散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

古い入間川の川跡歩き その6 鴨川から新川へ入り現在の入間川との接点まで

古い入間川の川跡をさかのぼって、現在は鴨川の流路に入りました。左岸がさいたま市桜区神田、右岸が同区五関というあたり。鴨川は大いに改修されてごく普通の都市河川になっています。

鴨川、学校橋の上流側(前回再掲)

両岸は川が運んだ土砂が積もった自然堤防の微高地になっています。大きな河川、かつての入間川が造った地形です。

 

上から2㎞弱上流、藤橋の手前から

 

藤橋の上流側へ出ると地名では大宮区三橋、田んぼになっている微高地の先は大宮台地になりますが段丘面は低く目視では確認が難しいです。
そんなところで形の整った古墳が目に入りました。鴨川沿いの農道から水田越しで遠望になりますがちょうど段丘の縁に
茶臼塚古墳

調べてみると周辺は側ヶ谷戸(そばがいと)古墳群、そのうちのひとつでした。旧入間川の流域はこのあたりから浦和近辺にかけていくつも古墳群が存在しているとのことです。大宮台地の段丘面だけでなく発達した(高い)自然堤防上にも古墳がいくつも造られているようで、古代からこの一帯には入間川の流れが存在したことも改めて確認できました。

 

現在は鴨川、その上流には関沼があります、というかあるようです。
対岸から窺う感じ

間近で沼を見てませんが昔よりだいぶ小さくなっているらしく、はっきりわかりません。自然の沼と思ったら人工の溜池との説もあるようです。

 

さらにさかのぼると新川との合流地点となります。

鴨川・新川合流点(さいたま市西区水判土(みずはた))

右から流れ込んでくるのが鴨川、左から新川。

新川がかつての入間川流路、つまり昔はここで鴨川が入間川に合流し、これより下流入間川という地点です。

 

ここで鴨川と別れ、新川沿いにさかのぼります。

新川最初の橋、新袋橋から下流方向

前方が鴨川との合流地点です。

 

同じ橋上から上流方向

川幅は広くとられてますが現在の水量は少ないです。先ほどの合流点から1.5㎞ほどは最近の河川改修でこんな川幅です。

 

鴨川合流地点から300m、袋橋のたもと

前方水判土交差点の先、水波田観音こと慈眼寺。

 

上流へ進んで飯田橋上から

出来て間もない橋です。
少し先で改修済み区間は終わり。その先は引き続き現在川幅拡張工事中でした。

 

新川、改修工事中のまた先(西区西遊馬(あすま))

両岸は田んぼや畑となっている低地、その外側は自然堤防になり土地の高まりがよくわかる地形です。

住宅の載っているところは手前側より1~2m高く、それが川と並行に続いています。

川の運んだ土砂が洪水のあとに置いていかれ、それが度重なり積もったものですが自然堤防はある程度以上の大きな河川でないとできないので、これもここに入間川が流れていた証拠になります。

現在の新川は上流に向かってこのまままっすぐ、あまり変化はありません。

 

2㎞くらいさかのぼると県道2号線やJR川越線の通る町中に入っていき、住宅などが増えてきます。
新川は暗渠となって流れは行方不明になってしまいます。

暗渠となる直前

ここも旧入間川流路の中央、かつての川底あたり。旧流路は前方に見える団地のあたりで左へカーブし現在の荒川河川敷へ入っていきます。

 

県道2号(さいたま春日部線)に出たところ

新川は暗渠となってこの真下を通過しています。旧入間川流路も同じくこの付近から右の団地方面へのびていました。

その古い入間川河道は1596(慶長元)年に発生した大洪水を契機に堤が築かれて締め切られたと記録がありますが、伊奈忠次によって築かれた堤防はこの付近にあったようです。
道路前方に見える緑の歩道橋付近、右の団地建物の裏手を通過し、JR川越線指扇駅近くへのびていました。現在はっきりした痕跡は残っていないようで、何も気づきませんでした。

 

現在の荒川左岸堤防上から前方は国道16号、左はその上江(かみごう)橋

上江橋は荒川と入間川を一気にこえる長大な橋です。現在、荒川と入間川はこのあたりでは並流していて上江橋の500mほど下流で合流する形に河川改修されています。

入間川跡はだいたい国道に沿って荒川河川敷に入っていきました。河川敷に入ってこちら側に蛇行して左側自動車教習所コースの外側をまわっていました。(流れと方向逆に言ってます)

 

河川敷に下りて上江橋の先へ

現在は下に見える滝沼川が流れて荒川に合流しています。こちらから見ると(見えないけど)荒川の向こうに並流しているのが入間川です。

入間川もこのあたりを流れていたはずですが、さすがにもう具体的な手掛かりは見つかりません。
地形情報を参考にすると現河川敷内で蛇行を繰り返して上江橋西詰あたりに達し、現在の西側堤防向こうに残る古川流路を流れていたようです。その頃はまだ荒川西遷事業前で荒川の流れはここに達しておらず(おそらく)入間川が単独で流れていました。

 

ようやく新旧入間川の接続点と言える範囲まで到達したのですが、着いたとたんに空模様が急変して大粒の雨、最後に入間川の流れを見ることは断念しました。

過去に上江橋を渡ったときに撮った入間川をのせておきます。
上江橋上から入間川下流方向(2020年10月)

現在はカーブの先で荒川と合流します。新川、鴨川から浦和、綾瀬川方面には流れていません。

 

入間川流路地図

 

ひとつ前

miwa3k.hatenablog.jp

 

さて現在の入間川からの分岐地点まで歩いてきて疑問がわきました。
かつての入間川が現在の荒川流路から外れて浦和や綾瀬川の方へ流れていたとき、現在の荒川流路はどうなっていたのだろう?

具体的には現在のさいたま市西区川越市の境界付近から新河岸川合流点のある朝霞水門あたりということになるでしょうか。

入間川が今より東の方へ流れていた江戸時代以前は荒川の流路が替えられた西遷事業の前、荒川の流れはまだここに達していないので流れる川が存在しません。

何か参考になる情報がないかネットであたった範囲では、荒川が合流するようになった江戸時代以降についての資料はいろいろありますが、それ以前に関しては信頼できるものが見当たりません。
暇なときにぼちぼち調査してみましょうかねぇ。

《追記》22.05.16

川口市文化財センターのこちらの資料が参考になりました。(PDF)

https://www.kawaguchi-bunkazai.jp/center/kawaguch-gaku/text/07text.pdf

3ページ目の「古代の入間川と芝川の成立ち」、大雑把にまとめると

約5000年前、大宮台地と武蔵野台地の間には今の利根川と荒川が合流した大河が流れていた。(現在の荒川低地、現荒川流路付近)

約2000年前にはこの大河は現在の埼玉県北部方面へ流れを変え、跡に入間川が単独で流れるようになったものの大河が残した土砂堆積の影響で流れの方向が変化し、大宮台地の裾をまわって毛長川川筋を草加方面へ流れた。←これが川跡歩きした旧入間川です

その旧入間川もまた土砂を堆積させ、河床の上昇などで本流を以前の大河跡(現在の荒川流路)に戻した。

とあります。1600年頃に伊奈氏が造った堤は当時の入間川本流を締めきったわけでなく、時々大雨のときにする水漏れを塞いだと見ればこの説はいろいろ納得できました。

もうちょっと深堀りしてみたいところもありますので引き続き調べてみます。