2022年4~5月に『古入間川』川跡を辿った記事内容を改訂、再構成しています。
こんなふうにたどってまいりまして
現在位置は毛長(けなが)川、綾瀬川、伝右(でんう)川、3河川の合流点あたり、東京足立区花畑付近です。
(78)前回再掲・毛長川最下流鷲宮橋から合流点方向
(79)200mほど下ると3河川合流地点
まずよく目立つ中央の水門、ここを通って手前へ出てくるのが伝右川、その向こうほとんど見えない毛長川、右手前水面ばかりよくみえる綾瀬川。
(79)同じ地点、別ポジションから別の日
いちばん手前毛長川、大きな水門を2つ通過して伝右川、そのうしろから綾瀬川
綾瀬川奥の対岸、黒い2階建ての家の前を通って小さな水路も合流しています。この水路は綾瀬川東側を大回りする古入間川・綾瀬川川跡に沿って流れていることが治水地形分類図からがわかりました。
これらの河川水路、合流後は綾瀬川として流れ下ります。
ここで現れた綾瀬川、伝右川について。綾瀬川については歴史なども書き加えました。
伝右川:さいたま市見沼区膝子付近に源がありほぼ綾瀬川と並行して流れる延長13.1㎞の川です。江戸時代初期、源流付近にあった膝子沼を干拓し、新田開発するにあたって開削された人工河川がはじまりです。
足立区花畑の綾瀬川、毛長川との合流点には逆流を防ぐ水門と強制排水を行うための排水機場があります。水量が少ないのですね。
綾瀬川:現在は桶川市小針領家周辺の水田排水が集まって源となり東へ流れ出します。徐々に南東へ方向を変え蓮田市・伊奈町境界を進みつつ支流、農業用排水をあわせて水量を増やし、大宮台地(岩槻支台・片柳支台の間から鳩ヶ谷支台東側)を流れて中川低地に出ます。草加市内で綾瀬川放水路(1999年完成)を分け、足立区花畑で毛長川、伝右川を合流し、江戸時代開削された新綾瀬川水路を下って葛飾区内で荒川の左岸に達し、中川と合流します。
歴史をさかのぼると中世の頃まで綾瀬川は荒川の本流でした。現在の元荒川川筋を下ってきた荒川本流は綾瀬川流路に入って下っていました。
戦国時代ごろに元荒川の瀬替え(流路変更)工事が行われ、現在の綾瀬川源流付近で東へ流れて星川に合流する流路が造られました。この工事により綾瀬川流路に入る水量は減少しましたが時々洪水氾濫などで大量の水が入り込むことがあったようです。
その後に綾瀬川へ水の流入を防ぐ堤防(備前堤)が設けられて荒川と綾瀬川は分離されました。
それでも江戸時代初期の綾瀬川流域には多くの低湿地や池、沼が残りました。例えば伝右川の説明に出てくる膝子沼は綾瀬川河道内に残った沼。日光街道草加宿付近も蛇行していた川跡がつくった広い低湿地帯でした。この付近は干拓や綾瀬川流路変更工事が行われ、工事後に街道、宿場が整備されています。
さらに昔、荒川が利根川と分離して元荒川から綾瀬川流路を流れはじめたのは1500年前とも4000年前とも言われているようですが、その頃、そして元荒川に水が流れる前の綾瀬川流域はどうなっていたのでしょうね?〈長くなりました〉
今回最初の地図(地理院地図・治水地形分類図)をここにひとつ差し込んでおきます。【綾瀬川合流点付近】【地図1】
毎度の説明ですが
・青い横縞部分は河道跡
・黄色で示されているのが自然堤防
・緑系は低地(平野、湿地)
・現在流れる河川、水路の一部はラインを強調
・赤地カッコ付き数字は写真撮影位置、記事中写真と番号対応
(80)綾瀬川、合流点から1000mほど下ったところ(足立区花畑2丁目・八潮市浮塚境界)
上の【地図1】を見ると綾瀬川、毛長川(古入間川)に残っている明瞭な河道跡がこの付近より下流では見えなくなります。
その理由がとても気になってしまいました。あれこれ推測
この周辺は少なくとも数万年前からずっと関東平野を流れる大河がまとまって東京湾へ流れ出す河口となっていました。
寒冷期と温暖期を繰り返す気候変動により海面の下降、上昇があり、寒冷期に川は谷を形成し、温暖期には谷間が海水で満たされてこのあたり「奥東京湾」となり、川が運んだ土砂が堆積して谷を浅くしていきました。
最近、といっても5~7千年前頃の温暖期(縄文海進)では海面は現在より2〜3m上昇し、奥東京湾西の入り江は現在の埼玉県川越市付近、東の入り江は埼玉県久喜市栗橋・茨城県古河市付近にまで達しました。
その後徐々に寒冷化して海面は低下(海退)、3500年前頃の海岸線は、埼玉県草加市から三郷市付近にあったとされています。
それから現代に向かってもこの付近を流れる大河から供給される大量の土砂が堆積して陸化していくのですが、小さな海進、海退も繰り返されてちょうどこの付近が長いこと河口、海岸線となっていたのではと想像しました。
陸側にあった地域には川跡が残り、最近まで水際、海底にあったところには残りません。
そんなふうに(一応)結論づけてみました。
現在は江戸川や中川、荒川などの流路を見るとかなり東京湾側に陸地が広がっていることがわかりますが、東京低地と呼ばれる一帯が陸化したのは最近のことなのですね。
今回辿った範囲の地図をここへ【地図2】
〈クリック、ピンチなどで地図拡大できるはずです〉
また1000mほど下流へ移動。
(81)垳川流路分岐点付近から綾瀬川下流方向(足立区神明1丁目・八潮市浮塚境界から)
ここに写る綾瀬川(下流方向)は江戸時代寛永年間(1624~1644)新たに開削された人工水路(新綾瀬川、現足立区南花畑~葛飾区小菅間)です。現在は水路拡張、改修されこちらが綾瀬川本流です。
(81)同じ位置を綾瀬川対岸からふり返る形(足立区南花畑3丁目から)
1つ上の撮影位置は正面の小さな水門と首都高高架下四角い建物の間。
水門のうしろは垳川(がけがわ)があります。古くは綾瀬川・古入間川流路で水は向こうへ流れていました。
新綾瀬川水路開削によって流路が変更され、閉め切られたため綾瀬川から水の流入はなくなりました。(現在も水門は閉じていて綾瀬川‐垳川間の水のやり取りは通常時ありません)
古入間川流路でもあった垳川のほうへ進みます。〈『垳川を歩く』になります〉
(82)綾瀬川へ70m
現在の垳川沿いは「神明六木遊歩道」が通っています。その起点(終点?)付近
ちなみに標柱中央に小さく「中川から2110m」の文字もあります。垳川の末端は現在の中川に接続しています。古い綾瀬川、古入間川もそちらへ流れ込んでいました。
現在は中川‐垳川間も閉め切られて通常時水のやり取りはありません。
(82)少し離れて現綾瀬川方向を見て
首都高高架に沿って下を現綾瀬川が流れています。手前水路は小溜井排水場設備が壁になって塞がれ、通常時水は流れません。
(83)200mほど下って上流(現綾瀬川)方向
(83)同じく下流方向
垳川も東京都埼玉県の境界となっています。此岸・足立区神明3丁目、対岸・八潮市浮塚
垳川もここまでの毛長川(古入間川)と同様、蛇行しながら流れていました〈元々古入間川の続きですし〉。
治水地形分類図では流れに沿って両岸は自然堤防地形に分類されていますが、通常の低地平野部分と標高差はほぼありません。(垳川水路の底は河川改修で掘削され低くなっています)
この先遊歩道からの景色はあまり変化ありません。
(84)平成泉橋のやや下流から
(85)葛西用水路との交差点に近づいて
水面近くの歩道と階段上は初期に整備されたらしい歩道〈階段下の歩道が歩きやすいです〉
ほどなく水門を通って葛西用水との交差へ
(86)葛西用水と垳川の交差地点、ふれあい桜橋上から垳川上流方向
正面開いている水門は「小溜井引入水門」、画の右から左に葛西用水が流れてその水を垳川に引き入れてます。現在垳川は他の河川と水のやり取りがなく、ここで交わる葛西用水の水を水位の維持などに利用しているようです。
垳川という名称ですが別名は「小溜井」、実質ため池。綾瀬川の流れがしめ切られたあと小溜井の名称で呼ばれてきたようです。
(86)方向変え葛西用水上流を見て(手前足立区六木3丁目、向こう八潮市垳)
右がふれあい桜橋、正面奥から葛西用水、左右が垳川です。背後葛西用水下流側にも水門があります。
葛西用水は江戸時代に開かれた灌漑用水路で当初は利根川から取水し、現在の東京墨田区あたりまで伸びていました。〈現在の葛西用水路、この下流足立区と葛飾区境界からは暗渠になります〉
葛西用水より東側は整備されてから少し日の経った歩道を歩きます。川面との間は植物に覆われて様子が分かりにくいです。
垳川下流側にも葛西用水から水が引き込まれ水面が維持されてます。
すき間から
対岸は八潮市垳、『垳』という文字はこの垳川と対岸の地名にしか使われていないそうです。〈ちなみにJIS第二水準漢字〉
(87)川沿い、時代を遡った感じ(足立区六木3丁目)
細道を木々の間をすり抜けるように歩き、と言いたいところですが、油断しているととび出した木の根を蹴ったり躓いたり〈文字通りの踏んだり蹴ったり〉
六木水の森公園水車広場の水車
この公園設備いろいろ煉瓦で造られてます。対岸八潮市は煉瓦材料となる荒木田土が採れ、大正昭和の頃に煉瓦工場がいくつも進出したのだそうです。そのせいかな
公園から川べりに戻ると中川との合流点近く。合流を遮るように排水機場があります。
(88)垳川排水機場、水門など
右側に垳川から排水する水を通すための水門、その奥ポンプ室建物などが見えます。この水門は通常時の水のやり取りはありません
左の丸い2段の建物は排水機場とはまったく別の施設、上水の配水塔です。〈ここの垳川、中川の水は上水に使用してません〉
(88)排水機場建物の前側から
右が強制排水用ポンプなどの入った建物。手前水路〈淀んで汚れてますけど〉にも樋管があって背後にある中川と水をやり取りすることは可能です。
左端の細い道は「神明六木遊歩道」
(89)中川のほうを向いて
手前は垳川排水機場からの排水用樋門、中川対岸に見えるのは新大場川水門。
古入間川跡をたどって中川までやってきました。
この付近の中川流路は過去に利根川、荒川、渡良瀬川などの流路、複数の河川が合わさった大河が流れていた時代もありました。
古入間川もかつてこの付近でその大河に合流していました。
(90)別位置から中川〈別の日〉
中川左岸側、新大場水門付近から上流方向です。
別位置から
右岸側(対岸)は垳川排水機場付近、2つの樋門ゲートが見えます。手前/左が水を直接やり取りする稲荷下樋門、奥/右は排水機場から強制排出用の樋門。
大ざっぱですが1000年~1500年前ころ、古入間川(+綾瀬川)はここから現・中川の流路に入っていきました。その当時ここには利根川の流れがあったとされます。
以降は(古い)利根川となるので古入間川(川跡)を辿った記録はここまでで終わりとなります。
ただし新大場水門の先、古い利根川流路とその流れが分岐した派川の跡などもうちょっと書き残しがありますのであと1回続けます。
また中川や江戸川、さらに利根川、荒川も含めて広く、また歴史的に長い期間で見ていくとまだまだいろんなもの、事が出てきます。
言い足りないこともたくさんあります。
まとめるには時間が不足してすぐに次を、とはいかないのですが
そのうちなんとかしたいと思います。