東海道程ヶ谷宿内から分かれて西の相模へ進む道がありました。江戸時代の”新編武蔵風土記稿”という書物に、相州往還、相州道などと記された道のひとつです。
相模の国へ向かう道はどれでも”相州道”と呼ばれることはあり得ます。同じ呼称の道は実際に複数あり、今回は東海道程ヶ谷宿からという意味で勝手に「保土ヶ谷からの相州道」とした道を歩きました。
この道、歩いて行く先でいつの間にか”厚木街道”と呼ばれる道に重なってしまいますが、道路の名称なんて地域や時代、歩く方向によってすらも変わることがあるので、あまり気にしない事にしました。
道すじについては、明治39年測図2万分の1地理院地図、明治期迅速測図を参考に、現在の道路地図にあてはめました。昔の道が消滅している箇所もありますが、そこは近くの道路を迂回です。今回は途中厚木基地と飛行場が横たわり、大迂回しました。
最初に、歩いた足あとマップを置きます。
保土ヶ谷からの相州道~厚木街道
JR保土ヶ谷駅で下車、駅近くを通る旧東海道を少しだけ江戸側へ戻ります。
背後へ路地を入ると大蓮寺、その墓地の脇に細い上りの坂道があります。
程ヶ谷宿からの相州道スタート地点
左側フェンス前に”古東海道旧保土ヶ谷宿”と刻まれた石碑、大蓮寺が建てたようです。神奈川宿へ一里九町、戸塚宿へ二里九町とも。
細い坂道のほう、途中は結構急で長い坂、下末吉台地の上へあがります。
途中でバス通りに合流、
坂の途中から横浜みなとみらいの高層ビルを望む
台地上は標高で60m近く、比高はこの付近では50mほど。地名は月見台、花見台、桜ケ丘、霞台、初音ヶ丘などなど、いかにも、という名前です。
比較用、同じ台地の明神台という場所から別の日に
(この絵は夕立の激しい雨にあい、それが去りつつあるところ。)
相州道の道すじに戻って
桜台小学校前バス停から
現在周辺は住宅地。このバス通り(Googleマップでは”学園通り”)に沿ってしばらく歩きます。
この先、風景の変化が乏しいのが難点ではあります。
神奈川県立保土ヶ谷公園、横浜新道藤塚ICをなど越え
保土ヶ谷区新桜ケ丘付近の住宅地
環状2号市沢上町交差点
横切るのは片側3車線の横浜環状2号線。歩道橋を渡って先の右カーブの道へ。
このあたりで保土ヶ谷区をぬけて旭区に入ります。
市沢町バス停付近
市沢と書いて「いちざわ」と読みます。昔は「市野澤村」と単独の村だった時期もあるようです。(なぜ”野”が抜けた?)
先の信号、市沢交番前交差点を左折します。昔の地図を見てもそこは分岐点、どちらへ行く道も今よりだいぶ細かったようです。
左折した先は現在も道幅細く(旭区三反田町)
このすぐ先で東海道神奈川宿から分岐してくる、(やっぱり名前は)相州道の道すじと合流します。
お地蔵様、古木、古い建物(旭区三反田町)
もう1本の相州道と合流した先。この付近は古くからの農家、寺院跡などがあり、昔から集落があったと思われます。
さらに1㎞ほど先(旭区本宿町)
途中、東海道新幹線を横切り、この下は二俣川の流れ、右側がいま歩いている道になります。
前方へ行くと国道16号保土ヶ谷バイパスの高架が横切り、それをクロスして相鉄線、そこの踏切を渡ります。その先で広い道路(県道40号横浜厚木線、通称厚木街道)と合流します。
旧道は二俣川駅前の交差点で分かれ、Googleマップで”旧厚木街道”と記された道すじになります。いつの間にか歩いている道が厚木街道になりました。
現在県道40号となっている新道ができるまでの古い道。昭和になって新道が建設されてから”厚木街道”の名称で定着したとも言われるので、それ以前はこの道、厚木街道と呼ばれてなかった可能性も。
この旧道も現在はほぼすべて住宅地内を通過し、風景の変化が乏しいです。
旭区東希望が丘付近
道は小高い丘を通って、相鉄線三ツ境駅北側へ出てきます。
三ツ境駅北口付近
前方のバスが曲がって行くところが三ツ境駅バスターミナル。
駅付近が横浜市旭区と瀬谷区の境界、この境界は昔の武蔵国、相模国の境界でもあるので、この先、相模の国に入ります。
旧道は駅ホーム端の踏切を渡り、県道40号に合流します。
二ツ橋交差点までそのまま県道を進むといったん北側へ折れてから今度は中原街道(県道45号)に一時のっかり、また旧道が分岐しています。昔は二ツ橋付近に集落があり、そこで辻となるよう中原街道、厚木街道の道が引き回されていたのかと。
県道40号二ツ橋交差点付近
現在の県道は直線で伸びてますが、以前はここで右に折れて複雑な形状に。
この後、サインカーブのような形状の厚木街道旧道は直線の新道(県道40号)と何か所かでクロスしながら西へと進みます。
瀬谷区橋戸3丁目、西福寺の西側では鎌倉街道上道(かみつみち)と一時的に合流し、瀬谷6丁目付近まで並走します。
道がせまくて2つの道を写せませんでした。
向こうへ延びるのは鎌倉街道上道、町田、国分寺などを通過して高崎方面へ。(個人的には鎌倉から埼玉県嵐山町まで歩きました。)
厚木街道は手前を左へ行きます。
あとから考えるに、この日あるいた道は以前歩いた鎌倉街道中道、下道とも交差していたはず。
思い出してみると
中道は旭区三反田町から本宿町付近。新幹線の跨線橋がいわば共用(同じ道路)。
下道はスタート地点のお寺の前、古東海道とかいってたけど鎌倉街道下道でもありました。
どちらも何かで歩いた記憶は残っていたけど、この日は鎌倉街道と意識してなかった。
左へ行くとほどなく境川にぶつかります。
川の向こう側は大和市になります。
遠くに見える橋、県道40号ですが、昔もあのあたりに橋が架かっていたようです。それを渡ります。
渡って再び少しの間旧道へ
大和南2丁目交差点で国道467号を渡り、中学校の横を通ると小田急江ノ島線線路にぶつかります。ここで踏切のある、県道40号にまた合流、渡ってさらに西へ。
踏切を渡ってから振り返って
ここからは県道40号をそのまま進みますが、県道は途中の交差点で突然北側へ折れていきます。
こちらはそのまま直進、すると、
正面にゲートがあります
海上自衛隊厚木航空基地、厚木アメリカ海軍飛行場、そこへの入口です。
この先は厚木飛行場の滑走路が横切り、基地の施設で街道の道すじは消滅しています。
基地の北側を迂回します。県道が突然北へ折れていたのも基地を避けるためです。
県道40号もそちらを迂回してます
P-1哨戒機が飛んでます。
こちらも着陸態勢のP-1哨戒機(海上自衛隊)、滑走路間近から
戦闘機よりはうるさくないです…
航空燃料の運搬などに使われていたそうです。架線や支柱などはまだメンテナンスしてるんじゃないかと思うほどしっかりしてました。
基地との境界付近(綾瀬市蓼川1丁目)
基地内で消滅していた道筋はこの付近でいったん基地の外へ出てくるのですが、また左側フェンスの向こうへ入っていました。痕跡が残ってないので詳細はわかりませんが。現在フェンスの向こうは基地のゴルフ場です。
さらに西側の厚木基地正門付近
ここは手前の道路が厚木街道の古い道すじに一致しています。
この先は再び(はっきりしない区間もありますが)、街道沿いに歩くことができます。
少し先で東名高速を大上橋で渡ります。渡った先の道路は再び県道40号、厚木街道のようです。
県道40号綾北小学校前交差点近くから
この付近も新しい県道はほぼ直線で続きますが、旧道はこれに絡むように左右にカーブしています。
旧道側が歩ける場所はそちらをトレースします。
でも何だか殺風景ですね(綾瀬市寺尾本町1丁目)
言い訳ですが、残暑の厳しい日でした。ここまで20㎞以上歩いて、もう虚ろなのです。
綾瀬市立天台小学校の南側から西側へぬけ、左折して坂をおります。
工場地帯へ下りる坂道が旧道
この付近、明治39年測図の地理院地図では街道はあちこちを左折、右折しています。現在も同じ道をトレースできるのでそこを忠実に進んでいますが、ここだけまっすぐです。
これを先に行くと別の街道にぶつかります。
合流直前で振り返って
綾瀬市から海老名市に入りました。
合流地点の小さな広場です
歩いてきたのは左端に止まれ標識がちょっと見えている道です。右側は、国道246号の旧旧道というか、個人的には青山通り大山道、矢倉沢往還として歩いた道です。バス停左、木の陰になってしまいましたが、大山道の不動明王像を載せた道標があります。
この中に少し記述してます。
↑では「ここは大山道に左から別の道(神奈川道?)が合流…」なんて書いてますね。
この先に行くと相模国分寺跡、海老名市街を通過して相模川に出て、渡ると厚木、厚木街道としては目的地、終着点となります。
当初はもっと先まで歩くつもりだったのですが、この日の暑さで参ってしまいました。この先は大山道のときに歩いたということで、ここまで。
バス停あってもバスは当分来ず、最寄りの駅まで何とか歩いて無事に帰ることができました。