野火止用水を歩く 下流の暗渠水路を辿って

今回は野火止用水の暗渠歩きです。

野火止(のびどめ)用水は江戸時代前期明暦元年(1655)に玉川上水の分水として開削され、現在の東京都小平市から埼玉県新座市野火止を通り、志木市内で新河岸川に落とされる長さ24㎞の用水路で、かつては飲料水や田畑灌漑用水に利用されていました。
川越城主松平伊豆守信綱によって自領地に引水されたということで『伊豆殿堀』とも呼ばれています。

用水は20世紀半ばまで利用されてきましたが、周辺都市化による汚濁が深刻化したことで流れは一時途絶えます。しかしその後、玉川上水野火止用水などにかつての水流を復活させる東京都の清流復活事業により部分的に通水が復活しています。

自分は2017年春に野火止用水水路のスタート地点となる玉川上水との分水点から埼玉県新座市志木駅近くまでをたどり、ささやかながら以下2ノートにまとめもしました。

野火止用水を歩く 1/2 - 散歩の途中

野火止用水を歩く 2/2 - 散歩の途中

このときは流末の新河岸川まで到達できなかったのですが、理由は水路の痕跡がなくなってしまったからです。

かつての野火止用水新座市内に入ると水路がいくつかに分流し周辺一帯に水を供給していましたが、都市化が進むにつれて水路網の暗渠化、廃止埋立てなどが進み、地上の痕跡も消えていきました。

そのため再訪問をずっと放置した形になりましたが、本流の途中で分岐した水路のひとつ『平林寺堀』は痕跡を辿りつつ末端の新河岸川まで追いかけられる事が確認でき、
〈前置き長いな〉

ということで今回まずは痕跡の残る支流の『平林寺堀』を末端の新河岸川までたどります。

 

本流と平林寺堀の分流点(2017年4月)

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新座市本多、現在は野火止用水史跡公園となっている場所に分流点が再現されています。
右へ分けられているのが平林寺堀、流れ下って平林寺境内(松平伊豆守信綱の墓所がある)を通り、野火止地区でまたいくつか分水されたりして朝霞市西部志木市境界付近を流れて新河岸川に注いでいます。(「いました」が正確ですが)

 

飛んでJR新座駅前へ。

駅前にある水車

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駅前には野火止用水を再現した水路があり水車が置かれています。水車停止中の札がかかってますけどね。

 

駅前からの歩道にも水路

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これは正確には野火止用水の水路跡ではなく、都市整備の一環として最近設けられたものではあります。「野火止用水 ふる里小道」と標示されていました。
この歩道を歩いて行くと野火止用水水路跡に出ます。

 

野火止用水公園近くの歩道

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歩道がかつての水路跡ですが流れはここも復元されたもの。

分水されたいくつか用水路支流跡を横断し、東の方を流れていた平林寺堀の流路跡に出ます。

 

ここは野火止大門交差点

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前に立つ石柱、反対側正面には「金鳳山平林禅寺」と刻まれ、背後へ平林寺参道が総門まで1500mほど続いていました。

現在も道路名は平林寺大門通り、平林寺総門から途中の新座市役所前まで現在の平林寺堀が開渠で通りの脇を流れているのを確認できます。(市役所前からこちら側は現在暗渠か途中で下水路に落とされている?)

かつての野火止用水流路を表した地図を見ると、ここで水路も十字に交わっていました。分水の拠点のひとつだったようです。
現在、水路痕跡はありませんが平林寺堀としては道路正面方向へ流れ下っていたようです。

横切る旧川越街道の向こう、きれいな茅葺き屋根が見えます。保存住宅かと思ったのですが現役の民家〈言い方変です〉でした。

 

この先の平林寺堀は左右に細かく折れ曲がりながら下っていきます。痕跡はあちこちに現れるようになりますが、さすがに様々な改修を受けているので江戸時代のままというわけにはいきません。

凸版印刷工場南側の堀痕跡を見逃したものの、マンションと住宅のあいだに残るこちらはチェック。

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ほんの100mほどですが堀の痕跡です。

背後下流方向は堀跡が埋められて一般道路になってます。JR武蔵野線高架をくぐると朝霞市に入ります。

道路のカーブが流路跡

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その先右側には用水路護岸と柵が残ってます

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昭和に入ってからの改修のあとでしょう。
道路部分が水路跡、今は建物になっているところに通路のようなものがあったのでしょうか。

 

さらに住宅地の中をくねくねと折れ曲がり、朝霞市三原5丁目から4丁目あたり。
狭い道路にやや不自然につく歩道が流路跡

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いわゆる暗渠上の歩道。

正面の交差点付近、暗渠道で時々見る道路真ん中の植え込み、そしてここには大きな碑がたってます。

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碑の正面上部には「野火止用水堀跡記念碑」の文字。碑文は野火止用水の歴史、経緯、流路、そして感謝の意などが刻まれています。
建てられたのは1983(昭和58)年とさほど古くはないです。

 

上の写真ですでに予感がありますが、この先マニアックな道に入ります。

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正面の家の前で左折すると

こちらへ出てきます

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いったん一般道に出て(歩道部分)左の方へ進みます。

またすぐに折れて細道へ

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入って200mくらい行くと三原通り志木陸橋交差点に出ます。

三原通りを渡ってからふり返り

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正面電柱左、低いフェンスが立ってる手前側が暗渠道、車止めを越え、三原通りを渡ってこの足元へつながります。

 

その背後はU字溝の細道、しかも急に折れて

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正面2つのマンションの間へと入っていきますがその手前

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文字が逆さで見にくいですが「水路しき(水路敷)」とあり、れっきとした水路だよと申しております。

 

道路を渡って建物の間に入っていくとそちらも迷路のよう

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正面つきあたりの左から入ってきました。生垣伝いに右へ、さらに左折して手前の建物をまわり込み、あとはよく覚えてないけど

電車通りにでました

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東武東上線、後ろに志木駅です。

正面に階段の下り口、線路を渡る地下道があるのですが、そこがまさに流路跡。くぐって線路反対側に出ます。

 

左の細い地下道入口から出てきていま公園の脇

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左奥から足元に向かって流路跡になります。

この背後、慶應義塾志木高校の広い校内を流路跡が通過しています。

学校北側にまわって流路跡付近を覗き込んだところ

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奥のほうが低いのですがすぐ手前が流路跡のようです。左から右へ流れ、左下木の根元に少しだけ見えているものが橋跡の一部と解説されているのを見ました。

《追記》当初この付近はいちばん低い場所が水路でしたが、後に流路を変え、一段高い所に移して水車を回せるようにしたということが慶應志木高校のサイト中に記されています。

 

慶應志木高校北側のユリノ木通りから

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左側が慶應志木高校、道路は前へ向かって窪んでいますが高校から出てくる用水路の流路は谷底ではなく、道路右側の黒い車の後ろあたりを横切っています。引き続き谷底より少し高い位置を維持して流れていってました。

 

そちらへまわると奥へ歩道が続きます。

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足元が流路跡、ここも正面奥の家が流路より低い位置にあります。この先も斜面の途中に水路を開いていったことがわかる箇所がいくつもあります。

 

上の写真の100mくらい先

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右が高く左へ行くほど低い、斜面の途中ですね。

 

その先道路わきの暗渠道となり

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え、そこへ入るんですか?

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水路跡はまた普通に見る側溝タイプに。

 

ただ、通っている場所がだんだん怪しくなります。

結構な斜面に多数の排水パイプ

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うわっ、でかいのも

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パイプはどれも今は使われていないはずです。

段差も大きい。こんな暗渠ははじめてかもしれないです。

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しばらく行くとヒューム管につなげられて坂を下ります。

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下から見上げて

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ここで斜面途中から一気に下ってます。もう谷底まで下ろしても水は川へ流せるという計算でしょう。

そしてここ、下りていく途中で流れが分岐してます。(そちらの先も追いかけましたが省略)

 

一方の流れはいったん普通の道路を横断して、また正面さらに変なところへ入ります。

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奥の道へ行くと、ぬぬ、こんなところで違う流れと合流してる

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正面で合流し右へながれていきます。

その先は果たして通ってよいものか躊躇し、撮影も遠慮、気配を消して前進します。

 

ようやく先が見えたところ

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息苦しかったです。通れちゃったものでことさら。

一番奥は新河岸川の堤防、その手前に『冨士道』と標示のある道路が通ってました。

 

堤防に上がって見返して

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右正面奥すき間から出てきています。

 

同じく堤防上から

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左が新河岸川、前にあるのは平林寺堀の放流用樋門ということになります。(ほかの雨水下水路なども集めてあるのかもしれませんが結構大きいです。)

めでたく堀の末端までたどれました。現在はまさか全部つながっていないと思いますが、以前は多摩川羽村堰から来た水が延々流れて最後余った水は新河岸川に注いでいたのですね。

 

ヒューム管で落とされる途中分岐した流れもここから600mほど下流、宮戸橋近くで新河岸川に注いでいました。

そこの樋門だけ

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最後に野火止用水の本流とおもな支堀の流路地図に今回歩いたコースを併せたものを置いておきます。

オレンジのラインが今回歩いた足あと、緑、青色系のラインは水路です。