散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

鎌倉街道を歩く 下道その4 大手町から松戸

鎌倉街道下道(しもつみち)を歩く、4回目の行程は現在の東京都千代田区大手町から千葉県松戸市松戸まで。
主な通過点は

芝崎(大手町)ー浅草橋ー浅草ー橋場ー墨田ー堀切ー青戸ー金町ー松戸

足あと(鎌倉街道下道4)

前回、下道その3

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アプローチは東京メトロ都営地下鉄大手町駅

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大手町駅と書いてある出入口の前にいても、自分がどこにいるのか正確にわからない大手町。なぜかGPSの位置情報もこのあたり乱れやすいし。ちょっとした魔界である。
そんなことはどうでもいいとして、まず前回の離脱ポイントへ向かい、そこから常盤橋へ行く道を把握しなければ。

日比谷通りを読売新聞本社前で右折、予定の軌道に打ち上げ成功。

JR線路たくさんの高架下をくぐって振り返る

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すぐに常盤橋

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常盤橋の下を流れるのは日本橋川
この川は中世に様々な工事が行われ、都度流路が変更されている。鎌倉時代ここに川が流れていたかはっきりしていない。ただ、この南側には広く日比谷入江の海が食い込んでいたことがわかっており、現在の常盤橋付近は海岸線ぎりぎりだったと推測されている。

向こう側にクレーンが写っているところには「常磐橋」(般の下が石)、1877(明治10)年に架けられた都内でもっとも古い石橋、があったが、東日本大震災で被災し、修復工事が行われている最中だ。

常盤橋を渡って日本橋本石町、日銀本店前を通る。重厚で威厳ある建物の前面は工事中で姿が見られず。
東側の側面

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この歩道を前方に行き、次の角を右に曲がって室町3丁目南の交差点へ。そこを直進すると旧日光街道水戸街道の道筋になる。

中世の頃、現在の大手町付近から浅草方面へは南や東側がすぐに海岸、北側も広く湿地や沼地で、その間にあったわずかな微高地に道を通したという。はじめは細いたんぼのあぜ道のような街道だったのだろう。
日光街道などは江戸時代以降の呼び名だが、この付近は中世に開かれた道筋を転用、再整備したものだ。新しく道を整備するほど土地に余裕がなかっただろう。

横山町問屋街

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大伝馬町、小伝馬町と過ぎ、横山町へ。さらに浅草橋交差点から江戸通り、現在の国道6号に合流して蔵前、駒形、浅草と進む。

駒形2丁目交差点から

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駒形堂

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駒形堂は浅草寺の伽藍のひとつで、浅草寺御本尊の聖観世音菩薩が隅田川から発見された場所である。時は628年、1400年ほど前とのこと。現在の駒形堂の後ろは隅田川、駒形橋が架かる。
また浅草寺も、鎌倉時代にはすでにかなり大きな寺になっており、浅草周辺も規模の大きな集落(というか町)が形成されていたようだ。

浅草、吾妻橋交差点から

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街道は正面浅草松屋ビルの右側へ。

地下鉄出入口

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その向こうに赤い吾妻橋が見える。

もう少し行くと
言問橋西交差点

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横切っている道路を右へ行くと言問橋で、現在の国道6号はここで右に折れ、橋を渡って行く。正面左は旧日光街道の道筋となり、正面右が下道の道筋になる。

隅田公園を右に見ながら行くと
待乳山聖天(まつちやましょうでん)

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別位置から本堂を望む

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本堂は待乳山の小高い丘のうえにあり、この付近は周囲より標高が少し高くなっている。盛り土ではなく、自然の台地が浸食されながらも少しだけ残った場所らしい。標高が高いといっても約10m。

待乳山の北隣りには今戸橋跡

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かつて山谷堀(さんやぼり)の水路がここを通っており、その橋の跡。1926(大正15)年に架けられた橋の親柱と欄干が残されている。
山谷堀は江戸時代には吉原遊郭への客を乗せた舟が行き来していた。現在堀はすべて埋め立てられているが一部が公園として整備されている。

道路反対側の今戸橋欄干など

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山谷堀跡を過ぎると台東区今戸、橋場と進み、白鬚橋(しらひげばし)にさしかかる。

今回は隅田川を歩いたときと相前後して歩いている。白鬚橋が工事中で姿が見られないのは分かっている。

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隅田川を歩いた時にこの橋は渡らなかったが、今回は渡る。

工事中の白鬚橋西詰から

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白鬚橋の上から隅田川

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この付近には「橋場の渡し」があった。古代から官道が通っていたため、相当古くから渡船があったという。

現在は白鬚橋を渡り、すぐに左折して都営白鬚東アパート群手前の東白鬚公園の中を通る。
公園と隅田川の間には隅田川神社と木母寺(もくぼじ)がある。

隅田川神社鳥居前

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神社付近は古代官道が通っていた頃からの隅田宿跡で、その鎮守が隅田川神社であった。
近くにあった解説板から

隅田宿跡
当地は古東海道の渡河地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。
隅田宿は、治承四年(一一八〇)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(『吾妻鏡』)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北朝時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという十三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています(『夫木和歌抄』)。
また、室町時代成立の『義経記』には「墨田の渡り両所」と見え、隅田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえます。
なお、人買にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一ツ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。
平成二十五年三月 墨田区教育委員会

隅田川神社も源頼朝挙兵の1180(治承4)年、社殿を造営とある。

木母寺の梅若念仏堂(ガラスの中)

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「木母寺は平安時代中期の貞元2年(977)天台宗の僧、忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために建てられた念仏堂が起源で、梅若寺と名づけて開かれました。」寺のホームページから。

東白鬚公園と都営白鬚東アパートなど

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アパートというか団地は、10棟以上ある建物がすべて連結されていて、都の防火拠点、防火壁となっている。結構壮観。団地東側の木造住宅密集地を大震災時の火災から守る役割があるのだという。

その団地東側に出ていくと、この日はじめて古い道を歩いていると感じられる道路を通る。
墨田区墨田5丁目付近

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こんな古い建物もところどころに残る

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茅葺きの多聞寺山門

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18世紀頃につくられたとされる古い門である。

多聞寺を過ぎるとすぐに東武線線路、その向こうは荒川の堤防が続く。どちらも明治以降に造られたものであり、下道の旧道は荒川、綾瀬川の向こうまで消滅している。
東武線と荒川堤防

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左正面奥へ行く道を迂回し、堀切橋を渡って荒川、堀切小橋を渡って綾瀬川の向こう側へ出る。

堀切橋、渡ってから振り返り

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堀切小橋(青い橋)

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上は首都高速6号向島線・中央環状線JCT

荒川、綾瀬川を渡ると葛飾区。
長い直線道路を進む(葛飾区堀切3丁目付近)

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ただしこの道が鎌倉街道の古道なのかははっきりしないそうだ。この近辺を通っていたことは確からしいが。

直進すると京成線お花茶屋駅近くに出て踏切を渡り、先ほどの道路の続きをまた歩く。
花茶屋の商店街と踏切

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商店街の道路も踏切を渡る道路も街道とは無関係。この真後ろへ先ほどの道路の続きがある。

少し先へ行くと国道6号が近くに寄ってくるが、その1本北側の並行する道をずっと進む。典型的な住宅街のなかの道路で、特になんということはない。

少し端折って

青戸8丁目まで来て環七通りを渡るとすぐに中川の土手に出る。
中川の土手から対岸

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かつてはこのあたりに渡し船があったそうだ。向こうに見える寺院は西念寺

ここに橋がないので少し戻り、国道6号の中川大橋を渡る。
中川大橋を渡り終える直前で、上流側

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渡ってから渡船の船着き場の先へ出るはずが道を間違え、うろうろ。広い道に出たと思ったら旧水戸街道、付近は新宿(にいじゅく)の宿場があったそうだ。

新宿の古い街道、水路跡に橋

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そこから旧水戸道となっている街道に入るところにたくさんの石仏、石碑など

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ここを正面に進んでいくと、金町駅近くに出て国道6号と合流する。

金町3丁目交差点、高架下に京成金町線踏切

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線路を右向こうへ行くと次の駅は柴又。

こちらは国道6号を歩き、JR常磐線の高架をくぐった先で斜めに分岐する道へ入る。これは旧道の名残りで、そこへ入るとすぐに葛西神社がある。

葛西神社本殿前

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創建は1185(元暦2)年、当時の上葛西、下葛西三十三郷の総鎮守として下総国香取神宮の分霊を祀ったものとされている。
神社の大鳥居の影が本殿の方へのびている。

葛西神社の後ろはすぐに江戸川。

江戸川土手に出る

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向こうの橋はJR常磐線

江戸川も当時は渡船で渡っていた。現在は葛飾橋と葛飾大橋の2つの橋が架かるあたりに渡し場があったという。また、江戸川は「太日川」「太井川」(ふといがわ)と呼ばれていた。

葛飾大橋を渡る

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左に見えるのが葛飾橋。先が工事中でシートが架かっていたのでこちらを渡ることにした。

葛飾大橋から

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葛飾橋のトラスの間に松戸の街がみえる。

橋を渡ると千葉県松戸市。しばらく歩いて行くと水戸街道松戸宿のなかに入っていく。
松戸宿の端っこあたり

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松戸宿内は古い建物もいくつか残っていて、宿場の雰囲気がなんとなく残っている。

1軒だけ残っている御菓子屋

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最初は葛西神社付近から金町へ引き返す予定だったが、松戸まで来てよかった。

街道はこの先常陸、磐城方面へつながっていたようだが、下道あるきはとりあえずここまでとする。ただ、都内大田区から大井にかけてと、墨田から千葉県市川方面へ伸びる主要な枝道があるようなのでそちらはのちほどフォローの予定。