江戸城桜田門からの中原街道歩き、日を改めて3日目。徳川御殿のあった平塚中原まで歩きました。
スタートは桜ヶ丘、現在の町名では大和市福田からです。
中原街道歩き3日目足あと地図
2日目の離脱ポイント、中原街道と国道467号桜ヶ丘交差点の1つ西側の無名交差点へ戻ります。
すぐに小田急線踏切を渡ります
坂道を下ると引地川、
新道下大橋を渡ります
国道交差点や踏切が連続して街道は渋滞気味、一瞬の間隙をついて撮りました。
向こう川下には桜並木が続いています。
坂道を今度はあがると旧道が分岐しているのでそちらへ入ります。
旧道にしては道幅広いですが、なぜか新道建設後に拡張されているようです。
中原街道は現在の厚木基地のなか、厚木飛行場滑走路南端あたりを貫いて通っていました。戦後米軍に接収され、飛行場滑走路を延長した際にその外側を迂回する形に改められています。
基地南端で新道と合流します。
新旧道路合流地点と厚木基地フェンス
これから行く道の先に富士山、大山も見えています。
厚木飛行場滑走路の南端あたりから
滑走路への進入灯は基地の敷地をこえて、南側にある市の公園内にも延びていました。
また、このあたりが大和・綾瀬市境界。市が変わることが原因ではないですが、この先は単調であまり変わり映えのしない風景のなかを歩いていきます。
そして綾瀬市内の中原街道は別称”春日新道(かすがしんみち)”。市が近年一般公募を行い呼称を変更したそうです。古道の名称は時代によって変化することがありますが、この名前は定着するでしょうか?
正面は大法寺という寺院、それより交差点角のピラミッドが目をひきます。よく見ると大小2つあります。
地元ミニコミ誌記事によれば、こちらの寺院が最近(2019年)建てたもので、小さな石を100段積み上げ、地下は逆三角錐の穴が設けられているそうです。永代供養塔で内部に納骨室と礼拝用の空間があるとのことです。小さいピラミッドはペット用納骨塔。
別情報ではこれ、”ぴらみ堂”。
車が1台走ってる道が中原街道、その向かっているのが東京方面です。
綾瀬市落合北付近
勾配もなく、道路も真っ直ぐ。相模野台地上の平坦部、この付近の道は昔から一直線だったようです。
平坦だった道路が坂になった途中に"JIMNY MUSEUM"と書かれた建物が出現しました。
ジムニー歴史館
窓から1台黄色い車体が見えてます。こちらジムニーフリークな方が2018年、私設博物館を建ててしまったようです。内部はガレージのようでたくさんのジムニーが展示されているのが見えました。
街道の坂道、下って歩いてます。
坂の下で東海道新幹線を交差してくぐり、今度は上り坂を登りきると”用田辻”、昔からの街道辻に出ます。
最初は神奈川県道22号用田バイパスの新用田辻交差点、続いてすぐその旧道との用田交差点です。
用田辻、用田交差点から
車がたくさん走っているのが中原街道、向こうへ東京方向になります。交差しているのは柏尾通り大山道と呼ばれた、東海道戸塚宿付近から大山へ向かった道です。
大山道を歩いたときにも紹介しましたが、この辻、上の写真の背後に大山道でよく見る不動明王を上にのせた道標があります。今回も出しちゃいます。
用田辻の大山道道標、とその他石塔
すでにほとんど判別できません。正面に「右大山道」、他の面には「北 江戸志んみち」「南 一之宮みち」これが中原街道を表しています。1775(安永4)年の建立。その当時で志んみち=新道、と呼ばれたのですね。
下の道標部分、風化がすすんでいるにもかかわらず、不動明王像はそれほどでもないので、のちに載せ替えられたのでしょうか。金具で補強もされているようです。
中原街道へ。
また平らな台地に一直線の道(藤沢市宮原)
丸太を薄くスライスして塀にしてます
入口に「植木屋」とありました。単調な道にアクセント。
用田から3㎞弱、ほぼまっすぐな道を行くと寒川町との境界標識が現れます。
その少し先に立派な長屋門の残る家がありました
門の左側には黒塀が続き、敷地はかなり広いようです。
門の右側で現中原街道(県道45号)は少し左にカーブしていますが、ここで分岐する形で真っ直ぐに進む細い道があります。そちらが古くからの中原街道ではないかとも推測されています。
古くからの中原街道?との分岐
現在はそちらへはいっていくとすぐに日産工機の工場に突き当たって道が消滅しています。(自分の憶測ですが、工場が出来る以前の地図を見ると、こちらを通って相模川田村の渡しに出る道すじは至極真っ当なものに思えます。今回は別ルートが描かれた地図を参考にして歩きました。)
県道45号である方の道を先へ進みます。そちらも少なくとも明治時代には存在していた道ではあります。
道は寒川の街中へと入っていきます。
JR相模線寒川駅の東側で線路を越えるとその先で道は突き当りのT字路交差点となります。
T字路手前の道路と標識
県道45号丸子中山茅ヶ崎線は先を左折します。川崎市中原区の丸子の渡し付近からずっと歩いてきた、現在の中原街道とはここで分かれます。
現在の中原街道は相模川を渡らずに茅ヶ崎へ通じています。
T字路横にある景観寺
左奥の道からきて交差点に出てきました。県道45号は左折、写真位置では右向こうへと行きます。手前門前を横切るのはこれから進む県道44号、かつての田村通り大山道でもあります。
ここから大山道と合流して相模川田村の渡しまで進みますが、昔の中原街道としては、大山道からすぐ離れて南へ向かい、相模川を田村より下流側、四之宮渡しで渡っていたとする道すじも推測されています。
四之宮の渡しへ出る道も現在は工場などが立ち並び、消滅しているようですが、推測される道すじは直線的で、中原街道がほぼ直線的になるよう整備されたとする当初の方針によくあうように思えます。
というより景観寺前まで出て田村の渡しまでUターンするようなルート設定は上記の方針にあわないのですが、今回はひとつの地図を深く検討せず参考にしてしまったので。
ここから田村の渡しまではかつて田村通り大山道として歩いたので、そちらへのリンクをはっておきます。(今回も歩きましたが)
相模川は神川橋で渡りました。
神川橋から南側、田村の渡しがあった方向
左が寒川側、見えている河原のどこかに渡し場があったのでしょう。現在この付近河原への出入りがしにくく、推定される渡し場跡には寄っていません。
一方の平塚側は神川橋すぐ近くに渡し場がありました。現在、碑もたっています。
田村の渡場跡碑など
向こうにちょっと見える解説を
田村の渡し場
田村の渡しは、中原街道と大山道の二つの往還の渡しでした。中原街道は中原村と江戸を結んだ脇往還で、大山道は藤沢・江ノ島からの大山参詣のために使われた道です。
渡し場のある田村は、この両往還と平塚から厚木へ向かう八王子道が交差する所で、旅籠屋などもあり「田村の宿」とも呼ばれていました。
渡船場の業務は、田村と対岸の一之宮村・田端村(寒川町)の三か村が勤めていました。
また、田村の渡し場付近は、大山・箱根・富士山を眺望することができ、景勝地としても知られていました。
平成十三年(二〇〇一)三月 平塚市
川を渡った街道は田村十字路に出ます。八王子道と大山道の交差点。
現在の田村十字路交差点
右が相模川(渡し場)、中原街道はここで左折(最後尾だけみえてるバスの向かう方向)して八王子道に合流します。まっすぐ行けば大山道、前方は八王子道八王子厚木方面です。
古くからの交差点で正面には道標などが複数建ってます。
しばらく八王子と平塚を結んだという八王子道を南下します。
田村駒返橋跡の碑など
今は流れる川も橋もありません。橋跡碑の後ろは庚申塔、祠の中は道祖神など。いずれもそれほど古くはないような石塔石仏と思われました。
もう少し先には一里塚跡の碑があるのですが、見逃したようです。
平塚中原から一里を示したもので、徳川家康の日光改葬により道が整備された際に造られた、御尊櫃御成道(ごそんびつおなりみち)の一里塚ではないかといわれています。諸説あるらし
さて、この先は街道筋がはっきりしません。
一里塚より八王子道をさらに南へ、現国道129号と接する四之宮交番前交差点まで下ると、国道を渡りその西側へ出ました。
地名にもあるとおり、このへんまで来ると四之宮の渡しを通ってきた道とも合流してくるはずで、平塚中原へ向かうには現在、昔の道が完全に残っていなくても推定は難しくありません。
戦後、碁盤目状に区画整理された中、かつての道が斜めに現れている場所です。
平塚市四之宮6丁目、右向こうへの古い道
右へ入ると右端に見えている民家の庭の中に「中原街道」と刻まれた石碑、その隣りには令和元年十月建立とある「水戸光圀公礼状受領記念碑」、1650年に酢を献上し礼状を頂くという内容。そういえば中原街道の別名に”御酢街道”というのも。このあたりで醸造し、江戸へも運ばれていたようです。
その先に真土(しんど)神社があります。
地図から古い道すじを想像すると、神社前は通っていないようですが、北西側にのびる参道に「古道中原街道」の碑や説明文などもありました。
(調べてみると)真土神社自体は明治に入って地域の神社を合祀してここに建てられたとのことです。
真土神社参道から
奥に神社拝殿、参道左の石、正面には「真土神社参道」、左面に「古道中原街道」の文字。
右の中原街道の右隣りにはもうひとつ、真新しい”真土大塚山神獣鏡の碑”が建ち、付近の真土大塚山古墳から見つかった鏡のレプリカ(石に模様を線刻したもの)もはめ込まれています。
真土大塚山神獣鏡の碑
文字が見にくいので代わりに読みます。
真土神社の北西四百mにあった真土大塚山にはかつて古墳時代前期の古墳があり昭和十年ここから神獣鏡が出土した。経二十二・一cm青銅製の三角縁四神二獣鏡である鏡の縁の断面が三角で東王父や西王母など四体の神仙像と龍と虎の瑞獣二頭が彫られており周囲に「陳是作鏡甚大好上有王父母左有倉龍右白虎宜遠道相保」の文字が刻まれた銘帯がある同笵鏡が京都や岡山などから四面出土しており真土が大和王権と深い繋がりがあったことを示す貴重な資料である 私たち真土地域はここに碑を建立しこの郷土の宝を未来に伝える
(代表名省略) 平成二十六年十二月吉日
街道もろもろ賑わしたいのエネルギーを感じる一帯でした。
中原御殿にはもう少し、西へ進みます。道は相変わらずはっきりしておらず、参考にした地図に従って歩きます。
真土神社から2.5㎞ほど行くと平塚市中原、県道61号(平塚伊勢原線)との中原二丁目北交差点に出ました。
中原二丁目北交差点から西方向
右側歩道奥に「中原上宿遺跡」の石碑があります。左右(南北)に横切る県道新道建設工事時に、弥生時代から奈良平安時代の集落、住居址などが発見されたというものでした。
現県道を一本奥に入ると並行する道路があり、そちらが県道の旧道でもあり、中原街道でもあるのかな?、どこで中原街道が合流していたのかはっきりしませんが。
その道に沿って南北に”中原宿”が形成されていたようです。上宿、下宿の2つに分かれ(バス停も中原上宿、中原下宿の2つ存在、その間に中原御殿バス停)、その規模は大きいように感じます。
中原御殿バス停付近
中原街道と呼ばれた道は上宿から下宿を通って、その先は東海道大磯宿へとつながっていたとされています。
上、下宿の中間あたりで街道から直角に分岐する道があり、そちらが中原御殿へつながる大手道と呼ばれています。バス停先の信号を右折です。
その角には”中原宿高札場跡”
(解説文は一般的なものにつき省略)
大手道を奥に
御殿の跡地は現在、平塚市立中原小学校、周辺一帯の現町名は”平塚市御殿”です。
学校敷地の端に大きな碑があります
諸説あるようですが、中原御殿は1596(慶長元)年から1657(明暦3)年の間、存在していました。
近くにある「中原御殿跡と遺構」、発掘の記録など
(こちらも文字起こししてません)
御殿は中原小学校の敷地よりも広かったようですが、
校門前から内部を
一般住宅で埋め尽くされた御殿跡まわりを一周してみましたが、痕跡らしきものは見つけられませんでした。
御殿前から大手道をふりかえって
この道は御殿が存在した頃、一般人にはほとんど無縁のものだったでしょう。
向こうの突き当りが街道になります。
中原街道の古い道は東海道大磯宿へつながっていたということですが、この日はだいぶ歩いて疲れた事もあり、距離的に短い平塚宿へ歩きました。
東海道の道すじへ出て
平塚宿本陣旧跡(標柱)
高札場跡碑
平塚宿跡は太平洋戦争時の空襲などで焼失し、目ぼしいものはほとんど残っていません。
実際に街道を歩いてみると、当初参考にさせていただいた記録資料とつじつまがあわないことが出てきました。
脇往還のため宿場は置かれなかった、東海道に比べて起伏勾配が少ない、などは補足必要かなと感じますが、とりあえず、本ノートの記述はそのままにしておきます。
過去分