鎌倉街道を歩く 下道その1 鎌倉から蒔田

鎌倉街道は上道(かみつみち、かみのみち)を鎌倉から嵐山(らんざん)、中道(なかつみち、なかのみち)を鎌倉から川口と歩いてきた。これから下道(しもつみち、しものみち)を新たに歩くことにする。

下道は3つのルートの中で一番東側を通る。参考にさせてもらっている資料の記述によれば、現在の神奈川県、東京都内の主な通過点は次のとおり。

鎌倉ー朝比奈ー金沢ー笹下ー蒔田ー帷子(保土ヶ谷)ー菊名ー駒林(綱島)ー中原ー小杉ー丸子ー大井ー高縄(高輪)ー愛宕ー芝崎(現在の皇居前)ー高橋(現在の常盤橋付近)ー浅草ー橋場ー堀切ー青戸ー金町

金町から先は松戸、その先常陸を経て磐城へと通じていた。また、隅田川を渡った先で分かれ、立石、小岩などを経て下総方面へ通じる道があり、これらが下道の主なものである。それ以外にいくつもの枝道が存在していたのは上道、中道と同様である。

まず下道その1は鎌倉、鶴岡八幡宮三の鳥居前からスタート、現在の横浜市南区蒔田(まいた)までを目標に歩いてみた。

下道その1・行程

アプローチはJR横須賀線鎌倉駅

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今回も八幡宮二の鳥居から段葛を通り、スタート地点と決めている三の鳥居前へ。
鳥居をくぐり、境内を横切る流鏑馬道を右に折れる。

八幡宮境内

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右折した流鏑馬道の途中には幼稚園もある。
つるがおかようちえん園バスなど

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八幡宮東門を出ると目の前に「畠山重忠邸址」の石碑

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碑文の”文字”が判別難しくて正しく文字起こしできず。→強引にやってから手直ししてみた、正確とは言えないけど以下へ差し込み。

正治元年五月賴朝ノ女三幡姫疾ミ之ヲ治センガ爲當世ノ名醫丹波時長京都ヨリ來レル事アリ東鑑ニ曰ク七日時長掃部頭親能ガ龜ヶ谷ノ家ヨリ畠山次郎重忠ガ南御門ノ宅ニ移住ス是近々ニ候ゼシメ姫君ノ御病悩ヲ療治シ奉ランガ爲ナリト此ノ地即チ其ノ南御門ノ宅ノ蹟ナリ
大正十二年三月 鎌倉町青年團建

すぐに金沢街道(県道204号)に出て「岐れ路」から分岐する道の奥には鎌倉宮が見え、次の大倉の辻の分岐には関取場跡の石碑。こちらも碑文は重忠邸址レベルのためか、すぐ横に子供が書いたと思われる解説が掲示されている。そちらを文字起こし。

関取場跡石碑について
このあたりに戦国時代小田原城にいた北条氏康が関所をおき、ここを通る商人やお参りの人から関銭(交通税)をとり、荏柄天神社の社殿を造る費用などにあてたそうです。荏柄天神社に伝わる古文書には、そのころの掟書が残っており、「商人の麻・紙・布などの荷物は十文、あい物(乾物)馬五文背負い荷三文、お参りの人で馬を利用している場合は十文、単に行き来をしている僧侶や庶民、里民からは関銭をとってはいけないなどと記されています。

すぐに荏柄天神社参道入口があり、それから杉本観音(杉本寺)に至る。
杉本寺の前から

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杉本寺(すぎもとでら)
鎌倉幕府が成立する五〇〇年も前の奈良時代(八世紀)に、行基が開いたと伝える鎌倉最古の寺です。行基奈良の大仏造営への貢献や貧民救済の社会事業などで知られています。その後、光明皇后の寄進で本堂が建てられたと言われています。本尊の十一面観音像三体は、国または市指定の重要文化財で、うち一体は行基の作とされています。坂東三十三観音霊場の第一番札所で、八月十日の縁日は参拝者でにぎわいます。

その先の金沢街道沿道には、報国寺浄妙寺、松久禅寺、足利公方屋敷跡、明王院、光触寺などと続き、十二所神社手前まで来ると、そこからは旧道へと入る。

朝夷奈切通へつながる旧道の上左側に庚申塔など

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なんであんな高いところに。まわりを観察してみると道路右奥側も小高くなっていた。庚申塔を建てた後に道を削って切通しのようにしたらしい。昔はあの高さまで、堤を上がってまた下がるような道だったのではないかと推測。

切通し手前の大刀洗川

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右側の道を奥へ上がっていく。

朝夷奈切通し十二所側入口付近、三郎の滝

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ここから切通し道を上がっていく。表記は朝比奈、朝夷奈の二通りあるが、切通しは「朝夷奈」としておく。

上りの途中

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解説板から。

国指定史跡 朝夷奈切通(あさいなきりどおし)
朝夷奈切通は、いわゆる鎌倉七口の一つに数えられる切通で、横浜市金沢区六浦へと通じる古道(現在の県道金沢・鎌倉線の前身)です。鎌倉時代の六浦は、鎌倉の外港として都市鎌倉を支える重要拠点でした。
吾妻鏡』には仁治2年(1241)に、幕府執権であった北条泰時の指揮のもと、六浦道の工事が行われた記事があり、これが造られた時期と考えられています。
その後、朝夷奈切通は何度も改修を受けて現代にいたっています。丘陵部に残る大規模な切岸(人工的な崖)は切通道の構造を良く示しており、周辺に残るやぐら(鎌倉時代頃の墓所)群・切岸・平場や納骨堂跡などの遺構と共に、中世都市の周縁部の雰囲気を良好に伝えています。
平成21年3月 鎌倉市教育委員会

”峠”付近

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切通し道の一番高いところが横浜市鎌倉市の境界になっている。左の石標は市境界標。この方向は向こうが鎌倉市側。

この先は横浜市側の切通し道に沿って。

やぐら跡

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典型的な切通し道

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朝夷奈切通は、最後に横浜横須賀道路の高架の下をくぐり、いくつかの石仏が並ぶ崖から一般道に出て終わる。その付近は横浜市金沢区”朝比奈”町と表記される。
その道路は神奈川県道23号で、元の鎌倉街道下道、のちの金沢街道を踏襲して国道16号六浦交差点まで進む。

県道23号六浦2号橋から侍従川(じじゅうがわ)下流側を望む

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向こうの橋が旧街道が通る道になる。

六浦交差点近くにある上行寺(じょうぎょうじ)

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茅葺きの山門があり、それをくぐったところ。上行寺は日蓮宗寺院で応安年間(1368~1375)の創建。改宗以前は弘法大師開創の真言宗金勝寺であったといわれる。
鎌倉時代には門前一帯は湊、鎌倉の外港、六浦津が広がっていたという。

六浦交差点で国道16号に出て、工事中の京急金沢八景駅前を通過、その先には瀬戸神社。

瀬戸神社拝殿など

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瀬戸神社
中世都市鎌倉の外港として栄えていた武蔵国六浦庄における中心的な神社。平潟湾と瀬戸入海をつなぐ潮流の速い海峡を望む地点に、古代から海の神としてまつられたと推定されますが、社伝では治承四年(一一八〇)に源頼朝が伊豆三島明神三島市三嶋大社)を勧請したのが起源とされています。
また、境内正面より平潟湾へのびる突堤の先端部にまつられている弁天社(琵琶島神社)は頼朝の夫人北条政子が琵琶湖の竹生島から勧請したものと伝えられています。

神社前の解説板から。

ここで国道16号から東側へ折れ、瀬戸橋で宮川を渡ると明治憲法草創之地という大きな碑を見る。1887(明治20)年に伊藤博文らが明治憲法の草案を起草したところ(近くに伊藤博文の別荘があった)。まあ、鎌倉街道とはあまり関連ないが。

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そこを北に曲がると洲崎神社、龍華寺、その先には金沢八幡神社などがあり、この一帯が古くから栄えていた”金沢”の中心である。

龍華寺

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町中心部の奥に位置するのが称名寺金沢文庫である。金沢八幡神社横から分かれる道はまっすぐ称名寺に向かっていく。
金沢八幡神社鳥居と右は称名寺へ向かう道

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本来ならば寄り道してでも行くべきかもしれないが、称名寺金沢文庫は昨年9月に訪問していたので今回は街道を左へそのまま進む。
1枚だけそのときの記録を。称名寺から

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君ヶ崎交差点で再び国道16号に出て、それからまた少しだけ旧道を北へ、すぐまた国道に合流してすぐに左折して京急線の踏切を渡る。このへんあわただしいが、この後はしばらくのどかなハイキングコースをたどることになる。

京急線踏切

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国道16号からこの踏切方向へ折れる場所がわかりにくいかもしれない。

踏切を渡った先にあった庚申塔など

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細い道だが、こういうものがあるということは古い道であることの証明になる。

六国峠入口の標識に従って現在はハイキングコースとなっている道に入り、急な坂を上がって尾根の高台に出ると能見堂(のうけんどう)跡に達する。
能見堂跡へ向かう道

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能見堂は擲筆山(てきひつざん)地蔵院のあった跡で、15世紀にはすでに廃絶、その後再建されたが明治2年に焼失してそれきりになっている。付近は現在緑地、公園となっているが、いくつかの石碑など以外には何も残っていない。
また、能見とは風景が見渡せるという意味があり、金沢八景根源之地という碑がここにある。

能見堂緑地周辺から南方向を望む

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現在はどこを見渡しても住宅地。

ハイキングコースになっている旧道跡をもうしばらく先へ進むが、途中で折れて階段を上り、京急バス能見台車庫前を目指す。
この階段で右折する地点が見つけにくい。バス車庫前と書かれた標識が頼りとなる。

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こちらの階段はハイキングコースから外れる道となるが、旧道跡はそちらへ曲がっていたようである。ちなみにそのまま行くと、標識にあるが鎌倉天園へとつながっている。ぐるりと回ってまた鎌倉へ戻ってしまう。

バス車庫前へ出ると北方向へ尾根筋っぽい場所を進み、能見台北公園を縦断、氷取沢高校東側の歩道から階段を上がってからすぐに一般道の坂道を下る。大規模な造成を行った住宅地で旧道は残っていないが、道筋はだいたいこのとおりらしい。

尾根から下る手前で東側

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住宅地の中を笹下川(ささげがわ)が流れる付近まで坂道を下りていく。

横浜市金沢区から磯子区になり、尾根筋の道から崖下の道に変化してまた古い道が復活する。一方が崖、反対側は笹下川というその間を歩いて行く。

崖と川の間を通る(磯子区上中里町)

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笹下釜利谷道路に出てJR根岸線を渡る

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時々笹下釜利谷道路という現代の広い道に吸収されたり、また分かれたりしながら行くこの旧道は、鎌倉街道下道でもあるが「かねさわ道」と呼ばれていて所々に地図、写真入りの解説板がたてられていた。
かねさわ道解説板のあるところ(磯子区栗木1丁目)

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解説板から文字部分のみ。

かねさわ道
JR保土ヶ谷駅の南側を踏切で越える道路がありますが、宿場の中ほどで東海道から分かれ横浜南部の丘や大岡川、笹下川流域経由で氷取沢・能見台・六浦に通じている古道「かねさわ道」です。分岐点のあたりは「金沢横丁」と呼ばれて四基の道標が立ち、「是よりえんかいさんみち」「是よりかなざわかまくら道」「程ヶ谷の枝道曲がれ梅之花、これより杉田道」「ほうそう守神富岡山芋大明神江之道」と記されています。江戸時代には峰護念寺のお灸、杉田妙法寺一帯の梅林、富岡のほうそう(天然痘)に霊験あらたかとされた芋神さまや、鎌倉・江ノ島の名所を遊覧する人々でこの道が賑わいました。また黒船来航で騒然としたころは江戸と三浦半島との間で飛脚や沿岸防備の武士が頻繁に往来しました。
古道のほとりには庚申塔や道標があちこちに見られます。都市化で保土ヶ谷区や南区の部分は道筋がはっきりしなくなりましたが、磯子区内には古道がかなり残され今でも落ち着いた風情を漂わせています。

六浦(金沢八景)付近からこれから通る保土ヶ谷までは下道とかねさわ道は重複しているのである。

その古いかねさわ道も港南区笹下3丁目付近の新川橋交差点から北は笹下釜利谷道路に完全吸収されてしまう。
笹下1丁目付近の笹下釜利谷道路

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標識を見るとこの先350mで交差する道路が鎌倉街道だが、これは現在の県道21号横浜鎌倉線の通称であって笹下から鎌倉に向ってはそれほど古い道ではない(鎌倉市内では若宮大路などを構成しているが)。
鎌倉街道との交差点は関ノ下、中世には近くにあった笹下城主が管理する関取場があって通行料を徴収していたという。案外昔はあちこちに関取場(関所)があって、旅人にとって街道というのは一種の有料道路だったのかもしれないなんて思った。

関ノ下交差点で”鎌倉街道”を越えると上大岡の繁華街に入っていくが、道路は一方通行、メインストリートの1本裏道になる。上大岡のメインストリートは現鎌倉街道(県道21号)である。
京急上大岡駅近くの旧道

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この先でいったん現代の鎌倉街道(県道21号)に合流して、最戸橋交差点でまた分岐する。分岐点に旧鎌倉街道の標識があるとのことだったが見つからなかった。

旧道に入って(南区大岡5丁目)

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旧道とは言え現代の普通の道路ではある。

その道も南警察署手前、旧道入口交差点で県道21号に合流する。
旧道入口交差点

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県道を少し先へ行って、
弘明寺商店街アーケードをのぞき込む

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アーケードを奥に真っ直ぐ行くと弘明寺(ぐみょうじ)門前に出る。つまりここは参道である。

弘明寺については、横浜市内では最古級の寺院で、創建は737(天平9)年、行基によって開基とある。また鎌倉の杉本寺を一番札所とする坂東三十三箇所音霊場の十四番札所ともなっている。古い道しるべには”弘明寺道”と書かれたものも周辺には多くあり、古くから賑わっていた。

こちらは県道をさらに進む。南区宮元町4丁目まで来て、交差点を直進すれば横浜市営地下鉄蒔田駅というところで左折すると蒔田橋。
蒔田橋手前で

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下を流れるのは大岡川。笹下川の下流部にあたり、実はこの川沿いにずっとここまで歩いていたのである。

川を渡って北へ進み、平戸桜木道路・南センター入口交差点にぶつかったところでこの日の行程を終了とした。住所的にはこのあたり、南区南太田、井土ケ谷下町となっているが、一応古くからある地名の蒔田までとする。

このあと近くに京急線が見えたので井土ヶ谷駅へ向かった。
京急線井土ヶ谷駅

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その1ここまで。