと、ちょこっと古い道跡が残っています。
旧道分岐
そちらへ入っていくと
左向こう府中街道側を正面にしている酒店裏側でした。正面に少し写っているのは府中高札場のもので、横切る道が旧甲州街道です。
東京都指定旧跡 府中高札場
江戸時代に、禁制・法令等を伝えるために掲げた板札を高札といいます。高札は交通の多い場所などに掲げられましたが、このような場所は高札場と呼ばれます。府中高札場は、甲州街道、川越街道及び相州街道が交差する府中宿の中心を占める場所でした。高札場の裏手は、大國魂神社の御旅所があります。札掛けは屋根を有しており、ここに六枚くらいの高札が掛けられていたといわれています。
この高札場の建物に関しては、江戸時代後期から末期にかけての年代が推測されています。
文中の川越街道が現在の府中街道です。
甲州街道・川越街道辻から
現在は府中市役所前交差点です。
南方向へ次の大國魂神社西交差点まで行き、右へ入る道へ進みます。
府中街道とはそこで分かれます。
すぐにJR南武線、武蔵野線線路で分断されていますが、そちらが大山道にあたります。
目の前が府中本町駅、この日はここまでとしました。