前回の続き、元荒川第3歩目。
埼玉県蓮田市川島、川島橋から上流へむかって歩きます。
なかよし橋から川島橋、元荒川上流方向
川島橋に隣接の歩道橋は『なかよし橋』。道路橋には川島橋銘板がなく、くっついてる歩道橋に『なかよし橋』とだけ書かれているのでこれはもれなく間違いますね。〈改名した可能性もなきにしもあらず、なのでタイトルに加えておきました〉
川の前方には東北自動車道が横切ってます。蓮田SAの近くです。
東北道高架下を通過して少し西へ行ったところ、県道とうなぎ屋さんの間に最初墳丘かと…、塚がありました。
左側の大きな庚申塔含め周囲に石塔など複数、上部には祠か石塔(写ってませんが)
帰ってから調べてみましたが、これといった情報は得られませんでした。近所には『ささら遺跡(古墳群)』が存在していたようですが。
塚近くの県道から
向こうを横切るのは東北自動車道。
背後、久伊豆神社(ひさいずじんじゃ:一帯、この名前の神社あちこちにあります。)横の宮前橋を渡ります。
宮前橋上から元荒川上流方向
一直線です。どこかの時代に流路整備されたのでしょうか?
左岸側がしばらく公園、遊歩道になっているのでそちらを歩きます。
宮前橋を渡ったところに元荒川の解説板が立ってました。
復習しておきますか。
元荒川(もとあらかわ)
元荒川は、熊谷市から南東に流れ、白岡市で野通(やどおり)川を、蓮田市で星(ほし)川を合わせ、吉川町で古利根(ふるとね)川(中川)に合流する、長さ約六〇キロメートルの一級河川である。
現在県中央部を流れる荒川(あらかわ)は古来しばしば流路を変え、県東部地区低地を乱流していた。江戸時代初期の荒川は、現在の元荒川の流路を本流とし、一部は分流として現在の綾瀬(あやせ)川の方にも流れていた。このため沿岸一帯はしばしば大きな水害を受けたので、関東代官頭伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)は現在の桶川市に堤防を築き綾瀬川への流入を防いだ。しかし、これだけでは根本的な解決にならず、寛永(かんえい)六年(一六二九年)には、荒川の流路を変えることとし現在の熊谷市久下(くげ)地先で荒川を堰き止め、その流れを入間(いるま)川の支流の和田吉野(わだよしの)川につないだとされる。こうして、新しい流路を荒川と呼び、旧流路は元荒川となった。
平成二年三月 埼玉県蓮田市
桜並木の堤防に水仙
元荒川河川敷公園内、途中を荒川橋、JR宇都宮線元荒川橋梁が横切ります。
橋の下流側から
その先も〈ちょっとさびしいけど〉公園が続きます
前方は次の新荒川橋。
その先は新今宮橋、ちょっと離れて今宮橋。
再び水仙と〈風景にあまり変化がありません〉
今宮橋上から上流方向
今宮橋から800mほどさかのぼって(蓮田市西新宿4丁目)
そろそろ、歩いている左岸側は白岡市に入ります。
東北新幹線の高架をくぐって200mほど、
八幡橋(やわたばし)にさしかかるところ(白岡市西3丁目、対岸は蓮田市貝塚)
左岸は蓮田市内宮前橋あたりからずっと桜並木になっています。白岡市に入ると『白岡さくらロード』、花が咲くころは壮観でしょうね。
八幡橋上流側から
橋のたもとにあった(初代の橋)架橋記念碑の文字、書体がユニークだったので貼り付けてみました。
はじめてここに橋が架かったのは1923(大正12)年、橋の解説板に付された写真では木製橋脚の土橋のようです。
八幡橋から上流へ1kmちょっとで元荒川左岸に星川が合流します。長い桜並木もそこが終点です。
星川合流点
右から流れ込むのが星川です。
星川をはさんだ目の前の土手へ移動したいのですが、星川の上流方向を見ると
遠くに小さく見える橋まで片道400m迂回して対岸へ、また合流点まで戻ります。
合流地点近くの星川は流路がほぼ直線です。大昔の合流地点は元荒川のもっと下流側にあり、ここは江戸時代の河川改修で合流点を付け替えた際、人工開削された流路とのことです。
星川合流点から上流へ約400m、下流を向いて
合流点の先に見えていたごみ焼却場の大きな煙突前あたりです。〈最近はごみ焼却場なんて言いませんね。こちら名称は『蓮田白岡環境センター』でした〉
少し先へ進むと、元荒川の橋としては八幡橋の次となる根金橋、間の距離は2400mあります。その前後も含めて相当長い区間、元荒川が白岡市と蓮田市の境界になってます。
橋の数十メートル北を大落古利根川へ注ぐ、小さな隼人堀川が流れています。
様子を見に行くと、そこは小さな堀からの水を合わせているところでした。
根金橋から上流へ400mほど行くと対岸に、古いレンガ造りの水門(正確には樋管)が見えました。さすがにもう使用されていないだろうと思ったら、樋管を通った水が川に流れ込んでいました。それ以上の情報も得られないだろうと思っていたら、『皿田樋管』、1903年に建設されたものということ、他にも細々したあれこれが分かりました。〈撮った写真は逆光でまっ黒でした。〉
さらに川をさかのぼり、国道122号新根金橋をくぐります。ずっと川の周囲は物流センター的に大規模な倉庫が建ち並んでいましたが、国道の先は水田が広がっています。
川の堤防上から、上流方向(白岡市柴山)
堤防下から
広大な水田の先には柴山沼という大きな沼が存在します。そこは元荒川の古い流路跡で、川の浸食により形成されたようです。〈今回は立ち寄れず〉
先ほどの堤防上から約1300m、上流方向
相変わらず周囲の風景にあまり変化はありません。
前方に小さく橋が見えます。常福寺橋、その手前に見沼代用水(みぬまだいようすい)が元荒川を伏せ越す『柴山伏越』があります。
常福寺橋に近づき、見沼代用水路
〈柴山沼はここではありません〉
この背後に水門があり、伏越吞み口があります。
伏越吞み口付近に立って
向こうから水が流れてきて、この付近で水が(たぶん)垂直に落とされてます。
柵があって詳しく観察できません。
元荒川の下を管が通って、対岸に吐き口のゲートが見えます(上を通るケーブルの先)
周辺には用水路や伏越の解説板がいくつか立ってました。
白岡市の解説を
柴山伏越(しばやまふせこし) 所在地 白岡市柴山
見沼代用水路は、享保十二年(一七二七)徳川吉宗が勘定吟味役格井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ)に命じ、県南東部(大宮台地の東南端)にあった見沼溜井を干拓させたとき、代りに水源を利根川に求めて掘った用水路であり、もとの見沼に代る用水路ということで見沼代用水路と命名された。水路延長は約六〇キロメートルで、受益面積約17,000ヘクタールにも及ぶ大用水路である。
井沢弥惣兵衛は紀州(現和歌山県地方)の人で、土木技術にすぐれ、この用水路の工事は、着工から完成まで約6ヵ月で完工している。当初の設計にほとんど狂いがなかったといわれたほどで、いかにすぐれた土木技術を駆使して進められた工事であったかがわかる。
同用水路が元荒川と交差するこの場所では、元荒川の河床を木製の樋管を使用してサイフォンで通すという大工事を行った。これが柴山伏越である。
現在は河川の改修が行われ、以前より川幅も三分の一と狭くなったが、これまで、修繕や伏替工事などが二十数回行われ、現在見られるような構造になった。
昭和五十九年三月 白岡市
井沢弥惣兵衛の供養塔が隣りの常福寺境内にあります。
柴山伏越、常福寺橋の上流側へ出るとすぐに川の合流があります。
野通川(やどおりがわ)合流
右から流れ込むのが野通川です。
現在の野通川は延長14㎞の河川。かつては周辺にあった沼地の干拓排水路として使用されていた、いわゆる『落とし』でした。干拓された一帯は新田開発が行われ現代に至ってます。
同じく大平橋付近から
元荒川に戻って、野通川合流から約600m上流で再び川が合流します。
栢間赤堀(かやまあかほり)合流(久喜市菖蒲町柴山枝郷-蓮田市高虫境界)
栢間赤堀は農業排水路、かつては野通川同様、付近の沼の干拓排水路でもあったようです。
合流点には水の勢いを制御するための古い木杭がたくさん残っています。
正面の土手に簡単に移れないので栢間赤堀沿いに少し歩きましたが、人工的に掘り込んでひらいた、まさに『堀』が続いていました。延長は3㎞ほどしかないようです。
元荒川左岸側へ戻ってきました(久喜市菖蒲町下栢間)
左岸一帯は2010年まで菖蒲町、同年久喜市などと合併しましたが、菖蒲町地域は地名に久喜市『菖蒲町○○』と旧名を残しているようです。
ところで、元荒川はほとんど氾濫平野とよばれる低地、あるいは自河川の運んだ土砂でできた自然堤防の微高地を流れているのですが、このあたりだけは元々存在した台地を切り通して流れていることになってます。(治水地形分類図という地図でそれが分かります。)
注意して写真を見てみると、…まあ、そんな感じもするような、どうでしょうね…
さほど長い区間ではありません。また元の低地、微高地へ戻ったところ〈やっぱり、わからない〉
赤堀川合流
名前似てますが先ほど(栢間赤堀)とは別の河川です。
合流点は蓮田市、久喜市、桶川市の3市境界点。
また、この付近には綾瀬川の起点があります。
蓮田の宮前橋付近の元荒川解説板にあった、「堤防を築いて綾瀬川と元荒川を分離した」のがこのあたり。
その『備前提』位置の堤防は現在も存在していますが、対岸でもあり未確認です。
備前提に沿って流れを変え、現在元荒川に合流してくるのが赤堀川。綾瀬川の起点につながっているのが自然な流れの河川(農業排水路のような扱いになってますが)です。
赤堀川合流地点からさらにさかのぼって約600m、
久喜市菖蒲町下栢間
川が市境界で対岸は桶川市五町台。
前方は上が圏央道、下は大御堂橋、その向こうに重なって上越新幹線高架となっています。
いったんここで休憩。
地図、今回分は《元荒川(3)》紫色部分