前回、江戸川橋からスタートし、練馬の谷原まで来た続き。
谷原交差点から都道24号に番号だけ変わった目白通りをもうしばらく行く。
清戸道 足あと
今回は青いラインの中ほど、黄色のポイントマークから西へ行く。
前回分
谷原小前交差点の先で関越自動車道練馬ICのほうへ行く目白通りが右へ分かれ、「古い」都道24号のほうへ入る。
都道24号旧道へはいって(練馬区谷原5丁目、高野台5丁目境界)
しばらく、歩道はないが車はよく通る道。
練馬年金事務所手前の道端に1761(宝暦11)年の庚申塔があり、祠の外側、あじさいの後ろには例の「清戸道」石碑と解説板があった。解説文などは他と同じ。
道端の庚申塔など(練馬区三原台1-28)
さらに西へ、大泉が近づくと道路はセンターラインも、歩道も整備される。
妙延寺の門前
1568(永禄11)年の開祖と伝えられる日蓮宗妙延寺前を通過する。あたりは大泉学園駅にも近い、にぎやかな一帯。
近年区画整理などが行われたようで、道路配置なども少々ややこしくなっている。来た道の旧道ぽいところへ西進。
大泉学園北交差点付近
正面右のすき間へ入り、大泉小学校前の信号を右折すると白子川へ出る。
清戸道の道筋はそのあたり別の場所を通っていたとする説もあるらしいが、川の近くで古道道筋ははっきりしなくなるの法則がここでも有効。昔はしょっちゅう氾濫があり、道路の付け替えも何回かあったはず。
中島橋から白子川
橋を渡って、右側駐車場向こうの道路を前方に行く。
川沿いの道筋不明瞭な場所ではあるが、付近は昔の村役場跡、寺院、神社などがあり、かつては集落の中心だったのだろう。
諏訪神社鳥居前を通り、いままでずっとほぼ西に向かってきた道は北寄りに方向を変えて、現在は西大泉と呼ばれる一帯を通過していく。
交差点左側に「堤稲荷」や「四面塔稲荷」と呼ばれる神社がある。
稲荷神社鳥居前
入口にあった解説では単純に「稲荷神社」とだけ書かれていた。
宇賀之御魂命(うかのみたまのみこと)を祭神とした社で、江戸時代の付近の地名「堤村」から「堤稲荷」、またかつてこの付近にあった四面の題目塔(石造)から「四面塔稲荷」と呼ばれる、とあった。
前回記した清戸道の解説中に「大泉から先、清瀬までの道筋は幾とおりにも分岐していきます。」とあるように、この稲荷前交差点でも清戸道は直進、左折の2方向に分かれているとのこと。ここはとりあえず直進するルートをたどる。もうこの先は上清戸、下清戸など、どの集落へ直接通じるかの枝道と考えたほうがよい。
先へしばらく進むと、道は東京都練馬区から埼玉県新座市へ入る。
新座市片山2丁目付近の交差点にあった祠
右側は庚申塔、左側は石造りの社?、正面3枚の石板にそれぞれ御嶽神社、阿夫利神社、榛名神社と刻まれている。ここを横切る道も古いのだろうか?
片山2丁目の交差点先から長い下り坂になる。武蔵野台地上にしては意外に大きな谷で、底を現在、黒目川が流れているのだが、この谷は大昔の多摩川によって削られてできたものというのが定説。埼玉県を多摩川がと思うが、武蔵野台地を形成した古多摩川は青梅の扇状地から北へ流れていた時期があり、現在の柳瀬川や黒目川の流路をつくった。
その谷におりる下り坂にさしかかる
ただし、短い区間だがここを下っていく旧道の道筋ははっきり残っていないという。
坂を下りたところにそれぞれ場所は違うが、馬頭観音、庚申塔、このほかお地蔵様もいた。
馬頭観音
庚申塔らしき石柱
いろいろなものが残っているので、また旧道に復帰したようだ。
馬頭観音は明治16年のもの、道標にもなっていて右面「右ハ清戸道」左面「北ハ志木道 南ハ東京」と刻まれている。
目視では確認できなかったが庚申塔には「左大山道」とあるようで、前を通っている道がそうなのかもしれない。清戸へ行く道は庚申塔のある二又を右に曲がる。
その先で黒目川を渡る。
馬喰橋から黒目川下流方向
橋を通る道は馬喰橋通りという。この道を進む。
しばらく行くと上り坂、堂坂という坂にさしかかる
先ほど台地上から谷底へ下り(片山2丁目付近)、次に反対側の段丘、台地へのぼり返す部分になる。
坂の下や途中は森のようだ。上へあがるとそうでもないのだけれど。
坂をあがって石神小学校交差点付近
住宅もだいぶ増えてきているようだが、畑もまだあちこちに残っている。ちなみに台地の上で田んぼはまったくない。
道端の紫陽花
御成橋交差点にて
歩道側前方は野火止用水の流れ。用水を横切っているのが清戸へ続く道。
野火止用水は以前歩き、ここの風景は記憶に残っていた。
御成橋交差点の先へ
道は雑木林の中を通り抜ける
それほど大きな林でもなく、例えば防風林のよう。
そこをぬけると埼玉県新座市から東京都清瀬市へ、再び東京都に入る。
通ってきた雑木林のほうを振り返って
周囲は畑地。
防衛施設庁と刻まれた境界杭が結構あることに気づいた。この近くには在日米空軍基地施設大和田通信所(太平洋戦争中は帝国海軍大和田無線通信所)があるのだ。
もう少し先へ行くと横切る道路に沿って住宅が連なった場所へ出る。
バス停下清戸のすぐ横へ出てきた
通ってきたのは下清戸へ通じる道だったのだ。
正面のバス通りは志木街道、その街道に沿って下清戸、中清戸、上清戸の各集落(以前は各村)が形成されている。
再度の引用だが、清戸道は「大泉から先、清瀬までの道筋は幾とおりにも分岐していきます。」とあった。
志木街道は清戸道と直交する方向に通っている。志木街道沿いにある各集落へ直接向かうため枝道がいくつも設定されたと推定できそうだ。
志木街道へ移り、下清戸から上清戸までの道をさらにたどってみた。
場所を証明できるものがあまりなかったので、以下バス停とともに。
下清戸(バス停)周辺
道路と現代の住宅地というごく普通の風景だが、少し観察してみると、道に沿って両側に古くからの住宅地が細長く伸び、住宅の後ろには広い畑地が広がっていることが分かる。
志木街道を上清戸の方へ歩いて行くと現在は長命寺前で道が二又に分かれている。左へ行くのは最近できた道路なのでそのまままっすぐ進む。
新道分岐付近にある長命寺の鐘楼堂
中清戸バス停周辺
昔の言い方なら、下清戸村の隣り、中清戸村まで来た。周辺の雰囲気は下清戸と変わらない。
現在の住居表示で中清戸と上清戸の境界あたりに水天宮、日枝神社が2つ並んでいた。
日枝神社
水天宮
水天宮の少し先にあるT字路(中清戸駐在所前交差点)の分岐も清戸道の枝道だという。(記録はなし)
上清戸へ入って、蔵のある家がいくつか見えた
上清戸バス停周辺
このあたりは清瀬駅に近くなり、近年の再開発で風景もだいぶ変わっているようだ。
目の前の上清戸1丁目交差点を左折すると清瀬駅前に出るが、もう少しだけ先へ直進する。
小金井街道との交差点やや手前の細い道との分岐点にいろいろまとめられていた。
庚申塔、馬頭観音など
清瀬市の解説によれば9基あるとのこと。道標を兼ねているものには「左八王子道、右青梅道」「左八王子・大山道、右ところ沢通」などと刻まれているようだが、明治以前のもので清戸道の名は見られない。
別途志木街道も少し歩いて、上清戸までやってきた。この先に「清戸」を名乗る地区はなく、ここまでで清戸道をたどるのは終わりにする。
「清瀬」の地名の由来は
諸説がありますが、その一説に、旧上清戸村・中清戸村・下清戸村に見られる清戸の「清」と柳瀬川の「瀬」を合わせたものだといわれています。
清瀬市のサイトから
(柳瀬川は市の北側を流れる河川)