京急逗子線の神武寺駅に下り、逗子の池子から桜山、葉山に入って長柄、堀内、一色、下山川をさかのぼる形で下山口、上山口、木古庭、横須賀へ入って山中、長浦、そしてまた京急線の安針塚まで。
そぞろに歩いた揮発性の記憶を固定化しておきます。
行程
スタートの神武寺駅
はじめて下りたこの駅はちょっと変わっていた。通常の出入口はここ1か所、そのほかに米軍住宅内に直接出入りするための改札口がある。そちらは米軍関係者と許可を得た人しか利用できない、国境つき改札である。
なので駅の北側は長々とフェンスが張り巡らされ、中は米軍池子住宅、米海軍補助施設となっている。
駅南側、Not occupiedな逗子市池子の住宅地を進む。
踏切、横須賀線が通って行った
線路を渡ってからすぐ田越川を渡り、桜山の大規模造成住宅地へ上がる。
途中、逗葉高校前を過ぎると葉山。住所表記的には逗子市桜山から葉山町長柄と変わり、数十年前に造成されたと思われる住宅地の中を通る。住宅地の向こうに阿部倉山が見える風景が印象的だったのだけど、光線の具合が悪くて写真がない。
住宅地のいちばん端まで来て、ガードレールが切れた住宅との間の細道(先は階段)を下りていく
階段の途中から
丘を下ってしばらく歩いていくと国道の交差点にぶつかった。
国道134号が通る長柄交差点
左端の道からここへ出てきた。今回、目的があるとすれば国道、県道など車の交通量が多い道を極力歩かないこと。この交差点からはまた脇にある細い道に埋没。
長柄から南の方向に歩き、途中森戸川を渡り堀内という、葉山町の中心地域へ。
小さな川に沿って(葉山町堀内)
首都圏の市街地では多く暗渠にされてしまった小川がここには目に見える形で残っていた。
この小川をさかのぼるように歩いていたが見失ってしまう。
堀内から一色に地名が変わり、小学校の脇に出るとまた別の小さな川が流れていた。今度はその川に沿って下っていく。
名前を知らない川
こちらも小さな川だが、途中擁壁が崩落して家が傾いている場所があった。調べてみると神奈川新聞の記事になっていて、2016年9月の発生。1年以上復旧しない事情というのを勘ぐって勝手に切なくなる。
この川は別の小さな川と合流し、さらに海岸に出る直前で下山川に合流していた。
海岸の手前、下山川に架かる下山橋
渡っているのは国道134号。鬱蒼とした林の中は葉山御用邸。橋の上には警官。
御用邸近くの海岸に出る。
葉山公園から長者ヶ崎方面
葉山公園から江の島方向
大浜海岸波打ち際
御用邸真後ろの一色海岸のほうが個人的には好きだが、なぜか隣の大浜海岸にいる。
一色海岸(別の日)
いったん海岸まで出たあとは、御用邸の中を流れていた下山川に沿うようにさかのぼって歩く。
茅葺屋根の門
海岸から2kmほどさかのぼった場所に、お寺の山門のような。ここは茅山荘(ちざんそう)といい、古くは荏原製作所創立者の別荘、現在は某僧侶が管理していて坐禅会などのイベントハウス(?)となっている、とのこと。
敷地の中に川が流れ、木橋がかかっているのが垣間見えた
このあたりは下山口という地域。もう少し先へ行くと上山口。
水源地橋の上から下山川
「水源地」というのは「御用邸水源地」とも言われ、葉山御用邸で使われる水の井戸がこの付近にあったそうだ。この先で一時的に県道に出る。
湘南国際村入口交差点から新沢トンネル入口
この日最初の方に通った逗葉高校の近くから車ならトンネルで一直線にここへ抜けてこれる。5分もかからないだろう。歩いてここへ到達した私は2時間以上かかっている。そしてトンネルに歩道があることを発見、歩いても通れるんだ。でもあまり気は進まない。
トンネルには入らずキャベツ畑にのぼる
正面が湘南国際村入口交差点、向こうの山のてっぺんが湘南国際村。以前村内の総合研究大学院大学へ行った(歩いてじゃない)けど下界から隔離された天空の別世界みたいなところだった。
キャベツ畑からまた細い道を、下山川に沿って歩いて行く。上山口からさらに山の中に入っていくと木古庭(きこば)という地域となる。山が迫ってきて、少し脇道にはいるとどこも傾斜地。
木古庭の名もなき道路の上から
時々路傍に石仏、庚申塔などがまとまって置かれている。わかりにくいが、ここも木標が立っている周りにいくつか。
不動滝
木古庭不動尊があり、その近くに滝が落ちている。
滝壺付近
言わなくてもいいことを言うと、滝の上はゴルフ場。
滝の近くから反対方向
再び下山川に沿って歩く。横浜横須賀道路の高架下を通過して
下山川の上流部
畠山城址橋上から撮った。近くに畠山という山があり、たぶん中世の山城があったのか。
だいぶ山の中に入ってきたところで突然大きな道路にぶつかり、そちらへ進むと横浜横須賀道路の横須賀インターに出る。
横須賀IC付近まで来て
手前の広い道路はインターへの連絡道路だった。そして葉山町をぬけ横須賀市にはいっていた。この付近横須賀市山中町は横横道路から枝分かれする本町山中道路の山中。
この日は川歩きのつもりではなかったので確認はしていないが、下山川の源流は横須賀IC付近にあるようだ。
自動車専用道に入るわけにいかないので一般道を歩いて行くと、歩行者専用道が現れてそこへ入る。
塚山へ上がる歩行者専用道路、ただし未舗装
登る途中
古道の切通しのような場所も。
山頂近くまで上がったところに
三浦按針夫妻墓
横須賀市の解説板から
三浦按針夫妻墓
墓石は、江戸期の宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、国指定の史跡となっています。右が按針の墓で、左がその妻の墓です。
三浦按針は、本名をウィリアム・アダムズと言い、一五六四年にイギリスのケント州ジリンガムで生まれました。少年時代の十二年間を造船工として働き、成長して海軍に入り、航海長や船長をつとめました。のちに、オランダのファン・ハーヘン会社の東洋探検船隊に加わり、リーフデ号の航海長として一五九八年に東洋へ向かいました。
慶長五年(一六〇〇)、台風に遭い、生き残った乗員二十四名と共に豊後国(大分県)臼杵に漂着しました。
徳川家康は、三浦按針を高く評価し、政治・外交顧問として重く用い、江戸日本橋に屋敷を、この地逸見村に二百五十石の領地を与えて厚遇しました。三浦の姓は、この三浦の地を領地としたことにより、按針の名は、水先案内人を当時按針と称していたことによります。
この頃の按針は、家庭的にも恵まれ、江戸日本橋大伝馬町の名主馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘を妻とし、ジョセフとスザンナの一男一女をもうけました。
家康亡きあとは不遇となり、元和六年(一六二〇)五月十六日に平戸の豪商木田弥次右衛門宅で病死しました。享年五十七歳でした。
この地に供養塔が建てられたのは、「我死せば、東都を一望すべき高廠の地に葬るべし、さらば永く江戸を守護し、将軍家の御厚恩を泉下に奉じ奉らん」との按針のことばに従ったものと言われています。
毎年四月八日、按針の遺徳をしのび、国際色豊かな記念式典が行われます。
周囲は塚山公園
同じく横須賀米海軍、市街地方向
この日は視程が短く、あまり遠くまで見通せなかった。
山から下りて京急線の駅へ向かう。
前方が京急線安針塚駅(横須賀市長浦)