井の頭公園から東中野までを歩いた「その1」はこっちです。
今回は東中野の万亀橋から隅田川の合流点までを歩いた、「その2」。
アプローチは諸般の事情によりあみあみの東中野駅から
坂を下って前回の離脱点、万亀橋へ(この写真は前回離脱時に撮ったもの)
中央線のガード
万亀橋から下流に向かってすすむとすぐにJR中央線のガードにぶつかる。下をくぐって
ミニせせらぎ 新宿区北新宿4丁目付近
このあたりまだ左岸が中野区、右岸が新宿区となっている。このせせらぎは小滝橋の手前、新宿区側の川岸につくられていたもの。流れる水はたぶん地下水をくみあげたものと思われる。
川岸の歩道側に出入り口をつけたおみせ。
小滝橋の下流、落合中央公園の近くにあったお店。創業大正3年、寒天、求肥、黒みつ製造卸と書いてあった、あんみつやさん。歩道側に出入り口のある店って少ないが、このおみせは周囲の桜並木ともマッチしてとてもいい雰囲気。
落合水再生センター 新宿区高田馬場3丁目付近
淡々と川は流れ、水は処理されて。ここで周辺(中野・新宿・世田谷・渋谷・杉並・豊島・練馬区の一部とのこと。かなりの量になる)の下水が集められ、処理され、その処理水が神田川に流される。
高田馬場分水路の呑口
西武新宿線下落合駅の南側に高田馬場分水路の呑口がある。大雨のときなど水量がふえると写真右側の暗渠となっている分水路側に水が流れていく。流れる先はこの付近でかつて合流していた妙正寺川になるのだろう。この付近で妙正寺川は神田川と合流していたのだが、たびたび川があふれて水害が発生したために妙正寺川の水路を変えて、神田川との合流点を高田馬場の先に変更し、さらに妙正寺川が神田川に流れ込んでいたところを逆にして、神田川の水を分水路で妙正寺川側へ逃がすという作戦をとったということである。
そんなこんなの河川の付け替えと関係するのかどうかは不明だが、川沿いの歩道はここで一旦途切れる。この先高田馬場の神高橋の下流まで川沿いに歩けないところが多い。
下の写真、田島橋から下流、清水川橋をみる(清水川橋は神田川の上流から数えてちょうど100番目の橋とのこと)。このあたり高田馬場駅に近い。
田島橋から上流側をみる。写っているのは大学の建物、ちなみに校舎間に架かっているのは橋の数にカウントされていないようだ。
この橋を渡ると高田馬場駅前に出る途中、昭和風の商店街を通る。
神高橋から上流側、西武新宿線と山手線、埼京線の高架。高田馬場駅を越えて。
高田馬場駅前をとおり、東側に出て山手線の内側に。当然ながらこのあたり人がたくさん。神高橋からまた川沿いを歩けるようになる。
源水橋から高田橋を望む。
このあたりを歩いていてちょっと意識がもうろうとしていたらしい。妙正寺川との合流点の暗渠出口は見逃すわ、高田橋から先へ渡る必要のなかった高戸橋を渡って都電といっしょに明治通りを学習院のほうへすすんでしまうわ。
間違えて都電の線路を逆方向に少しすすんでしまった。先にちょっと電車が見えているのは学習院下の停留場。
気を引き締めて川沿いに戻るってほど大げさじゃないが、戻るは戻ったけれどあの有名な面影橋も記録忘れ。
川底にみえるのは上総層群か。新宿区西早稲田1丁目
都電早稲田停留場近くの神田川の川底。明らかにコンクリート製ではない。上総層群であれば、これは関東地方の基盤をつくった地盤であり、およそ100万年前までに関東地方が海だったころに海底につもった砂と泥が固まってできた強固な地盤である。
高田馬場付近から早稲田にかけて豊島区と新宿区の境界付近をすすんできたが、このあたりから先文京区にはいる。文京区にはいると北側の目白台と神田川の低地のあいだに崖ができている。この崖線に沿って古くは大名屋敷がつくられ、その跡が公園や椿山荘などになっている。
新江戸川公園の塀
新江戸川公園はもと肥後細川家の下屋敷があったところ。敷地内に湧水があり、その水を生かした当時の雰囲気を残した庭園となっている。回遊式泉水庭園というらしい。
新江戸川公園の入口付近から庭園のなか
池があるが、水は濁っていた。大名屋敷だったころはさぞかし丁寧に手入れされてすばらしい庭だったことだろうと想像する。しかし庶民には中を伺うことすらできなかっただろう。
胸突坂(写真ではあまり急坂に見えないがけっこう勾配はきつい。)文京区目白台1丁目
崖がずっと続いているのでそこを通る道は当然坂となる、それも相当な勾配の。坂の途中からは階段となっている。
胸突坂については坂の下に文京区の案内板があった。その説明文は
目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。
坂が険しく自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍り付いた冬の日に上り下りした往時の人の苦労がしのばれる。
椿山荘に至る
関口芭蕉庵を過ぎてその隣が椿山荘。ここは元、久留里藩黒田氏の下屋敷だったところで、明治になって山縣有朋の屋敷となってこの名前がついたとのこと。いまはホテルですね。ここの庭園も見事。
江戸川公園内
公園内の崖面につくられた歩道。歩いたときが曇りだったせいか、樹木の密度のせいか見た目よりも暗く、湿った雰囲気ではあったが、都心近くでは貴重な環境だと思う。
このあたり「神田上水取水口大洗堰跡」がある。神田川はその昔、神田上水として江戸の町の上水として使われていた。その水の取り入れ口がこのあたりにあった。
徳川家康の江戸入り(天正18年-1590年)の直後、井の頭池から発する流れに、善福寺池、妙正寺池の流れを落合であわせ、関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。大洗堰で水は二分され、余水は江戸川に落とし、他は上水として水戸殿に給水し、神田橋門外付近で二筋に分かれた。一つは、内堀内の大名屋敷に給水し、他の一つは、本町方面、日本橋で北の町屋に給水した。大正末年には、水量、水質とも悪くなり、昭和8年に取水口はふさがれた。
取水口の堰があったのが現在の江戸川公園のあたりで地名も関口。水戸殿というのは水戸徳川家でその屋敷があった場所が後楽園、いまの東京ドームの近くで庭園も残っている。そこへ水を引いたあと水道橋で川と上水の立体交差をつくって渡し町中へ水を供給していた。
いろいろな資料をみると、神田上水の取水口の高さは標高が低く、江戸の町全域に水を供給することはできなかったようだ。電動ポンプなどない時代にたとえばこの取水口の北側、目白台の崖のうえにあった大名のお屋敷にすら水は供給できなかった。それを補うためにできたのが玉川上水といわれている。玉川上水は江戸の町にはいってくるときも水路を台地の尾根筋にとるように設計され、江戸街中のいろいろな場所に水を供給することができたといわれている。
このあたり江戸川公園、江戸川橋など、川が江戸川と呼ばれている。いまは江戸川といえば東京都の東、千葉県との境を流れる川だが、江戸時代には神田川の早稲田付近から飯田橋付近までを江戸川と呼んでいたとのこと。そのためこのあたりの施設、公園や駅名、交差点名など、江戸川を称するものが多くなっている。では当時の江戸川は?という話はまたこれ壮大な話があるのだ。ひとことでは説明しきれないのでそのうち書ければと思う。
江戸川公園東側の入口付近
早稲田付近での流れを見た後、目白台の崖にばかり気を取られていたら、どこでこんなことになったのか、汚れた都市河川になってしまっていた。なんだか一気に悪人化しちゃってるし。どす黒い水と硫化水素臭まである。このあたりから水が淀んで汚泥が堆積するのだろう、それが大きな要因のように思われる。おまけにこのあたりからは高速道路が川の上に覆いかぶさる。こちらものんきな散歩というより、街中を歩く緊張感を強いられるようになる。川の右側の暗渠は江戸川橋分水路の呑口。この分水路は飯田橋付近で再び神田川に合流する。川の車線をふやすというかバイパス。
淀んで黒い水に対岸の建物が写る。
このあたり、交差点の名前にもなっているが、川が東から南向きに流れを変える、大曲。上には首都高速5号池袋線がかぶさる。
飯田橋駅付近
別にこの地域が嫌いなわけではないが、川を主役にみるならばこの風景は幻滅。道路に車は写っていないが当然交通量も多い。上は首都高速。ビジネス街でもあり、人通りも多いが大いに割り切って生活する必要のある場所という気がする。
水道橋駅近くの後楽橋から上流側 文京区後楽1丁目
向こう側に見える小石川橋のところで日本橋川が写真左側に分かれていく。川といっしょに首都高速も日本橋川のほうについていくので高速道路の高架はこの先には神田川に覆いかぶさるところはない。(この高速道路はその代り日本橋のうえで橋にふたをして評判がわるいけれど。)はしけの止まっているところは川で回収されたごみを処理するための施設。北側はすぐ東京ドームシティ。
ちなみに昔の神田川はいまの日本橋川の流路を流れていた。日本橋川分水の下流側の神田川は江戸時代に人工的につくられた堀、運河である。この先御茶ノ水付近の仙台堀あるいは伊達堀と呼ばれる人工的な開削地をとおって神田川が流れていく。
このあたり御茶ノ水にかけて、JRの線路と川の間の護岸が絶賛大規模工事中である。整備は必要なので、すごい工事現場を目の当たりにできてそれはそれでよしと思っておくことにした。そんななかで写真の左側にちょこっと写っているのが神田上水掛樋跡のモニュメント。江戸川公園のなかにあった取水口大洗堰でとられた上水がここで掛樋をつかって川を渡っていた。それで水道橋である。川の立体交差。いまは跡形もないがモニュメントや解説の碑が残されている。
御茶ノ水橋から上流側
このあたりも護岸は絶賛工事中である。このあたりかつて江戸時代以前は本郷台台地の一部であったが、幕府の命令により台地が開削され、この川が流されることになった。工事を普請したのが仙台藩の伊達家である。そのため仙台堀、伊達堀と呼ばれている。台地だったところを谷にして数十メートルも掘り下げたわけで、重機もなかった開削事業は大変なものであったと想像する。この事業は1661年に完成したということである。それより前はここに川は流れていなかった。そんなわけでこのあたり御茶ノ水渓谷などとも呼ばれている。いまは周辺に高いビルが林立しているため急峻な谷が形成されていることもわかりづらくなっているが、地形図をみるとここが人工的に掘られた土地であることがとてもよくわかる。
聖橋から下流側
御茶ノ水の名所、有名なアーチ橋の聖橋は護岸工事とあわせてこれまた絶賛工事中であった。橋の側面全体にシートがかけられてその姿はまったく見ることができなかった。ので写真もない。JR御茶ノ水駅のホームと下は東京メトロ丸の内線の線路。この先川沿いの外堀通りも湯島聖堂あたりの坂を下って御茶ノ水渓谷はおしまい、神田の低地に出ていく。
右側は旧国鉄の万世橋駅跡が交通博物館となって、いまはマーチエキュート万世橋という商業施設。上をJR中央線の線路が通っているのは昔から。このあたり川の水はきれいとは言いがたいが臭いはあまり感じられなかった。
秋葉原付近は左岸も右岸も建物がひしめいて、川沿いを歩けるところがないのでそそくさと歩いて和泉橋に至る。
和泉橋の欄干と神田川 昭和通りをまたぎ首都高速1号線にさらにまたがれる窮屈な歩道橋の上から。
川の中に船着き場のようなものがみえる。非常時の物資運搬用に使うそうだ。その向こう側が小さな広場になっているが、広場というよりただの喫煙所と化していた。空気が悪そうなので近寄らず。
和泉橋 下流側から撮影
橋の上をさらに首都高速1号線が、地下は橋の先に東京メトロ秋葉原駅の入口が見えるように日比谷線が通っている。
さらに下って美倉橋から下流側
このあたりも川沿いに歩けるところがないので橋の上から川を望む。もうすぐ隅田川である。
浅草橋から上流側
浅草橋までくると屋形船がこのありさま。左岸側はずっと船着き場になっている。
この橋の先で神田川が隅田川に合流している。
橋は重厚、昭和初期に建設されたとのこと。この橋の近辺、意外に人通り、車の通りも少なくて静か。
柳橋から隅田川の合流点を望む
右側に見える橋が隅田川にかかる両国橋、向こうの高速は首都高速6号向島線。
両国橋から合流点を望む。
この散歩のゴールに到達。
両国橋から隅田川上流を望む。
浅草橋駅に戻って散歩を終える。本日は13.2km散歩しました。曇りだったけれど蒸し暑い日。