今回はシンプルに歩いた記録を淡々と。
スタートは大山登山の玄関口でもある伊勢原から
まず山のある北方向へ歩きます。
でも山登りはしません。
〈駅前周辺の風景、そこからの山景色、記録忘れました〉
しばらく歩いてある路地から
とある家の前から、咲き始めの紅梅、そして火の見やぐら、前の建物は農家の作物集荷所でしょうか。
耕雲寺という寺院の門前
この2枚はまだ伊勢原の住宅地域内から。単なるスナップショットであります。
東名高速を北側へ越えて
大山方面を畑ごしに
撮る方角を変えて
最近このあたり開通したばかりの新東名など
伊勢原大山IC近くになります。(左背後あたり)
新しい道路やその建設現場を市内あちこちで見かけます。〈なんでこんな一気に道路増やしてるのだろう?〉
こちらは交差点左右が県道603号西富岡バイパス建設工事中の
日向薬師入口交差点
日向(ひなた)薬師はここ何年か自分が初詣に行っているお寺ですが、入口と言ってもここからはまだ遠いと思います。〈車ならすぐ、ということか..〉
野原、のようなところから2枚(伊勢原市西富岡あたり)
こちらは田んぼから(伊勢原市日向)
振り向くと『水車小屋』の看板、解説があったのですが、肝心の水車が壊れてしまったようで小屋だけ放置。
汚れた小屋だけ見ても切ないので先へ
菜の花と
この一帯『実蒔原(さねまきばら)古戦場』だそうです
解説があったのでちょっと長いけど
伊勢原市指定史跡 実蒔原古戦場
文明18年(1486)7月26日、太田道灌が相模国糟屋(伊勢原市)にあった、主君扇谷上杉定正の館で謀殺されました。道灌没後、山内上杉氏と扇谷上杉氏の間に対立が生じ、ついに長享元年(1487)戦端が開かれました。長享の乱の勃発です。
相模や武蔵国内などで両者の抗争が続く中、長享2年2月5日、扇谷上杉氏の本拠地糟屋を押さえようと武州鉢形城(埼玉県寄居町)から出兵した山内上杉顕定は、軍兵一千余騎をもって押し寄せました。
山内勢は糟屋の背後に当たる定正の弟、朝昌が守る七沢城(厚木市七沢)を攻め、城は落城しました。
これに対して、定正は手兵二百騎余で河越城(埼玉県川越市)から駆けつけ、両軍は実蒔原で激突しました。実蒔の地形を熟知していた扇谷勢は、寡兵にもかかわらず、山内勢を打ち破りました。
定正は後にこの合戦のことを「二度と学ぶべからざる行い」(上杉定正状)と述べています。
山内勢の中には太田道灌の実子・資康がいました。
なお、従来朝昌は七沢城落城時に討死したようにいわれていましたが、後に大庭城(藤沢市)を守護するようになりました。
平成22年3月 伊勢原市教育委員会
古戦場跡からちょっとした丘をこえると厚木市へ。
古そうな「消火栓」の標柱
下のマークは厚木市章〈この付近が厚木市となったのは1955年、なのでそれ以降にたてられたものですね〉
梅の花(Ⅰ)
(Ⅱ)は「森の里」近くのお寺から
森の里は1980年頃に開発された、いわゆるニュータウンです。
同じく森の里・若宮公園から
再びのどかな里をしばらく歩いてゆき
小さな流れの合流(厚木市上古沢)
飯山白山森林公園へようこそ(厚木市飯山)
あの看板の下を通り赤い橋を渡ってこちらへ出てから撮りました。〈看板裏側は「飯山白山森林公園へまたどうぞ」〉
手前道路交差点名は「飯山観音入口」、看板奥へまっすぐ行くと長谷寺、通称飯山観音があります。〈この日は立ち寄ってません〉
こちらも厚木市飯山から
北西の方向
あちら方向へ進むとどんどん山奥へ入っていきます。
厚木の飯山から荻野へひとつ起伏をこえて歩き
広町公園周辺(厚木市中荻野)
こちらは荻野川近くにある小さな公園です。
白梅、青空、荻野川
田んぼ(Ⅰ)(厚木市下荻野)
田んぼ(Ⅱ)(厚木市三田)
田んぼがあるということは土地が平坦で水が豊富ということです。
Ⅱの近くには中津川が流れています。
中津川大橋を背に
道路延長工事中。〈どこまで伸ばすのでしょうね?〉
中津川大橋上から
橋上からそのまま同じ道路を東へ、またひとつ起伏をこえた先
相模川に近づいて先がひらけてきます
横切る道路は圏央道、遠くは相模野台地座間丘陵。圏央道の先、道路に沿って相模川があります。
相模川・座架依橋を渡り終わったところでふり返り
橋の上は強風で何もできなかったのです。
「座架依橋(ざかえばし)」とは『座間』と厚木市『依知(えち)』の間に架かる橋ということですね。
橋を渡って座間市に入りました。
この日最後の田んぼ(座間市座間)
座間丘陵へあがる道
この上に座間駅があるのです。
駅前
ここまで。
歩いた距離は約24㎞となりました。