散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

中神-立川基地引込線(中神引込線)線路跡を歩く

五日市鉄道の線路跡を拝島まで歩いた足で、中神(なかがみ)へ向かいました。

すでに廃線となっていますが、現在のJR青梅線中神駅から分岐し、戦時中の陸軍航空工廠、戦後の米軍立川基地への貨物専用引込線がありました。この線路跡をたどって歩きます。
この路線には正式な名称がないので、通りの名称にもなっている「中神引込線」と呼ぶことにします。

 

「中神引込線」について

戦時中に日本陸軍が敷設、中神駅より陸軍航空工廠に至る路線です。航空工廠は陸軍で唯一の飛行機製造所でした。

路線の建設計画、許認可文書、正確な開通時期などは文書資料がなく不明です。建設主体が戦時中の日本陸軍のためでしょうか。
1943(昭和18)年はじめに線路敷設の具体的動きがあり、同年10月には青梅電気鉄道による引込線の貨物運輸実績記録があります。(つまり年初に計画、同年10月には開通済み。)

建設時、線路敷地となった民間農耕地は強制的に接収され、買収、賃貸契約も行われませんでした。

戦後、陸軍航空工廠は立川飛行場とともに駐留米軍に接収され、一帯は米軍立川基地に組み込まれて航空機組立修理工場、洗濯工場、住宅区域などになりました。引込線も米軍立川基地への航空燃料、貨物輸送などに利用されます。

米軍立川基地には中神以外に、立川、西立川からも貨物輸送専用線がありました。

1977(昭和52)年、立川基地の全面返還により、中神引込線は1978(昭和53)年7月1日付で廃止されます。

基地外側の廃線跡は2000(平成12)年道路として整備、基地内部分はむさしの公園(2017(平成29)年開園)の一部となります。
引込線のあった立川基地跡北西側昭島市部分は法務省関連の諸施設や病院、宅地建設、むさしの公園整備などが進み、かつての基地遺構は残っていません。

 

中神引込線線路跡を中神駅からむさしの公園に向かって歩きました。

地図 緑色のラインが中神引込線

引込線線路は途中で2つに分岐し、基地西北端とそこから200メートルほど南側から基地内へのびていました。
引込線路線の延長は1.9㎞となっています。

 

青梅線中神駅通路北口から東側(立川方向)

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駐輪場、駐車場、その向こうへ引込線がのびていました。
駅構内の配線など詳細は不明ですが、1947(昭和22)年航空写真では駅北側に貨物留置用?の線路が何本かあったことが見て取れます。駅北口も当時はありませんでした。

 

駐車場端から駅舎側を振り返り

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引込線線路は現在の駅舎向こう側(西側)へも延び、駅ホーム端あたりで、本線線路との分岐があったかもしれません。

 

中神駅西側、ホーム端付近

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本線と引込線の分岐がこの付近にあった?

 

引込線跡を立川基地方面へ進みます。

中神駅東側踏切付近

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引込線は手前右の土が掘り返されてる部分を通って向こうの道路沿いへ出ていました。(こちら側にも本線との分岐ポイントがあったかも)

少し先から左(北)へ大きくカーブします。

 

線路が左カーブして方向を変える部分は現在住宅に埋もれ、線路の痕跡はありません。
左カーブがはじまるあたり

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左の壁下は多摩大橋通り、線路をくぐる立体交差部です。引込線線路はこちらの足元付近から壁のほうへカーブ、向こうの住宅が立ち並ぶ中へ入っていってました。

 

カーブの途中、痕跡はありませんが

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ちょうど左後ろ側から足元あたりを通過して、右側住宅敷地のどこかに線路は通っていたようです。

 

その後、線路はこの〈中神引込線通り〉に出る

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道路歩道付近に線路が通っていました。左へ立川基地方向です。

現在は標識もたてられているこの通りは2005(平成17)年に中神引込線通りと命名されました。

 

中神引込線通り、立川基地方向を見て

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道幅は結構広いです。もともと左側歩道から車道部分は道路が存在し、その右側を引込線線路が並行していました。それを一体化しています。

左側は現在団地(公務員住宅?)ですが、戦時中は航空工廠宿舎が建ち並んでいたそうです。

 

しばらく広い通りが続きます。

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無名の道路ひとつ横切った先で少し様子が変化

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正面が線路跡、もう1本、並行して左側は以前からある道路です。

 

分岐点やや手前から基地方向

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線路分岐点、〈中神引込線通り〉標示

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ここで引込線線路は左右2本に分岐していました。写っている道路がどちらも線路跡です。左へ行く線路は大回りして基地最北端から中に入り、右へ直進する方は小回り、左側線路の200mほど南側から基地内に入ります。

分岐点にモニュメントが置かれていました。

転轍機とレール(ちょうどポイント部分)のモニュメント

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近くに引込線跡案内板

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立川基地引込線跡
この道路は、青梅線中神駅から敷設されていた貨物専用の引込線廃線跡で、ここから北は2路線に分岐していました。引込線は、この地域の歴史を物語るように工廠線、あるいは立川基地引き込み線とも呼ばれました。
引込線が敷設されたのは昭和18年(1943年)といわれ、陸軍唯一の飛行機製造部門として昭和15年(1940年)4月1日に設置された航空工廠への資材運搬用路線でした。
昭和20年(1945年)太平洋戦争が終わると航空工廠を含む立川飛行場一帯はアメリカ軍に接収され、立川基地となりました。工廠線は、そのままアメリカ軍専用線(1.9km)として使用され、主に航空機燃料や重油が運ばれました。
立川基地は、昭和52年(1977年)11月30日、日本に全面返還され、引込み線も昭和53年(1978年)7月1日付けで正式に廃止されました。
このほど道路として整備したもので、レールや転轍機(ポイント変換機)は当時のものです。
平成12年(2000年)3月 昭島市
<右側航空写真>撮影 昭和22年11月14日

 

分岐点から、まずはじめに大回り線路のほうをたどりました。

分岐点先から中神駅方向をふりかえって

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正面中央部に線路分岐部のモニュメント。実際の分岐点はもっと写真奥のほうにあって2本の線路は緩やかに分かれていたと思います。
こちらの絵では右後方へすすみます。

 

立川基地へ向かって最初直線区間

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しだいに右カーブになって東向きに方向をかえ

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真東を向いたところで冨士見通りを交差

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横切る冨士見通りの向こうはかつての立川基地西北端、頑丈なフェンスが張り巡らされていたはずです。
現在は右の茶色っぽい建物、あきしま相互病院です。

前方へのびる道路の右側、病院敷地を通過していた線路、先は現在公園です。

 

むさしの公園、北端から

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左の道路との間が基地の境界、正面の歩道へ向かってもう少し線路はのびていましたが、すでにこのあたりは運んできた貨物をおろし、貨車を留置しておく場所だったかもしれません。
古い航空写真を見ると、のびた線路の南側に石油タンク(燃料タンク?)のようなものが2基写っています。

もう少し先で線路は残堀川流路とぶつかり、そこが北側大回り線の末端だったようです。

線路末端付近から振り返り

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背後に道路が横切り、残堀川がながれています。

 

いったん先ほどの路線分岐点へもどります。
次は分岐を右にいく小回り線路をたどります。

分岐点の先からふりかえって(中神駅方向を見てます)

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分岐手前からこちらはずっと直線で進んできます。

 

立川基地へ向かって右カーブがはじまりますが

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完全に向きがかわらないうちに冨士見通りに交差

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通りを斜めに横切り、むさしの公園の中へはいっていきます。
公園部分がかつての立川基地内です。

 

公園内は特定の場所以外、線路の痕跡は残っていません。

この正面付近を線路はまだカーブしながら通っていたはず(公園西側を見て)

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公園中央部を貫通する道路を越えて東側で
基地跡地に残っていた引込線レール

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レールは(いろいろ処置が施されていますが)当時のものだそうです。このあたりで引込線は分岐していたのですね。

 

小回り線のほうも残堀川のほとりまで延び、そこが末端となっていました。

末端付近に線路のモニュメント

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向こう側を横切るのが残堀川。

 

反対方向から

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廃線跡モニュメント」について
この廃線跡モニュメントは、当地区で実施した立川基地跡地昭島地区土地区画整理事業(施行者:独立行政法人都市再生機構)で整備した「昭島市立むさしの公園」の休憩施設として設置したものです。
この施設は、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)に敷設されたとされる青梅線中神駅からの資材運搬専用線跡が土地区画整理事業着手時に残存していたため、土地の記憶や歴史を継承する目的で当時の敷設位置にレールやバラスト等を再利用しモニュメントとしたものです。
このほか、むさしの公園内には、舗装モニュメントとして当時の軌道上にレールを一部残しています。
平成29年3月 昭島市

 

中神引込線は以上です。

 

この後、立川基地跡の様子を見ながら、外周の一部に沿って歩いてみました。

立川基地跡西端を南北に貫く冨士見通り、中神引込線が基地へ進入する少し南側に、人と車両が出入りするためのゲートがありました。基地内、門の近くに衣類洗濯工場があったので名前は"Laundry Gate"。

少し前、(id:maicou さん)ブクマコメント頂いてました。ここまで来てたら見てきますとも。

有名にしたのはユーミンさんの初期のアルバムにある曲、「LAUNDRY-GATEの想い出」ってことでよいのでしょうか。

ここにありました。

現在は冨士見通りバス停があるところ

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バス停名は基地返還後の1998年11月まで「ランドリーゲート」でした。

かつての基地側を見ています。当然、現在ゲートはありません。左側の建物は「国際法務総合センター職員宿舎」、正面奥隠れぎみですが「東日本成人矯正医療センター」。

かつての様子は詳しく知らないのですが、歌詞の内容から想像すると、錆びた金網と風の吹く寂しい風景がずっと続いていたのでしょう。

この一帯、もう徹底的、完膚なきまでに変わってることはわかります。

ゲートのあったあたり、冨士見通りの基地跡側歩道には水が流れていました

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わずかな距離でおわり

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冨士見通りバス停から、通りの南方向

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先へ歩いて行くと、基地跡の敷地に法務省関連の建物がいくつか集まっています。

ここは国際法務総合センター・矯正研修所入口

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基地跡、さらに南側には今のところ何もありません。

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冨士見通りを南下すると青梅線東中神駅前へ出ます。
基地は青梅線線路が南端、次は隣りの西立川駅まで歩きました。

そちらへ歩くと基地跡には現在昭和記念公園が広がっています。

公園南西端付近

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西立川駅から昭和記念公園西立川口へ向かう通路

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ここで再びユーミンつながりとなりますが、手前ゲートを入った右側にひとつの歌碑があります。

雨のステイション

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とりあえずこの日はここまで。