次にどこを歩こうかと地図を見ていてふと見つけた、鶴見川をはさんで東西に並ぶ緑道2つ。
今回は行き当たりばったりで現場へ出かけ、「この道は何なのだ」かを観察。帰ってから少し裏付けをとってノートにまとめてみた。そんな大げさなものじゃないっす。
最初に地図から
太尾堤緑道・新田緑道の位置
地図右側にある[青]縦ラインが太尾堤(ふとおづつみ)緑道、左側[オレンジ]縦ラインが新田緑道、その間に鶴見川。
その他の色のラインはこのノート中の登場人物。
最初に太尾堤緑道の北側起点を目指したが、その前に少し寄り道をした。
東急東横線大倉山駅で下車
写真左側へ行く坂道を上がっていくと大倉山公園、その中に大倉山記念館という建物がある。
公園にあった解説板によれば
「横浜市大倉山記念館は洋紙業界で活躍した実業家大倉邦彦が大倉精神文化研究所の本館として昭和七年に建築したもの…」とある。
今回こちらは詳しく触れない。その代わりとして大倉山記念館のURL
大倉山公園から北東方向のながめ
公園奥には梅林がある
残念ながら花の季節ではない。
大倉山公園梅林の裏手にぬけて歩く。
■太尾堤緑道
大倉山公園から太尾堤緑道北側の端までは10分ちょっと。
古い台地の上にある公園に寄らず、駅から直接行けば平坦な道で、やはり10分ちょっとで着くのではないかな。
端っこはあまり利用する人がいないのか、手入れもきちんとされていない印象の緑道。
一般道が左側にあって、緑道側は割と幅も広い。
この背後は県道が横切っていて、その先は私有地なのか立入りできないが、緑道の続きがあっても不思議でない、細長く放置された(?)土地が延びていた。
県道の先には立入りできない
元々は先へも何かが続いていたようだ。
来る前から予想はしていたが、この雰囲気からは河川か水路跡の気配が強い。
緑道を南へ向かって歩き出す。
200mほど行ったところで広い道路に交差する
道路と緑道の交差部に橋の親柱が残されていた。
西詰から
「ふとおかみはし」の文字があった。太尾上橋か。
東詰から
こちらは「昭和33年5月竣成」。
橋跡が現れて緑道は以前、河川または水路だったことが確定。
ほどなく緑道は広い道路の横に沿うようになる。そこを南方向に進む。
飾りのついたアーチの入口
緑道の幅は結構広い。そしてこのあたりは手入れもきちんとされている。
歩道中央に桜並木
水が流れていた跡にこれだけ大きな木があるということは、暗渠ではなく、完全に埋め立てられていると思われる。
横浜市港北水再生センター
太尾堤緑道の横にセンターの入口があった。
ここはこの地域一帯の下水処理施設で結構規模はでかい。処理された水はこの向こう側を流れる鶴見川へ放出されている。
水再生センターは緑道と直接関係なさそう。
先ほど見たアーチがこちらにもあった。2つのアーチ間が常時整備を行っている区間なのかなという気がした。
そして緑道内には彫刻作品が何点か置かれていた。1989年に開催された横浜彫刻展(横浜ビエンナーレ)の入選作をこちらに持ってきて展示しているとのこと。
太尾堤緑道としてはここが終点らしい。
ここから1本道を入るとすぐ鶴見川の堤防、土手に突き当たる。
鶴見川堤防
土手の上に上がると広々とした風景。
鶴見川、鳥山川合流点近く
水の流れは見えないが、手前を左から右へ鳥山川が流れ、正面向こうから右端を越えた先へ鶴見川の流れがある。2つの川はこの近くで合流している。
このあたり新横浜の街中に近く、横浜アリーナのすぐそばなのだけど、写っている方向は草だらけだ。これは鶴見川の周囲が広大な遊水地になっているからで、未開発なわけではない。
というところで太尾堤緑道は終わりになってしまった。
ここからは後日調査から。
この緑道は何からできていたのか?
ポイントは緑道南側の終わりが鶴見川堤防のすぐ近く(港北区大豆戸町)で、そこは鳥山川と鶴見川の合流点だったこと。
1960年代に流路が付け替えられて現在はこちらが合流点だが、それ以前の鳥山川はもっと鶴見川の下流で合流していた。その頃の鳥山川流路が現在の太尾堤緑道ということ。
太尾堤緑道は鳥山川からできていたのだ。
これは流れが変えられる以前の地図を見れば一目瞭然だった。
最初の方に柵があって先へ行けない場所を写したが、その先へ鳥山川の下流が延び、現在の港北区大倉山6丁目29付近で鶴見川と合流していた。
上に示した地図のうす紫のラインが鳥山川下流側の旧流路である。
ただこれだけではなく、太尾堤緑道部分も江戸時代に掘削された人工の流路だったと紹介している文をみつけた。
大倉精神文化研究所の「シリーズわがまち港北」から抜粋
鳥山川は、神奈川区に源流を発し、鳥山町と新横浜1丁目の間を流れてきて、現在は大豆戸町(まめどちょう)地先の資源循環局港北事務所辺りで鶴見川と合流しています。しかし、かつては太尾堤緑道の部分を流れて、太尾橋(太尾河岸跡記念碑の近くに昔有った)辺りで鶴見川と合流していました。太尾堤緑道の部分は、寛文年中(1661~72年)に掘削された人工の用水路です。その目的は、鳥山川上流部分に位置する小机・鳥山・岸根・篠原の村々の悪水堀として排水機能を強化するためと、下流の大豆戸・太尾・大曽根・樽の村々の用水を確保するためでした。
鶴見川の水は、河口からこの辺りまでは海水が混じるために田畑の灌漑用としては使えず、溜池や鳥山川からの取水を利用していました。しかし、鳥山川は河道が狭く氾濫しやすいため、昭和14年頃から元の形に戻すことが考えられ、昭和30年代には再び大豆戸町地先で鶴見川と合流させました。跡地は太尾堤排水路と呼ばれ、大雨の時の排水に使われましたが、それも下水道整備により不要となり、昭和47年(1972年)に埋め立てられ、遊歩道となりました。その後公園として整備され、平成元年(1989年)に太尾堤緑道になりました。
■新田緑道
新横浜3丁目あたりから、ワールドカップ大橋、新横浜大橋と2つの大きな橋をわたり、鶴見川対岸へ出る。
新横浜大橋から鶴見川上流方向
左向こうは日産スタジアム(横浜国際総合競技場)、その周辺は新横浜公園で、スタジアムも含めた公園一帯は広大な鶴見川の遊水地。ここの遊水地は半端なくでかい。
鶴見川左岸側へ出ると北新横浜。
市営地下鉄北新横浜駅東側の商業施設の先から新田緑道がはじまる。
新田緑道南端
こちらの緑道は南端から北へ向かって歩いて行く。
南側から歩き出してすぐのところ
特に何の変哲もない歩道だ。この付近は整備されてそれほど時間が経っていない、あとから延長された区間らしい。
この緑道の特徴は、周囲がどこも工場になる区間があること。それほど大きな敷地ではない町工場、中小工場の工業団地といったところを貫いている。
緑道といえば普通は住宅地の憩いの場として整備されることが多いと思うが、そこがちょっと変わっている。
なので緑道内に置かれているオブジェも少々特殊。
チェーン
パイプのベンチ
”パイプ椅子”っちゅうのはあるけどね。
歯車のうえにコンプレッサー(本物っ)
緑道の左右は現役の工場。
これらは何の機械だか?
あー、ここは右側マンション。20年くらい前に横浜市営地下鉄が延びてきたので、最近工場から住宅に変わってるところもある。
一部しか紹介できてないけど、この緑道では工場地帯にあったオブジェに目を奪われてしまった。
本物の機械や部品がいくつも置かれていてユニーク、とても興味深い。フライス盤、ボール盤、その他何に使うのかわからないものも結構あったけど。
この緑道に置かれている機械類は緑道を整備するときに、周辺の工場から役目を終えて不要になったものを提供してもらったのだそうだ。
そんな一帯を通りぬけると住宅地に入り、緑道も普通の風景になる。
緑道の広場
南北ほぼまっすぐだった緑道はこの広場で右(北東)の方へとカーブする。
そこをたどると鶴見川の堤防へ出る
鶴見川堤防を越えて同じ場所の内側から
樋門があって、たどってきた緑道のほうから水が鶴見川へ流れ出ていた。
堤防上にあった河川事務所の看板を見ると、”公共下水道”の文字があった。
でも
新田緑道は何からできていたのか?→暗渠にされた下水道、とするのはまだ早い。
先ほどの緑道の広場まで戻ると、その北側へも歩道が続いている。
というより、北側からも歩道がここへ来ていて新田緑道と合流している。
上の地図ではピンク色のライン部分。
北側から来た歩道をたどって行くと暗渠道が現れた。
真ん中の歩行者専用道が暗渠道(港北区新吉田東8丁目)
さらに暗渠道を北方向へ行くと、何ともいえない道路になる。
左は歩道、右は一方通行の車道
もうこれは元、蛇行した川の流路としか考えられない。
このくねくねした変な道路は数百メートル先の県道交差点まで続いていた。その先(地形的に上流になる方向)には、川の流れなどは確認できなかったが、観察が不十分だったかもしれない。
それでここからは後日調査の結果を加えて。
新田緑道は何からできていたのか?
北側の川跡みたいなのは何?
まず緑道より北側の川跡、これは昭和41年改測の地理院地図を参照すると「川」が確認できた。現在の第三京浜都筑インター付近の谷戸を源とする小川だ。
”変な道路”は想像どおり、蛇行した川の流路で、その下流は樋門のあった場所で鶴見川へ合流している。
新田緑道より北側には川があり、樋門から流れ出ていたのは、暗渠となった川の水だ。
一方の新田緑道は、元はこちらも川、または水路だった。
これも昭和41年改測の地理院地図で確認が可能。
緑道の広場あたりで北側から来る流れと合流し、樋門の位置で鶴見川へ流れ出ていた。
同じ地図では実際にはもう1本、新田緑道の流れに合わさる小さな川があったようだが、この流路は今回見逃した。
現在工業団地になっている地域は、少なくとも江戸時代にはすでに広く水田が広がっていた。
水田に供給する水は鶴見川からも取れたが、川の西側に広く台地が広がって、その崖下には豊富な湧水や小さな川があったので、そこから採ることもできたはず。
この付近まで海から潮が上がってくることがあったという鶴見川よりも、塩分を含まない湧水を水田に導くのが自然だ。(鶴見川対岸は塩水対策で鳥山川の流路を変更する工事をしたのだし)
鶴見川西側に広がる水田で使用した水は排水路に集められ、鶴見川へ排水された。その排水路が、新田緑道となった水路と考えると腑に落ちる。
新田緑道となった水路は、昔の地図で水田の途中から流れがはじまっていること、そこは湧水があるとも考えにくい場所であることからも排水路と推測できそうだ。
新田緑道は田んぼの排水路からできていたのだ。
周囲は昭和30年代から40年代に農業地帯から工業、住宅地へ変化した。
現在、家庭や工場で使用される水は下水道へ導かれ、水田もなくなったので、水路の存在意義はなくなっている。緑道の下に暗渠などはなく、埋められて水の流れはないと思われる。
河川事務所等へ出向いて図面を確認すれば確実だけど、そこまではやってない。
以上、ふと地図で見つけた緑道の話がずいぶん長くなってしまった。