今回も冬のひなたを求めて畑や田んぼや川沿いの細道を歩いてきました。記録を残しておきます。
スタートは小田急線秦野駅からです。
線路沿いに歩きはじめて駅方向をふり返り
室川沿いに(秦野市室町)
正面、頂上に展望台がちょこっと見える山は権現山というようですが、その近くにある弘法山、浅間山の3つを含んで周囲は弘法山公園〈弘法山の名称が一般的なようです〉。
下の室川は渋沢丘陵北側の豊富な湧水を集めて流れる川で水は清らかです。
道なりに歩くと鳥居と参道
左の細道を上がる予定だったので鳥居の奥をのぞいてきます。
菅原神社
道路沿いの鳥居に「天満宮」その脇に「ここは天神さま」の石碑が立っていたのでした。
丘陵へあがりつつ
右の丘上一帯は上智大学、短大のキャンパスとグラウンドなどが広がっています。
隣接する畑の中から
手前の小さめのが弘法山(権現山..)、その左奥は大山。
方向変えて平たい方面
東名高速が中央を貫いてます。
高速道の切通し上を越え、秦野市から中井町へ。
畑の向こうに富士山
畑の向こうに大山
通り道近く、Googleマップで古墳のピンが立っていたので寄ってみました。
遠原古墳とあった場所(平塚市土屋)
小さな塚、その中ほどに小さな石板「五重塚之霊位 昭和十六年六月五日」と刻まれていました。
近くにもうひとつピンが立った駒ヶ滝古墳は丘陵端の崖位置、見つけることはできませんでした。
畑のバス停、待つ人あり
左、畑の向こうにも小さな塚が写ってます。先ほどの古墳と同じくらいの大きさ、マップでは山王塚(三ノ塚)とあり、近づいてみましたが土盛り以外の手がかりはありませんでした。
この塚も丘陵端にあって先は下り坂
その途中ひらけたところから
下へおりて、また畑の中から
左の低い丘陵上から下ってきました。ここからもう一段、丘を下ります。
下る手前段丘面の端に今度は「土屋城址」の案内など
土屋城址
鎌倉幕府の御家人で重臣であった、土屋三郎宗遠(むねとお)の城跡。土屋の丘陵にあって段丘を利用し、南に座禅川をひかえた、鎌倉時代初期の形式に属するものである。この地は高陣山と呼ばれ、このほかに高見台などがあり、一族縁者が居を構える二宮ノ館、真田ノ館、岡崎ノ館、中村ノ館などに連絡ができる場所でもある。また当時は交通の要衝地でもあった。
環境庁・神奈川県
歴史には疎いもので当時の城、城郭がどのようなものかよく理解できてないのですが、周辺一帯を陣地として館(本丸)から廓、馬場、見張り台、神社寺院墓地などあらゆる施設が収まっていたようです。
中央にある石標には「土屋一族供養塔・館跡」とあり、坂を下る途中に「土屋一族の墓」「土屋氏発祥之地」などの案内がありました。
墓所は左に折れた坂の下にあるようですが寄ってません。
〈ところで、土屋宗遠については例の御家人13人には入ってないのですね〉
坂を下りて川沿いにしばらく歩きます。
この先あるく方向
座禅川から来た方をふり返って
左奥の丘陵から下ってきました。
金目川との合流点近くから富士山
合流したあと、と富士山
もう少し川沿いを
前河原橋
橋上から
田んぼや畑が一面広がる平地に出ました。あとはこんなところをずっと
富士山右側に見える建物は東海大学。
小田原厚木道路との立体交差部にて(平塚市岡崎)
鈴川を渡る(平塚市岡崎)
それほど進んじゃいない(平塚市北豊田)
用水路の上から
富士山ばかり見てます。〈この前もやったネタでした〉
欄干のデザインがいい感じ
錆が目立っちゃってますが、おそらく昭和30~40年代頃架けられた橋だと思います。
橋名わかりませんが周辺に似た橋はありません。
〈写した位置が良くなく特徴が引き立ってないです、残念〉
たまに方向を変えて南の方角を撮ってみた(伊勢原市沼目)
遠くに写るのは大磯の高麗山、湘南平、その先は相模湾。
数千年前はこのあたりも入江になっていたらしい。
石田牧場牛舎(伊勢原市上谷)
近くに石田牧場のジェラート屋というのがあったのですが、営業してません..残念
このあたりいくつか小さな『牧場』があります。
再び小田原厚木道路を渡る
伊勢原台地の縁をまわり込みます
左が台地上、そんなに高い台地じゃないです。
電車線路も台地へ上がるため手前から勾配つけられてます
そのまま行くと伊勢原駅へ出ますので遅い昼食をとって帰ることにしました。
西日のあたる駅前
久しぶりに歩いた跡を地図にのせて公開してみます。
地理院タイルに経路を追記して掲載(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)