見沼代用水東縁、八丁堤に隣接した見沼通船堀から上流へ向かって続きを歩きます。
東縁・通船堀分岐点から【再掲】
今回は水路を先へ向かいます。
しばらく見沼(見沼たんぼ、見沼溜井)のあった範囲、その縁に沿って歩きます。
見沼地図も再掲しておきます
user:Hiroyuki0904, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
八丁堤より北(上流)側は見沼溜井が干拓された後、代わりに引かれた水路(文字通りの見沼代用水路)です。完成は1728(享保13)年、その時に八丁堤の南側に見沼溜井からすでに延びていた東西の水路とも結ばれました。
通船堀、八丁堤からさかのぼって1㎞弱でJR武蔵野線が横切ります。
水路と線路の間も新田開発された見沼たんぼの範囲ですが近年は耕作されていない土地も目立ちます。都市開発制限区域のため結果的に放置されたまま。
一方で水路のこちら側は制限区域外となって宅地化が進んでいます。〈鉄道も幹線道路も通ってるし〉
川口自然公園近くから(川口市差間)
足元は見沼代用水東縁から分岐した赤堀用水路、下流方向を見ています。東縁は右方のフェンス下、その向こうが川口自然公園。この周辺多数の用水路が張り巡らされています。川口市の北端といった地域です。
この日は東縁水路末端からこのあたりまで歩きました。
流れから離れて東川口駅へ向かう途中に坂道があり、改めて水路って凸凹のないところをうまく通しているんだなと認識しました。
話飛びますが、東川口駅前を南北に通っている段差は断層の雰囲気があります
日を改めて東縁に再会、天気はくもりになりました。
これは少し先へ進んで源次郎橋上から上流方向(川口市行衛、さいたま市緑区間宮境界)
これより先はしばらく住宅も少なく、見沼たんぼ地域の東の端を進んでいきます。水路に沿う自転車歩行者専用道も充実。
大崎公園の中を通過します
正面は『さいたま市園芸植物園』温室。左はそのまんま、公園橋。
そこから約700m進み
左側一帯はずっと見沼たんぼ、と言っても現在このあたりはほぼ畑です。それより2~3m高いところに水路が通されています。
前にデッキのようなもの、ところどころにあるのですが、観畑台⁇
少し先で新見沼大橋有料道路、ちょうど料金所の真下をくぐります。この道路、なぜか知りませんがETCが使えなくて代わりにSuica,PASMO,WAONが使えるとのこと。普通車は150円、自転車20円...どうも話脱線気味。
大きな橋を背後にして先へ行くと水路はしだいに緑深いところへ。『さいたま緑のトラスト保全地 龍の森』
見沼龍の伝説が残る一帯は自然景観を保全する事業で手が入れられており、周辺のきれいな森の木々は印象的でした。
用水路の護岸もこのあたりだけ自然河川風にしてあります。(さいたま市緑区南部領辻)
これが見沼龍、ほかにもう1体ありました
〈文字起こしは見送りますが、後半「中 → 宙に舞い」かと〉
その先もしばらく緑の散策路が続きます
龍がいたところから1500mくらい、次は『見沼自然公園』へ入ります
見沼代用水を築いた井澤弥惣兵衛為永の像が用水沿いの歩道から見えました。
こちらも見沼たんぼ領域の一部を公園としています。東縁水路の対岸には隣接してさぎ山記念公園というのもあります。
見沼たんぼ周辺は都市開発が制限され、設置できるものが限られるので大きな公園がいくつもあります。(墓地霊園も多かった印象)
見沼自然公園北側を通る県道、締切橋
わりと古そうな橋、路面に亀裂はいってますよ...
自転車が入っていく方、この先はしばらく田園風景。
このへんは畑でなく水田ですね。平べったい低地中央を芝川支流の加田屋川が流れ、東側に見沼代用水東縁(歩道右側のフェンス下)、西側このあたりは東縁から分岐させた水路があって中央部の農地に水を供給、排水は加田屋川へという構成になってます。
右端は深い森に見えて実は木々が1列に並んでいる程度、地形的には微高地が細長く続いています。水害の影響を受けにくいこともあり、ここの微高地には江戸からの街道、日光御成道が通されています。
加田屋川、日光御成道ともしばらく並行しつつ先へ。
見沼弁財天あたり
緑のなか赤い建物が目立ってました。手前、小さな広場になっています。
見沼弁天から7~800m、右、流れに並ぶ道が日光御成街道、膝子交差点
前の膝子橋の先からは七里総合公園、再び公園に入ります。
この付近では100m弱しか離れていない加田屋川との間に整備された細長い公園でした。
公園の先に大きな病院があり、その付近で加田屋川は流れの方向をやや変えます。同じところで見沼代用水東縁もお互い反るように方向を変えて日光御成道が通る微高地を横断します。
〈厳密にいうと、日光御成街道旧道は高台橋直前で右へ分岐していたようですが、微高地上であることは変わりなく〉
これは東縁の流れる方向から見ると
東縁の流れははじめ綾瀬川に沿った低地を流れています。これを芝川(加田屋川)筋に通すために分水嶺を越える必要があります。分水嶺となっているのが日光御成道の通る微高地、越流地点がここなのです。
でも微高地という程度、数メートルの高低差しかないので堀を少し深くしてあっけなく越えています。
高台橋から120m、次の七里橋から上流方向を見て
この前までは上流に向かって右(東)側が高かったのですがここでは左が高くなります。10メートルに満たない高低差の分水嶺を越えました。
東武野田線と交差するあたり
七里橋から1200mほど先、ここも左が高く線路は右が盛り土、左は切通しになります。水路がその縁を通っていることは変わりないですがすでに芝川、加田屋川流域からは外れ、見沼たんぼ、見沼溜井の範囲外となってます。
このあたりは水路の蛇行も少なく、上流へ向かってだいたい北西の方向へ進みます。
〈とか言って曲がってる場面〉
しばらく住宅地が続きます(さいたま市見沼区小深作)
左側は芝浦工大グラウンド、そのキャンパスが正面木々が密集している小高い場所にあり、水路はその縁に沿って蛇行して流れています。
同じ橋から上流方向
上流側はここからわずかに周囲の土地が高く、堀を深くして通過します。
距離にして400mほど、少し深い堀が続きますが綾瀬川の氾濫原に達してまた目の前を水が流れるようになります。
先ほどの出戸橋からの距離はおよそ1㎞、そして見沼代用水が東縁と西縁の2つに分かれる地点までもあと1㎞となりました。
途中国道16号、JR宇都宮線と交差、周囲の風景は水田がメインになります。
右に写る踏切を渡りつつ
フェンス左側の下に東縁水路があります。正面2本道が見えますが、左は今回あまり触れてなかった自転車歩行者専用道「緑のヘルシーロード」、その起点〈利根大堰〉から33㎞ポストが立っていました。
八丁堤手前では50㎞だったので結構進みましたが、まだ利根川の起点までかなりあります。
正面に橋が架かってますが綾瀬川・立合橋、その近くで見沼代用水の水は地下を伏越して川を渡ります。そしてその左で見沼代用水東縁、西縁流れが分かれ、東縁水路がこの左側へ流れています。
これは水路が分かれて離れていく最初のカーブ、下流方向をみています
瓦葺伏越吐き口(出口、水が上がってくるところ)
綾瀬川を通過するために呑み口から地下へ落とされた水が再び上がってくる地点です。大量の水が上がってきますが音もなく波立つこともありません。仕切りの向こうが西縁、手前が東縁を流れる水です。
前方の壁には「瓦葺伏越」の文字が刻まれたプレート。瓦葺(かわらぶき)はこの周辺の地名です。
プレートのある壁のサイドから
左が吐き口、右は綾瀬川です。川の下を見沼代用水の水が立体交差しています。現在の伏越は1961(昭和36)年に完成しました。
綾瀬川立合橋を渡って対岸へ移りますが
左端にわずかに写るのが立合橋。〈河原に不時着した謎の飛行物体に目を奪われてこんなアングル〉
こちらは伏越呑み口付近
前方の水門からこちらに流れ、足元で下へ落ちています。水門通過後から仕切られます。
左前へ出てふり返り
下へ水が落ちる地点です。
水門の上流側から
流れてきたごみを回収する除塵機が設置されてます。
左側にも水門がありますが、余水を逃がすためのものだと思います。水路の壁ぎりぎりまで水位が上がってますが左側水門は閉じているようにも見えます。水量制御が正確にできているのでしょうね。
ところで綾瀬川を越えるこの地点、現在は川の下を通過させる伏越(サイフォン)方式ですが、見沼代用水完成時から現在の伏越になるまで230年以上の間は川の上に掛樋(かけひ:懸樋、懸渡井(かけとい)とも)といわれる水道橋をかけて渡っていました。明治時代のレンガの遺構なども残っていますがそちらは西縁を歩いたときに紹介したいと思います。綾瀬川を歩いたノートにも少し出してますが結構見落としなどありました。
ここから上流は東西の区別なく、単に『見沼代用水』です。
250mくらいさかのぼると宇都宮線線路に近づきます。
見沼代用水・前橋近くから(蓮田市蓮田)
橋上から上流方向
この先32㎞以上続く。
〈突然の梅雨明け宣言、関東地方の猛暑地帯に踏み込む勇気なく。涼しくなるまで待つのが賢明でしょうか。西縁は別途すでに歩いているのでぼちぼち出す予定です。〉
見沼代用水東縁西縁地図
その1その2
西縁の末端から