気候も良くなってきたので秦野の丘陵へのぼって遠くの景色をみたり、平塚あたりで秋の田園を歩いたりして風景を堪能してきました。
小田急線秦野駅南口からスタート
駅前通りに満開のキンモクセイ
すぐに今泉名水桜公園、さすがにこの時期桜の花はないですが
豊富な湧水が池になってます
南の方角へ進んで渋沢丘陵へあがります。
あがりはじめ
秦野市街地を挟んで向こうには丹沢の山々(西方向)
尾根近くまできて東方向
近くには震生湖(しんせいこ)という関東大震災時の土砂崩れで沢がせき止められてできた湖がありますが、すでに何回か訪れているのでこの日はパス。〈谷へ下りてまた上がってくるのが面倒というか億劫でもあり💦〉
渋沢丘陵はしばらく前までみかん畑がたくさんあったのですが最近は減少ぎみ、代わってオリーブなどほかの作物に転換したところを見かけます。
こちらには本数少ないですがパパイヤの木が植えられてます
こちらはいわゆる「青パパイヤ」として栽培しているようです。よく見たら実がなってました
車通りの多い道に出たところには震生湖バス停、すぐ横には倒れかかって「危険近寄るな」と紙が貼られた大きな石碑『関東大震災埋没者供養塔』がありました。これが倒れたらシャレになりませんがバス停方向へ傾いているのがいかにも不気味でした。
丘陵の尾根をこえて下り坂へ
西のほうがひらけて前方には箱根の山々
このあたりは中井町境別所
小さな川の流れる谷あいに家々が集まっています。
東名高速道路上を陸橋で渡り南側へ
古くから通る道路に沿って
境原(あるいは「原」)という集落
左にあるのは〈たぶん〉唯一の商店
付近現在は新しい建物もありますが、多くは畑作や果樹栽培などを営む農家の住宅です。
その先で古い道を逸れて坂をくだります。
中井町の工業団地「グリーンテクなかい」へ差し掛かりました
様々な工場や倉庫などが散在している場所ですがこの付近は緑が多く建物があまり目障りにならないです。
正面橋の下には藤沢川の流れ。震生湖はこの支流のひとつをさかのぼったところです。
上の交差点を直進、井ノ口というところへ進みます。
途中東名高速秦野中井ICなどから二宮町方面へのびる広い県道バイパスを横切りその旧道と交わるあたりが井ノ口、古くは井之口村だったところ。
こちらも「村」の古い道路
道幅や道路まわりの様子から古い道であることが伝わってきます。〈具体的な説明は難しいのですが〉
この道は井之口村から隣りの土澤村(現平塚市土屋地区)へ続いているようです。次はそちらへ
その途中、坂道を上がりつつ
ふり返って先ほど通りかかった井ノ口周辺。
井ノ口あたりから相模湾方向へは大昔、秦野盆地から外へ流れる川の主流が通過していた時があり、その影響で台地が削られて低地になってます。(現在は流れの方向が大きく変わり、井ノ口方面には葛川という小さな川があるだけです。)
また丘陵にあがり遠藤原というところから(地名は平塚市土屋)
ちょっとしたハイキングコースが設定されていて道標
おおきいほう
七国峠・遠藤原のみち
← 源水横穴古墳 南平橋 : 七国峠 →
ちいさいほう
厳島神社 →
← 日枝神社
道しるべを左へ進むと畑のなかへ出てきます
丘陵の上は広く平らな面になって〈台地と言えばいいのか〉その多くが畑になっています。
さらに畑の中の小径へ入って丘陵台地の端から
遠くは西丹沢方面の山々、手前芝生はその先崖の下にゴルフ練習場があるのでその一部かもしれません〈詳細不明〉
反対側は平らで日当たりの良い畑
どこまでも、でもないけど続いてます
遠藤原と呼ばれる広い台地からまた坂を下って歩くと神奈川大学入口交差点に出ました。
南側へ道を上がると大学入口があるのですが、こちらの「湘南ひらつかキャンパス」はこの春(2024年)横浜市内への移転が完了して閉鎖されてしまいました。〈それでも神奈中の路線バスは今も律義に正面校門前のバス停へ乗り入れていました〉
跡地は川崎競馬組合に売却されてトレーニングセンターが移転してくるようです。〈現在多摩川河川敷に周回コースを持つあの施設かと〉
神奈川大学前を通る道路を先へ進むと
たくさんの幟がはためいていたのは「土屋銭洗弁財天」妙圓寺
境内洞窟内に銭洗い池があるとのことです。結構な台数駐車できるスペースもあり、もしかして御利益たくさんあるので人気なのでは?
残念ながら自分には清め洗う小銭すら持ち合わせてなかった、ってことでご縁はとりあえずなさそうです..
妙圓寺門前を流れていた小さな川に沿って下ると東海大学硬式野球場なるグラウンドの脇を通過して
しばらくまたのどかなところを
左は「三笠川」というようです。
三笠川に沿って下っていくと座禅川に合流しさらに金目川(かなめがわ)と合流
金目川座禅川合流地点です
右が金目川、秦野盆地から流れ出る水をひとつに集めて、大昔は中井町方向へ流れたこともあったようですが今はこちら(ここは平塚市南金目)を流れています。
正面、建物と木の間には雲がかかってますが富士山の姿も、10月下旬になろうというのにまだ積雪がみえなかったです。
しばらく金目川沿いに下ってから川を渡ろうとしたら
前河原橋通行止
貴重な木橋ですが、なんでも不良箇所が見つかったそうです。通行止め期間は現在対応検討中のため未定とか..
少し先にも橋があるのでそちらを渡ります
観音橋から前河原橋方向
ところで観音橋、たもとには坂東三十三観音第七番札所の金目観音(金目山光明寺)があります。
〈そのあたり調べていたらあれこれ釣果あったので並べちゃいます〉
その近くにあった宗信寺は1886(明治19)年に周辺郡内で最初に開かれた学校のあったところだそう。現在は光明寺北側にある法傳寺の前に関連の石碑がたってます。
法傳寺と石碑
右の石碑に「揺籃之地 神奈川県立秦野高等学校 神奈川県立平塚農業高等学校」と刻まれています。
このあたりはかつての金目村の中心地で村役場もあったところです。
県道62号平塚秦野線沿い、金目駅バス停付近
左端に写るのは石碑の側面、正面には「大通山法傳寺」
かつての村中心部からちょっとはずれると風景変わって(平塚市北金目)
しばらく田園地帯をぶらぶらと歩きます
〈埃っぽくなければ〉こういうところを歩くのは好きです。
2つ前と変化ない風景ですが
奥は大山
鈴川の流れにぶつかって橋を渡ります
宮下橋のうえから上流方向
平塚市岡崎というところに移動してきました。
かつての岡崎村、この右側すぐの高台には村役場と岡崎神社がありました。現在も神社が健在です。
周囲一帯は平安時代末期から鎌倉時代初期頃に岡崎城が築かれた場所です。
源頼朝重臣の岡崎(三浦)義実の本城となり、その後しばらく三浦一族の拠点となっていたようです。
戦国時代に入ると三浦氏(当時の岡崎城主は三浦義同(道寸))と敵対する小田原の北条早雲(伊勢宗瑞)が相模に侵攻、岡崎城は落城しました。
本丸跡には現在「無量寺」があります。
岡崎神社からの道を下って広い通りに出たところ
歩道はタイルで装飾され、岡崎城址への誘導路的な道になっているのでしょう
でも城跡までは追いかけませんでした。〈そのうち機会をみて〉
岡崎からは伊勢原台地へゆるゆると上がり
あとはそのまま伊勢原駅へ向かいました。
今回通った地域には散歩、ウォーキングでしばしば足を運びます。
特に名所旧跡などを訪ね歩くでもないのですが、晴れた日にのどかな風景を見ながら歩くとそれだけでよい気分転換になります。