その1では横浜上麻生道路(神奈川県道12号線)をほぼトレースする形で、神奈川県内を歩き、東海道神奈川から現在の川崎市麻生区上麻生、または柿生まで来ました。
ちょうど都県境で、続きの今回その2はまず津久井道に入って東京都内を歩きます。
この先も歩き方は前回と同じです。最近拡張されて都道などになった道を歩いて行き、所々残っている旧道はそちらへ入って行く、ということを繰り返しながら終点の日野を目指します。
歩いた足あとマップ その2はピンク色部分
その1へのリンク
小田急線柿生駅で下り、前回離脱した踏切まで来ます。
こちら側津久井道、正面踏切で日野往還旧道が合流(町田市能ヶ谷3丁目付近)
津久井道は現在の正式名称(?)東京都道・神奈川県道3号(世田谷町田線)、この付近では鶴川街道とも呼ばれます。
まずはこの道路にのっかって先へ進みます。とはいえ、明治時代頃までは津久井道のほうが日野往還よりも小さな道、当時の地図を見ても日野往還のほうが太い線で描かれ、津久井道は存在していないかのようです。
早速、踏切から300mほどでわずかな区間、旧道が残っています。そちらへ入ると
茅葺屋根の建物が目に入りました
某工務店の敷地内、詳細は不明ですが、昔から残っている建物という感じではなさそうです。
すぐ新しい道に合流、鶴見川支流真光寺川を渡り、小田急鶴川駅前を通過します。
鶴川駅交差点付近
駅付近の道路名表示は”鶴川街道”でした。
鶴川街道と思って先へ歩くと道路名はすぐに”芝溝街道”に変わります。道路は同じように続いているので単に行政上の区分ですが。
芝溝街道になって、町田市大蔵町付近
右へ旧道が分岐しています。
そちらに入って
一度元の道路へ戻りますが、再度分岐。
次はゆるく長い坂道の旧道
新道は勾配のない場所に開かれています。
再び新道に戻るとまた道路名が変わって、通称”鎌倉街道”の都道18号。
ところがここで勘違いして道を間違えます。隣接する都道19号へ入って先へ行ってしまいました。
律義に間違えた地点まで戻って、18号鎌倉街道を先へ進みます。
岩子山交差点先から、また旧道が残っています。
一瞬、妙に古道っぽい山道もあり
旧道の途中から下の新道など
左向こうには町田市陸上競技場の屋根などが見えてます。サッカー”町田ゼルビア”のホームスタジアム、その周辺は町田市立野津田公園です。
旧道は再び、昔の風景とさほど変わってなさそうな所を通って(町田市小野路町)
〈右上に指入っちゃいました、ごめんなさい🙇〉
道は合流して、その先小野路宿に入ります。
小野神社前交差点
この先の道沿いが小野路宿。信号左側の建物は小野路宿里山交流館、右側の立派な塀の家の向こうは、新撰組近藤勇が若い頃に通ったといわれる道場が、現在は小島資料館となっています。
”小野路宿”というようにここには宿場がありました。
宿内にあった解説から抜粋すると
「江戸時代には東海道と甲州街道を結ぶ脇往還として」=これが今歩いている日野往還のことでしょう。
「江戸中期以降は埼玉方面から大山詣でに行き来する人々の宿場」=府中通り大山道(大山街道)です。
このほか、さらに古く鎌倉街道上道もここを通っていたと推定されています。
というわけで自分も鎌倉街道、大山街道としてここを訪れており、今回少なくとも3回目です。
小野路宿内の道
車が大名行列ですnya。
そしてこの先はしばらく、大山道、鎌倉街道と同じ道すじをたどることになります。
小野路宿のはずれから、現在は車の多い道を右折して急な坂道を上がります。今は細い道ですが地理院地図では黄色に塗られて、れっきとした都道であることを示しています。
多摩市・町田市境界付近の都道
もう少し進むと多摩ニュータウン地区へ出ますが、そこまでは森の中の少し寂しい場所を通っています。鎌倉街道の旧道と言われる道はさらに森深く、未舗装の山道です。
恵泉女学園大学の門の前まで来ると団地、住宅地を控えて「人里」へ。
多摩ニュータウン貝取(かいどり)団地内を道は通過していましたが、昭和40年代頃の団地造成時に古い道すじが完全に消滅しています。
団地内の歩道などで都道18号、現在の鎌倉街道瓜生緑地交差点に出て、この道を北方向へ歩きます。(大山道歩きでは同じ道を南へ歩いてます)
さんかく橋歩道橋と都道18号
横は中央分離帯のある片側2車線の道路です。
しばらく行くと小田急多摩線、京王相模原線の高架下をくぐり、乞田川(こったがわ)を渡ります。
乞田川にかかる大橋
ここはいわゆる旧道、右向こうに都道18号に掲げられた青い標識が少し見えます。
そのまま都道18号、乞田交差点へ出ます。鎌倉街道、大山道はここで右折して関戸、府中方面へ逸れていき、日野への道は都道157号(乞田東寺方線)にのります。
この道路も最近大きく拡張されました。
途中で旧道、さらにその旧道もわずかにあって、
つかの間の旧旧道から見えた、川?、用水?(多摩市和田1丁目)
大栗川の手前で都道157号は都道20号(野猿街道(やえんかいどう))に合流し、
宝蔵橋を渡って向こうは日野市です
橋を渡って日野市に入るとすぐに野猿街道と川崎街道が交わる一ノ宮交差点。
一ノ宮交差点
ここを後ろ側へ行きます。
次は川崎街道(都道41号)に入り、高幡不動付近まではかつての日野往還の道筋が現在までほぼ踏襲されているようです。(細かく旧道跡は残る)
川崎街道百草園駅東交差点付近
街道はこの付近ずっと2車線の道路です。
道の左側に真照寺の寺院があり、そこの標柱でしょうか。正面に「多摩八十八所 第十七番 弘法大師」、側面に「武相丗三番 第八番札所」とあります。
そういえばこの道で石仏や道標などもあまり見かけません。探せばあるようですが、道端に残っているものを見かけることはありませんでした。
高幡まで来ました。
程久保川(ほどくぼがわ)を渡ってから振り返って
高幡不動駅入口交差点付近から
門前を通過します。
不動尊仁王門の横から
仁王門は金剛力士像がうまく写らず、パス。
高幡不動尊について(ここで説明するまでもないですが少しだけ)
高幡山明王院金剛寺、真言宗智山派別格本山。京都智積院を総本山とする関東屈指の古刹です。
その歴史は、大宝年間(701)以前に創設された、あるいは奈良時代に行基菩薩が開基したとも伝えられていますが、1100年ほど前、当時の清和天皇が当地を東関鎮護の霊場とする勅願によって、平安時代初期に慈覚大師円仁が、山中に不動堂を建立し、不動明王を安置したのに始まりました。(日野市観光協会解説を参考)
現在の川崎街道、高幡不動西交差点で右折すると京王線踏切を渡り、浅川べりに出ます。目の前に高幡橋がかかっています。
明治39年測図の地図には現在と同じ位置に高幡橋が見えますが、明治期迅速測図では川の上流側に渡河地点(渡し舟?)があり、前後の道路の引き回しも異なっています。
今回は高幡橋を渡ります。
浅川河川敷と高幡橋
高幡橋上から日野宿方向を望む
左向こうが日野台地、その右側の低いところを甲州街道が通り、日野宿があります。もう少しです。
日野市内では至る所で水路を見ます。街道沿いも並走したり、横切ったり
用水路1(日野市上田)
用水路2(日野市大字宮)
日野宿近くでも日野用水の流れを見ることができます。
日野は多摩川、浅川などの河川、台地縁からの豊富な湧水など、水に恵まれた土地で、用水路を整備して昔は至る所に水田があったようです。
日野往還の道すじでもある川崎街道(都道41号線)は国道20号日野バイパス、中央自動車道と越えてその北側へ出ると、現在はバイパスの完成で都道256号八王子国立線となった、甲州街道の道すじに突き当たります。
甲州街道交差点手前にて(日野市日野本町1丁目)
突き当たってから左折すれば日野宿の真ん中、日野宿本陣脇に出るのですが、先に日野用水を見るため、1本手前の道を左折(手前の青信号)します。
用水路含めて最近整備された道路(日野第一小学校北側)
用水暗渠出口付近
出口付近は階段があって水辺に下りられます。
古い用水周辺の写真も付近にいくつか掲げられていました。ここのは昭和43年、用水の一斉清掃日とありました。
日野用水を見てから甲州街道へ出て、日野宿本陣に、行くはずでした。
路地から甲州街道に出ると、本陣の2、3軒手前にある門構えのある家を、無知な私は勘違いし、門が閉まっていたため、この日は公開していないと思い込んで引き返してしまいました。
私が勘違いした家屋は私邸でしたので写真は控えます。
恥ずかしながら、本陣そこから振り返れば見えたんじゃね、という日野図書館、甲州街道日野宿問屋場、高札場跡の写真で茶濁。
色々出歩いてはいますが、ここまでボケたのは数少ない…いやはや図書館前の幟に”日野市認知症を知る月間”…
最後に味わいのある駅舎のJR日野駅で