大山道歩きの続き、今回は”ふじ大山道”、富士街道です。
練馬区の街道筋に所々、ふじ大山道の解説板が建てられています。それを一部引用すると
ふじ大山道は、大山街道、富士街道、道者街道ともよばれています。それは阿夫利山ともいわれた大山(神奈川県)へ、また大山から富士山への道者たちが通ったからです。
とはいうもののふじ大山道は富士山どころか大山まで同じ名前の道が続いているわけではなく、途中で”府中通り大山道”に接続すると、その先は使われなくなってしまいます。
府中通りとの接続地は府中というのが一般的なようですが、もっと先、図師(現、町田市図師町)へまわる道(深大寺道などを経由)も利用されていたようです。
また、街道の起点についても、川越街道の下練馬宿としているものが多いのですが、中山道板橋宿の先、志村に古い道標があり、「これより大山道」と刻まれています。
今回は独自の判断ではありますが、起点を志村とし、調布から町田の図師へまわる道を通って府中通り大山道との合流点まで歩くことにしました。
府中通り大山道はすでに歩いています。
”Wikipedia大山道#ふじ大山道”を参考に
ふじ大山道おもな経路
中山道志村(板橋区志村2丁目)- 川越街道下練馬村(練馬区) - 石神井 - 柳沢(西東京市)- 境(武蔵野市)- 深大寺(調布市) - 調布 - 押立の渡し(多摩川・府中市) - 長沼(稲城市) - 図師(町田市)- 府中通り大山道を経て大山へ
こちらは今回その1で歩いた足あと地図です。
ふじ大山道《志村~調布》
スタート。実際は最寄りの都営三田線志村坂上駅から(歩いて5分)。
旧中山道が志村の清水坂に差し掛かる手前に左へ分かれて行く道があり、そこに2つの道標があります。
志村[坂上]の庚申塔、道標(板橋区志村2丁目)
脇の解説文
富士・大山道の道標と庚申塔
富士・大山道とは、霊山である富士山や神奈川の大山へ通じる道です。この場所は中山道から富士・大山道が分岐する場所でした。
向かって左側の道標(道しるべ)は、寛政四年(一七九二)に建てられたもので、正面には「是より大山道 并(ならびに) ねりま川こへ(川越)みち」と刻まれています。右側の庚申塔は、万延元年(一八六〇)に建てられたもので、左側面に「是ヨリ富士山大山道」とあり、練馬江一里・柳沢(西東京市)江四里・府中江七里と距離が示されています。
この二基の石造物は、江戸時代の交通や信仰を物語る上で貴重な存在であり、昭和五十九年度に板橋区の文化財に登録されました。
平成十七年三月 板橋区教育委員会
富士大山道は道標左側の細い道でそちらに入ります。
”古い道”感は、なんとなくありますが、すぐにスーパーマーケットやファミレスの建物で分断、少しの間消滅しています。
熊野神社前では旧道復帰済み
ママチャリを奉納する神社かと勘違いしますが(しない)、右側は幼稚園。
そしてここは戦国時代まで存在した志村城の城山です。現在本丸跡が区立志村小学校、二の丸跡が神社になっています。背後は荒川の段丘崖で北側の眺望が良かったようです。
神社鳥居の先で急な下り坂、首都高(5号池袋線)をくぐって志村第2公園内に道標も兼ねた3基の庚申塔が並んで置かれていました。そのうちひとつには「大山道」の文字。
公園の先ですぐまた急坂の旧道を上がります。
右の道ですね
坂の上は”中台”。
中台稲荷神社前まではたぶん古い道、その先少し消滅区間?
稲荷神社前(中台交番前交差点)
左折して富士見街道を目指します。
こちらの庚申塔もふじ大山道の道標を兼ね、「右 にしたい とくまる」「左 ねりま 大山みち」とある、とこの1月に新設された横の解説に書かれていました。
東武東上線の踏切を渡り、川越街道旧道に合流していきます。
その手前、ちょうど板橋区、練馬区の境界線上、
道のまんなかに馬頭観音がありました。
肝心の馬頭観音像は祠の奥でよく見えません。だいぶ風化してました。手前の2頭は牛?
旧川越街道に出て下練馬宿
このすぐ先で環八通りとの立体交差になり、そこにも古い大山道の道標などがあります。
川越街道、ふじ大山道分岐点の「下練馬の大山道道標」(練馬区北町1丁目)
ここがふじ大山道の起点とされることが多いのは、不動明王像をのせた台座正面に「従是(これより)大山道」とあるためでしょうか。
左面下部には「ふじ山道 田なし 三里 府中 江 五里」(田なし=田無)です。
左側の石塔は「東高野山道」とあり、練馬区高野台の長命寺、山号が東高野山、への道標です。
ここからふじ大山道はしばらく環八を進みます、っていうより、大山道の道すじをのちに環八にしたわけです。
練馬区あたりのふじ大山道はほとんど一直線で、拡張して車メインの道路にするのに都合がよかったのでしょう。
環八に出てすぐ横切るのは
田柄川緑道・棚橋
緑道が川跡、奥に棚橋の親柱が置かれてます。昔はふじ大山道にかかる橋でした。
この緑道はかつて歩きました。
環八になって拡幅され、古い石塔、道標も見られなくなるかと思ったのですが、現川越街道との交差点近くに大きな庚申塔が残されていました。
練馬北町陸橋脇にあった庚申塔
こちらも右側面に大山道の文字がありました。右側は環八の陸橋防音壁です。
環八上を3キロ弱歩きます。
春日町まで来ると地蔵堂にもなっていますが、一里塚跡といわれる場所があります。
一里塚跡の地蔵堂
塚はもう残っていませんが、堂内に「一里塚子育地蔵尊」の木札が掛けられています。
もうちょっと先へ行くと道は環八から徐々に逸れていきます。
そこからの道路名は現在”富士街道”。
富士街道となってすぐのところに
愛染院
左の標柱は「ふじ大山道」ですね。
門柱のうしろにちょこっと頭だけ出している碑がありますが、「練馬大根碑」です。
練馬大根の沢庵漬けが特産品になった記念として昭和15年に建てたものとの解説がありました。
都営大江戸線練馬春日町駅を通過して、その先はこれといって特長のない道が住宅地の中を貫いています。
小さな辻で(練馬区谷原1丁目)
左へ行くのが富士街道、ふじ大山道で、右は”橋戸道”、分岐の”谷原延命地蔵”台座に書かれているそうです。橋戸は現在の練馬区大泉付近です。
左へはいってしばらく行くと目白通りと笹目通り、そこに富士街道が絡む、谷原交差点に出ます。
ここは横断歩道がないので歩道橋を渡ります。
谷原交差点歩道橋から左、富士街道の続き
右、片側3車線の道路が目白通りです。そちらもかつて”清戸道”として歩きました。
清戸道を歩く 江戸川橋から清瀬清戸へ(1/2) - 散歩の途中
清戸道を歩く 江戸川橋から清瀬清戸へ(2/2) - 散歩の途中
この先もほぼ直線の富士街道、高野台から石神井を通過していきます。
西武池袋線の高架をくぐると一里塚跡があり、塚はないですが小さな祠がありました。環八から分かれる手前、春日町の次の一里塚です。
左側の公園入口から奥に行くとすぐに石神井公園の三宝寺池に出ます。この日は立ち寄ってません。
石神井公園の先にも規模は小さいながら雑木林を残した”憩いの森公園”があります。
憩いの森手前にて
中にはかつてこのあたりの富士街道沿いに通っていた、田柄用水の水路跡がわずかな距離ですが、残されていました。土がわずかに窪んだ、素掘りの堀跡でした。
明治時代に玉川上水から田無用水経由で開削された農業用水路だそうです。
だいたいまっすぐに進むと間もなく練馬区から西東京市へと入ります。周囲は同じような住宅地が続き、少し退屈です。
富士町交差点(西東京市富士町)
このあたり富士町(ふじまち)といいますが、富士街道が名前の由来になっているそうです。
書き忘れてましたが、富士街道とはふじ大山道の明治以降の呼び名で、現在は都道8号、441号に引き継がれていて、街道の範囲は以前より短くなっています。
富士町交差点から先へ400mほど行くと、最近拡張された伏見通りによって富士街道は分断され、直接向こう側へ渡ることができなくなりました。
保谷中南交差点まで迂回し、元の道すじへ戻ります。
道はその先、柳沢の商店街を通って行きます。
西武柳沢駅北側の商店街(西東京市保谷町3丁目)
駅入口から100mほど進むと深大寺道との分岐に差し掛かります。
まっすぐ行くのがふじ大山道で、この先田無、小金井などを経て府中へ向かいます。
起点の志村の道標にも地名が記されていたように、府中への道がメインコースとされていますが、深大寺道経由もサブコースとして利用されていたということで、今回はここを左折することにしました。
道の分岐点に”六角地蔵石幢(ろっかくじぞうせきどう)”があります。
正面にまわって
西東京市HPの解説では
ほぼ正六角形の石柱で、各面の上部に6体の地蔵菩薩を浮彫りにし、その下に銘文を施しています。「つや」という女性と「光山童子」の菩提を弔うために寛政7年(1795年)に建立されました。富士街道と深大寺道とが交差する所に建ち、道標を兼ねています。
正面の踏切をわたって、ここからはほぼ南へ進みます。
すぐに青梅街道と石神井川を渡り、住宅地の中を通ります。
深大寺道、北方向を振り返って(西東京市柳沢5丁目、南町2丁目境界)
武蔵野大学キャンパスの東側を通って、学校正門前へ出てきます。
武蔵野大学前交差点から
軽トラックがいるところから出てきました。
横切る道は五日市街道で、そこに千川上水が沿っています。
大学前に人がたくさんいますが、卒業式でした。
この背後へ、2~300mほど道が消えますが、その先大師通りと名前を変えて復活します。
この通りはそれほど長く続かず、境浄水場の敷地にぶつかって消えてしまいます。
境浄水場北側にて
正面のフェンス向こうが”東京都水道局境浄水場”です。
迂回して道路延長線の先へ出ます。
玉川上水・大橋に出ました
向こうは境浄水場、昔は道が続いて、ここで玉川上水の橋を渡っていました。
またこの橋上が現在武蔵野市と三鷹市の境界になっています。
市の境界沿いに南下すると、とても幅の広い新武蔵境通りに合流します。
新武蔵境通り、JR中央線交差
この通りをずっと調布まで歩きます。
現代の道路としては歩道、自転車道、車道が完全に分かれ、開放的で歩きやすいのですが、古い道の雰囲気はありません。柳沢の分岐選択を失敗したかなとちょっと思いました。
野崎八幡手前(三鷹市野崎1丁目)
道路拡張でこちら境内がだいぶ削られてしまったのではないでしょうか。神社背後にも東八道路が横切って大きな交差点になってます。
ちなみに鳥居右側の道は歩道、自転車道、細い緩衝帯があって片側2車線、計4車線の車道、その向こうにもまた自転車道、歩道があります。
調布市に入って
ここ、木が多いなと思いましたが、右側の家の敷地を道路拡張で削ったのでは。植わっている木の種類も向こうのほうと異なってます。
神代植物公園入口を通過
深大寺参道の分岐
御塔坂橋で野川を渡ります
橋を渡ると広い通りから逸れていきます。
カトリック調布教会横から
この先、電気通信大学キャンパスの間をぬけて国道20号を渡り、旧甲州街道、小島町1丁目交差点に達します。
小島町1丁目交差点手前にて
ここから交差点を右折して旧甲州街道に入るのですが、この日はここまでで終わりとしました。
つづく