桃園川は神田川の支流、東京都杉並区天沼弁天池公園の池などを源流として東へ流れ、JR中央線阿佐ヶ谷駅の東からは東南方向へ流れ下る。中野区を大久保通りと並行して流れ、中野区中央1丁目、大久保通り末広橋付近で神田川に合流する。
現在は全区間が暗渠で桃園川下水道幹線となっているが、元々は小さいながらも自然の河川だった。昭和にはいってからの周辺の宅地化、都市化に伴い、水害、汚染対策として1967(昭和42)年に暗渠化され、下水道幹線となった。そして現在はJR中央線阿佐ヶ谷駅東側の高架下から神田川末広橋までの区間、暗渠上は桃園川緑道になっている。
それでは、スタート。
桃園川・足あと
下流からさかのぼるため、まず神田川との合流点、大久保通りの末広橋を目指す。
アプローチは地下鉄中野坂上駅から
「坂上」っていうのは伊達じゃなく、桃園川、神田川との合流点へは川に向かってきちんと坂を下り、その底に末広橋がある。
末広橋手前の小公園から神田川方向
桃園川合流地点 2016/07
2018/01
現在桃園川暗渠を流れる水は周辺地域の汚水などが集まったもので、通常時合流点からは流れ出ず、別の地下管渠で新宿区落合にある落合水再生センターへ直接送られて下水処理されている。神田川との合流点はあるものの、そこから平常時に流れ出る水はほとんどない。ここは降雨時等の臨時出口である。
末広橋横から桃園川緑道がはじまっているので、そちらへ戻る。
桃園川下流部分の緑道の様子
ざっとこんなかんじ。ほかの暗渠緑道と比較して幅が広いので、川幅も広かったのではないだろうか。
道路との交差部(小淀橋跡)
道路と交差しているところはかつて橋があった場所。車止め代わりに装飾した橋の欄干がたてられているが、これは新しく建てたもの。
場所によっては古い橋の親柱や欄干が残されているところも多くある。
戸井橋跡
四隅に親柱が残る。(橋名がうまく写せていない)
山手通りを横切った先(中野区中央2丁目)
川幅広かったのは下流のごく一部だったようで、すぐにせまくなってしまった。このあとは緑道終点までそれほど変わらず。
古い護岸
左側の護岸と階段は川が流れていたときからのものだろう。
桃園橋跡(中野区中央4,5丁目境界)
中野通り中野五差路交差点南側に架かっていた橋が桃園橋、道路反対側の親柱には「昭和十一年二月完成」とあった。欄干部分も残されており、小さな川にしては立派な橋だと思ったが、川よりもここを通る道路が古くから主要なものだったのだろう。
中野駅南側の繁華街近く、桃園川の桃園橋ということだが、明治42年の地図を見ると中野駅近くに「桃園」の地名表記があった。
大久保通りの宮園橋
こちらも親柱と欄干の残る橋跡。(欄干中央部分は緑道への出入りのために切られているが)
桃園川と大久保通りは中野区内ではほぼ並行しているが、ここで交差し、上流側は通りの北側を流れる。
杉並区に入り、高円寺南1,5丁目境界
このあたり密集した住宅の裏側を一直線に通る。
環七通り交差部分に「桃園川緑道の沿革」の解説があった。
桃園川緑道の沿革
『桃園川緑道』は元来、天沼の弁天池(天沼三丁目地内)を水源として東流し、末広橋(中野区内)で神田川に合流する『桃園川』と呼ばれた小河川でした。
『桃園川』の名は江戸時代初期に付近の『高円寺』境内に桃の樹が多かったことから将軍より地名を『桃園』とするよう沙汰があったことに由来しています。(その後、桃園は中野に移されています。)
江戸時代中期には『千川上水』から分水したり『善福寺川』から『新堀用水』を開削し、導水するなどして、『桃園川』沿いの新田開発が、進められました。
大正末期には、この付近も関東大震災を契機とした都市化の波を受け、川沿いの地区は耕地整理が行われ数条に分岐していた『桃園川』も流路が整えられ、それに伴い水田風景も姿を消しました。
その後、『桃園川』は宅地化の進む中で大雨の度に氾濫を繰返し、川沿いの地区に被害をもたらしましたが、昭和42年、東京都下水道局により桃園川幹線として暗渠化され、以降、水害も治まり河川としての使命を終えました。
杉並区では、昭和44年、この地上部分を中野区境から中央線までの区間、整備し、『区立桃園川公園』として開園しました。その後、施設の老朽化に伴い、平成元年より五ヵ年をかけ再整備を行い、緑と花のプロムナード『桃園川緑道』として新しく生まれ変わりました。
平成6年3月
道路に川が並行するところも(杉並区高円寺南2丁目)
高円寺pal商店街アーケードを横切る
商店街の通りには宝橋跡。
その先はまた密集した住宅地の裏側を通る。
やや開けた場所へ出てきたが
桃園川緑道上流側端に近づく
前方、JR中央線高架手前で緑道は終わる。
中央線ガードをくぐると阿佐ヶ谷けやき公園、その先はアスファルトの一般道、歩道が入り乱れて続く。
阿佐ヶ谷けやき公園先
車止めの先は車も通る一般道。
しばらく進んで阿佐谷北1丁目付近
正面の車止めの先に細い暗渠道。右方にも車止めがあって細い歩道になっている。
丹念に調査したわけではないが、このあたり水路が幾筋かあったようで、水路の枝分かれと思われる箇所も見られる。右方も水路のひとつだろう。
正面の細道にはいってすぐ
少し先で別の道路と交差
中杉通り(都道427号)の広い道路を越えるとレンガが埋め込まれたような歩道に変わる。
ここまで装飾されると暗渠道とは思えない
地図をみるとこの北側にもう一本流路跡らしき歩道があるのでそちらを覗く。
金太郎の車止め看板が残る歩道があった(状態はよくないが)
北側の流路を少し先へすすむ
こちらの流路は部分的に消滅しているようなので歩き通すことは今回やめて、元の流路へ戻った。
南側の本流(?)へ戻り
杉並区天沼2丁目付近
歩道中央に植栽。
もうしばらく行くと右側に天沼八幡神社が見える商店街通りに達する。
天沼八幡神社鳥居がみえる商店街通り
ここで八幡神社側へ折れて道なりにすすむと
天沼弁天池公園入口に達する
中に弁天池があり、そこが桃園川の源流といわれる。しかし源流の池は埋め立てられ、現在は井戸水をくみ上げた人工の池になってしまった。
現在の弁天池
凍っていた。薄氷
解説板
「天沼」地名の由来については、古代官道の駅「乗潴」がこの地にあったとする説もある。「乗潴」は「あまぬま」とも読めるらしく、官道の隣接する駅(宿)との距離、位置も適当であるとされている。
さて源流にまで達してしまったのだが、地図をよく見ると八幡神社手前の商店街の先には、まだ暗渠道の続きのようなのが存在するので追いかけてみた。
天沼八幡神社鳥居
この日は暗渠道の先が気になって神社無視しました。
暗渠道の先をたどっていたら、弁天池公園から一直線にこちらに伸びている歩道発見
歩道前方奥が弁天池公園、自分はそこから「コ」の字形に歩いてここへ出てきたが、そこをショートカットする道だ。グレーチングやマンホールもあり、ここは公園からの排水路が通っていた(る)と推測。
さらに暗渠道をさかのぼる
源流より上流方向に流れが続くってどういうことだ。
荻窪駅北口の青梅街道に突き当たった(杉並区天沼3-5)
正面に路地が見えるが、ここで地図とにらめっこをした結果、この先は暗渠道と思えるものがなかった。探索はここでいったん終了。
帰って暗渠に明るい方々の情報にあたってみたところ、ここへぬけてくる暗渠道は青梅街道沿いを流れていた千川用水の六ヶ村分水をここでさらに分け、桃園川へ引水していたころの導水路のひとつであるという記述があった。これで腑に落ちた。
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いや、もう暗渠情報はどこも調べ尽くされてますね。