鎌倉街道下道(しもつみち)を歩く2回目の行程は、現在の横浜市南区蒔田付近から川崎市中原区新丸子付近まで。おもな途中経路は以下のとおり。
蒔田→帷子(保土ヶ谷)→片倉→篠原→菊名→駒林→中原→小杉→丸子
鎌倉街道下道2・行程
前回離脱点の蒔田、現在の表記では横浜市南区南太田2丁目となる場所へ向かう。
アプローチは京急線井土ヶ谷駅から
街道の道筋に出るとすぐに急な坂を登り、清水ヶ丘公園の西側に出る。
清水ヶ丘に向かう坂道
公園を横に見て首都高速狩場線を陸橋で越える。丘の上をしばらく行くと清風高校手前に北向地蔵がある。
北向地蔵
お地蔵様は道標になっている柱の上に鎮座していて、2メートル以上の高さがある。
解説板から一部抜粋
北向地蔵は、僧三譽伝入(さんよでんにゅう)が享保二年(一七一七)に、天下泰平・国土安全を祈念するとともに旅人の道中安全を祈願して建立したものです。この場所は東海道の保土ヶ谷宿の通称金沢横町から分岐した金沢・浦賀往還への途中に所在するため、角柱には「是より左の方かなさわ道」「是より右の方くめう寺道」と刻まれ、金沢方面と弘明寺方面への道案内も兼ねています。
かなさわ道は、前回歩いてきた六浦、金沢付近からこの先保土ヶ谷までの鎌倉街道下道と重複した道である。くめう寺道はかなさわ道にここで直交する道で、弘明寺を経て日限山(現在の横浜市港南区日限山(ひぎりやま))で鎌倉街道中道と合流していた。
ここの交差点を直進して高校前を通り過ぎると今度は急な下り坂、石難坂(いわなざか)となる。
その途中に「御所の井戸」が保存されている
源頼朝の妻北条政子が通りかかった時、化粧にこの水を使ったという伝承から「政子の井戸」とも言われているそうだ。
井戸を過ぎるとすぐに国道1号と東海道線を渡る。その先で旧東海道の道筋にぶつかり、その交差点が保土ヶ谷宿の金沢横町といわれる場所である。ここには古い道しるべが4つ立っていたのだが、今回通りかかったときは横のマンション建設工事で消えてなくなっていた。まさか撤去してしまったとも思えないのだが、今後どうなるのだろう。
2016年11月に撮った写真を埋込み
このときは更地だ。
旧東海道との交差地点で直進して先へ行く道がGoogleマップなどではかなざわかまくら道と記されているが、参考資料の記述による鎌倉街道下道は、旧東海道の裏へ回り込み、台地の崖下を旧東海道とほぼ並行に通っていたとある。明治時代の古地図を見ると、かなざわかまくら道としている道路はその当時存在していない。参考資料の記述に沿って辿っていく。
こちらが古道とされる道
旧東海道程ヶ谷宿の裏通り、といった道筋になり、実際に古町通りと呼ばれていたそうである。宿場界隈に多い神社寺院の門の前をいくつも通る。この写真に写っているものはちょっと違う宗教だが。
古道前に門のあった大蓮寺
その先へ進むと、保土ヶ谷神明社近くの神明社前交差点脇に、新しい石標だが、「古東海道」「相州道」と刻まれた道標と石仏などが収められた祠があった。
さらに高架化工事中の相鉄線を越えると帷子川(かたびらがわ)。
帷子川、古町橋から
そして横浜水道みち、八王子街道(国道16号)とさらに道路を交差して、保土ヶ谷区宮田町2丁目に入るとこれまで来た道を左折、再び丘の上にあがる急坂となる。
宮田町2丁目の長い急坂
上に見える住宅がある尾根部分まで急坂が続く。
上がると景色はいい。
西側
東側
途中で細い道に折れ、そのまま進むと三ッ沢公園に入る。
三ッ沢公園手前で
陸上競技場の横をすり抜け、横浜市民病院から細い道に入り、第三京浜の陸橋を渡って今度は下り坂。ここの短い区間は旧道だそうだ。
その坂を下りたところが三ッ沢公園入口交差点で、横切るのは国道1号。
三ッ沢公園入口交差点陸橋から
広い道路を渡るとまた細い道が分岐したようになっていて、そこは旧道の続きになる。また上り坂になって片倉という地域へ。
住宅地や団地をしばらく進むと、横浜市内では珍しく広い畑が現れた。
横浜市神奈川区神大寺(かんだいじ)4丁目付近
その先で通称”水道道”道路に合流すると、左側一帯は岸根公園。
岸根公園の芝生広場
公園の先、水道道西岸根交差点からまた上りになり、武相台というところで鋭角に左折、さらに坂をあがりきるとまた尾根道になり、古道の名残。
前方の林は篠原八幡神社境内
神社境内からは新横浜方面の眺望が良かった。この付近の地名も篠原。
そこを過ぎると台地の稜線に沿って下って行き、一番下まで行くと旧道はJR横浜線菊名駅下をくぐりぬけてから東急東横線菊名駅構内を横切っていた。
JR菊名駅付近
東急線は駅西口から東口に通路を抜けて通過、駅前のせまい商店街と綱島街道を越えると、北へ向かってまた旧道が続く。
港北区役所前などを通過して先へすすむ。
港北区大豆戸町付近の旧道
ここの地名、「大豆戸」と書くが読み方は「まめど」。”大豆(だいず)”が”まめ”の代表ということなのか?
この少し先で旧道は綱島街道(神奈川県道2号)に吸収されるが、大曾根交差点先でまた分かれ、鶴見川を渡る大綱橋手前で合流する。
大綱橋南側から
鎌倉時代はわからないが、1405(応永12)年にこの場所に橋が架けられた記録があるそうだ。
大綱橋を渡ってすぐ先の綱島交差点を左折し、綱島の商店街の中を進む。県道にも指定されて交通量も多いが細い道を1キロ弱行き、信号のある交差点を右折する。
その道が左に曲がって綱島郵便局角に出る手前に茅葺きの門がある。
飯田家住宅表門
この長屋門の奥には母屋も残されていて、あわせて横浜市の有形文化財となっている。飯田家は旧北綱島村の代々名主を勤めていたとのこと。
郵便局横の交差点を直進すると真っ直ぐな道が伸びている。旧道そのものではないそうだが、道筋はほぼ踏襲している。
現在はUR団地横を通り、横浜市営地下鉄日吉本町駅前で突き当たる。そのあたりの古い地名が「駒林」という。付近に駒林神社、金蔵寺などの神社寺院がいくつも残っていて、古くから人の活動があった場所と分かる。
この向こうへ旧道の道筋がはっきりしなかったので、奥の林の方を通って行ったが、道はこの小高い場所を右から巻くようにして向こう側へ出ていたかもしれない。いずれにしてもこの付近は道筋が消滅している。
その次の丘へまた上がると港北区下田町というところ。ここは尾根筋を行かず、向こう側へすぐに下りる。下りると松の川緑道(松の川を暗渠とした上の遊歩道)とぶつかるが、そこに
鎌倉街道の石碑
古くは松の川に駒ヶ橋が架かっていた場所だそうで、近くのバス停は駒ヶ橋。
そこからもう一丁北側の丘へ上がると、その尾根筋の道路に沿って現在の横浜市と川崎市の境界が通っている。
市境界付近、通称「井田山」の上
現在は新しい住宅が立ち並ぶが、少し前まで新日鉄の敷地で研究所などがあった。
そこをさらに北へ進むと丘から下りるところは蟹ヶ谷という、狭く深い谷間。
現在は建物でほぼ埋め尽くされている
こういう場所は古代から人が生活、活動していた場所で、貝塚や住居跡がよく発見発掘されたりする。この付近の丘の上も蟹ヶ谷古墳群という3基の古墳が見つかっている。
最初見失った細い階段で下へおりると道路角に祠が2つある。
道路両側に地蔵堂、庚申塔
奥の道をここへ下りてきた。階段を下りているときはここが古道跡とは思えなかったが、こういうものがあるとはっきりする。
ここを写真左手へ曲がり、その道なりに進む。
すぐに矢上川を渡る(川崎市高津区明津)
黄色い幟の向こうに少しだけ見えるのが神庭緑地という、古墳群のある丘になる。下りてきたここから北側は多摩川の氾濫原になり、しばらく大きな坂道や台地はない。(やれやれ)
さらに進むと矢上川の支流、暗渠になった江川を越える。
小関橋跡の石碑と伸びているのは古道跡ではなく川筋
この川が川崎市高津区と中原区の境界になっていて、ここから中原区下小田中。
このあたりからの古道のルートははっきりしないということであるが、この先にある大戸神社付近で現在の中原街道に合流していたと推測されている。
旧道ではないが、大戸神社を目指してすすむ(中原区下小田中2丁目付近)
大戸神社鳥居前
このすぐ後ろに中原街道が左右に通る。中原街道は古代の官道であり、非常に古くからある道である。神社前で中原街道に入り、今度はこの道を進む。
すぐにJR南武線武蔵中原駅の下を横切り、このまま丸子橋を目指す。
このすぐ先は泉澤寺、二ヶ領用水、府中街道(国道409号)と続く。
泉澤寺
1491(延徳3)年、武蔵国多摩郡烏山(現・世田谷区)に吉良氏菩提寺として創建、1549(天文18)年堂宇焼失のため、翌年世田谷領主吉良頼康がこの場所に新しく建立した、と解説板にあった。
府中街道を越えると小杉であるが、中原街道の道幅が狭まり、大きなクランク(カギ道とも呼ばれるそう)もあってとても歩きにくい。
細くなった中原街道とクランクを示す標識
この鉤型の折れ曲がりは街道宿場や城下町などによくあり、敵に容易に攻め込まれないためにつくられるが、ここは近くにあった徳川家の「小杉御殿」防御のためというのが通説。これがなぜか現代まで残っているのだが、さすがに直線化工事の計画があって、一応用地取得中とのこと。
本来は中原街道のこのクランクを通過して進むのだが、歩道もなく車の通行量も多いので1本裏の道を歩かせてもらう。
中原街道ではありません
丸子橋までは行かず、下道その2はここまで。次は多摩川を越えて都心へ。