散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

葛西用水を歩く 会の川合流から遡り利根川・元圦へ

葛西用水をさかのぼって歩き、今回は利根川からの取水口(元圦=もといり)があった場所まで行きます。

会の川(あいのかわ)合流地点(加須市北大桑)から、前回のつづき。
合流地点の下流側から〈再掲〉

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前方の水門が合流地点、手前は二条の流れができてます。

 

水門に近づいてみます

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手前を右から左に葛西用水路、ゲートの奥から会の川の流れです。

ゲートは完全に閉じてあり、会の川の水は葛西用水路に流れ込んでいません。ここの施設は「会の川合流工」といい、たしかに合流地点ではあります。しかし現在、会の川の水は葛西用水と分離されて隣りを流れ、2.5㎞ほど下流、与八圦跡付近の中川放流工から中川へ放出されています。
会の川は近年、都市排水の流入があって水質悪化し分離したそうですが、ゲートを開いて葛西用水側へ補水することもあるようです。〈最近は下水道整備も進んでるはずです〉

会の川は元々利根川の派川(本流から分かれる川、分流)のひとつ、古代には本流だった時期も長くあったようで、川沿いは大河が流れた跡となる、大規模な地形の変化が見られます。
そして利根川流路を変える東遷事業に先だち、利根川との分岐(分派)点を締め切る工事が行われました。それ以降、利根川の水が流れ込まなくなり、周辺の新田開発などが行われてその排水を流すための細い河川に姿を変えています。

 

会の川合流から50mほど上流の葛西用水路

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再び一すじの流れとなりましたが、すぐ上流に水門があります。

 

前方の橋から見てみます。
篠合橋から上流方向

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また流れの中に仕切りができてます。先ほど見えた水門は右側の流れの末端で、葛西用水へ合流しています。〈ゲートも開〉

再び複線になった流れ、当分先まで続いているのですが、何なのかこの時はわかりませんでした。

ちなみに葛西用水路、ここまで古利根川流路跡、会の川流路跡を流れていましたが、これより上流側は1660年頃、幸手領用水として人工的に開削した水路となります。ただし現在はコンクリート護岸が同様にずっと続くので意識しててもわかりませんが。〈治水地形分類図という地図で観察するとわかりやすいです。〉

 

橋場橋から上流方向(加須市北篠崎)

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この周辺、現在、湿原を公園にした「浮野の里」や「大沼」などがあり、古くから後背湿地と呼ばれる低湿地が広がっていました。
この少し先で東北自動車道の下をくぐります。

 

埼玉県水産研究所の脇

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よく見えませんが、たくさんの池があります。〈錦鯉や金魚の卸売りもやってるそうです〉
研究所周辺はかつて北沼と呼ばれる沼地だったそうです。

 

葛西用水に並行する細いながれの方は所々堰があって水が分けられてるようです。そんなの観察して

加須市北小浜付近

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加須市上三俣付近

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加須市下谷付近

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ほかにもありましたが、しだいに面倒になりました…

 

そしてこのあたりからしばしば小さな川、堀が葛西用水路と伏越で交差します。いずれも葛西用水路の下をくぐっています。

これが中々記録が難しく、ひとつもうまく残せてません。
正蓮伏越、真上から(加須市下三俣)

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横切る葛西用水路、真下をくぐって前方緑木の下で流れが現れ、右にカーブしていく午の堀川(うまのほりかわ)の流れ。

 

下谷伏越、こちらも上から(加須市下谷

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前方のガードレールの先に下流側の流れが現れてます。手子堀川(てごぼりがわ、てこぼりがわ)。
この川は上流に向かってしばらく葛西用水路と並行しています。

ほかにも伏越ありましたが、省略ということで。

 

ちょっと、行きつ戻りつになりましたが、周辺の変化はほとんどないところですから。
だいたいこんなところが続いてます

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ここは左側結構大きなため池です。灌漑用なのかな?
正面は雪をかぶった浅間山〈小さい〉

 

こちらも小さいですが、北関東の山々、右の方雪をのせた男体山〈疑問符ばかり〉

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下谷伏越から200mほどさかのぼって、下流方向

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左のフェンスが葛西用水路、右下を並行して流れる手子堀川。葛西用水路は盛り土の上を通っています。開削当時からこのようになっていました。この周辺は窪んで特に土地が低く、そのままでは水が先へ流れないので盛り土で水路敷を高くしたということです。

 

その近くですが、清々しいほど直線です

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このあたりで加須市をぬけ、羽生市に入ります。(羽生市中手子林)

 

またその先、手子堀川が寄ってきますが

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今度は葛西用水路が方向を変えて

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水路は羽生市街地のほうへ入って行きます。

 

羽生市産業文化ホール手前あたり(羽生市下羽生)

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近くの県道を横切った先

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ずっと並流していた片方、ここまで暗渠でした。その10mくらい先を細い川(岩瀬落)が伏越で横切り、設備が少し写ってます。

 

そこから150mくらい上流へ。
前方は宮田橋

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暗渠の上が歩道になってます。

 

こちらの橋近くにも伏越があり、宮田落(みやたおとし)が葛西用水路の下を通過しています。
宮田橋たもとから横切る宮田落を望む

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この小さな川、伏越の手前は宮田落の名称ですが、越えた先から名前が変わります。

 

宮田落伏越吐き口付近

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「昭和四十五年三月埋設竣功」と刻まれています。伏越自体はそれ以前から存在していたはずです。
上の土手を葛西用水路が横切っています。

 

その手前側に「一級河川中川起点」

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ここが中川の起点です。と隣りの案内板にも書かれています。

案内板から
中川のプロフィール
中川は埼玉県羽生市を起点に、大落古利根川、新方川、元荒川、大場川など多くの支川の流れを集めながら南下し、東京湾へと注ぐ総延長約81㎞の一級河川です。

案内板の右隣りには古くから置かれている中川起点の標石があり、同じく「一級河川中川起点」とあります。

 

中川起点から下流方向

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〈またここへ歩いて来るのかな、と思いつつ〉来ました。21/5/7のノート

中川を歩く 新槐堀川合流から河川起点へ - 散歩の途中

葛西用水路へ戻ります。

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羽生市街地の水路をさかのぼっていくと東谷(ひがしや)分水工というものが出現しました。
東谷分水工、上流側から

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ずっと水路が2つに分けられていましたが、ここからでした。

解説板があり、それを読んで分かれていたわけが理解できました。
解説板、盛りだくさんだったので一部

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葛西用水路(東谷分水工)[Kasai Canal, Higashiya Diversion Works]
葛西用水路は、埼玉県北・中部から南東部にわたる約8,000haの農地に農業用水を供給する用水路で、その起源は江戸時代にまでさかのぼります。
当時、葛西領(現在の東京都葛飾区付近)の農業用水を補うために、水源を利根川に求めて水路を北に掘り進んだことから、葛西用水路と名づけられました。利根川へ掘り進む際には上流の羽生領(主に現在の羽生市付近)を通過するため、従来より上流の羽生領と下流部の葛西領等との公平な水配分が課題となっていました。
このため、平成4~13年度に行われた利根中央用水事業では、この東谷分水工で水路を二つに分け、向かって左側を分水路(上流部で水を分ける水路)、右側を本線水路(下流部へ確実に水を送る水路)とすることで、上下流に公平に水を配分することが可能になりました。
この分水工の構造的な特徴は、市街地であることから防音構造となっていることや、左側の分水路を昔からの景観に配慮して地下水路(暗渠)としたことです。

分水路のほう、地元で使う水なのでそちらに取水堰が点々とあったわけですね。で、余った水は羽生領のはずれでまた本線に戻している、と。〈いまは羽生領などとは言わないですが、地域ごとに水利組合(用水組合、土地改良組合)などがあります。〉

あとこれは推測域ですが、流れの途中には大量のサイフォン設備が川底に埋め込まれている事、見ました。途中から本線、分水路水量が変わればサイフォンを通って自動的に水が供給されるのではないでしょうか。

 

分水工の上流はまたひと筋の流れとなり
さくら橋上から上流方向

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しばらく住宅地のなかを流れます。

 

さくら橋から2000mほどさかのぼって

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前方に小竜橋、その向こうに利根川堤防が見えてきました。

 

小竜橋上から上流側

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このあたりが現在の葛西用水路起点です。正面、橋の下をくぐるのが旧流路、以前は橋の向こうに元圦(取水口)があり、利根川から樋管が通されて水が流れ込んでいました。

1968(昭和43)年、利根川の5㎞ほど上流に利根大堰が完成して取水口が変わり、現在は左側から合流する、利根大堰埼玉用水路経由の水がこの付近で分水され葛西用水となっています。旧流路から水は流れ込みません。

前方、橋手前の箱型コンクリート構造物は埼玉用水路の掛樋(水路橋)です。

 

埼玉用水路の掛樋(葛西水路橋)上から

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葛西用水を分水した後、この掛樋を流れる埼玉用水はさらに別の用水路に接続されています。
見にくいですが水路橋下を葛西用水路の旧流路が左右に横切ってます。

 

旧流路の利根川堤防側は現在葛西親水公園となっています。〈臨海公園じゃない〉
葛西親水公園内の池、元圦・吐き口のモニュメント

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写っている元圦は1894(明治27)年建設の樋管を復元したもの。その当時は現堤防工事前のため、吐き口はもっと北側、利根川河川敷内に位置してました。ちなみに元圦吞み口側は現在存在していません。

 

樋管の上に碑があります。
葛西用水元圦跡之碑

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利根川堤防を上がる階段があります。

 

上がって振り返り

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〈思ったより地味な風景でしたので〉
公園にあった解説文を

◆元圦の設置と葛西用水の起源
江戸時代初期、利根川の流れを変える工事により、埼玉東部は水害が減りましたが、その代わり、水源の川の水量も減り、農業用水が足りなくなりました。
そこで万治三(一六六〇)年、当地に元圦が設置され、利根川の水を取り入れた幸手用水が開かれました。これが葛西用水の起源となりました。
※後に幸手用水とつながる瓦曾根溜井の成立《慶長十九(一六一四)》を起源とする説もあります。
葛西用水の開通/名前の由来
葛西用水は、葛西(今の東京葛飾区・江戸川区)にいたる下の領(後の村にあたる)に、農業用水や生活用水を供給するために造られたものです。それで「葛西」の名がついたわけです。
幸手領用水終点の琵琶溜井から葛西にいたる古利根川に流す水量が増やされ、葛西用水が開通したのは享保四(一七一九)年のこと。十か領十三万石余りの水田をかんがいする、関東一の大用水の誕生でした。

 

反対側は利根川

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青黒く流れる雄大な川がありました。葛西用水の痕跡は見当たりません。

対岸は群馬県明和町、左端の橋は東武伊勢崎線利根川橋梁。
ついに群馬県境までやってきました。

日本の三大用水路のひとつといわれる〈らしい〉葛西用水、ここまでで完歩とします。

 

ひとつふたつ手前
miwa3k.hatenablog.jp

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地図:今回分は《葛西用水(5)》