赤坂御門(見附)からの青山通り大山道は三軒茶屋まで来ると2つに分岐します。ひとつは現在の世田谷通りを進み、世田谷上町を経由する(登戸通)道、もうひとつは現在の国道246号玉川通りに沿って進み、中里、桜新町、瀬田などを経由する(二子通)道です。
国道246号に沿って進む道は江戸時代中期、文化、文政年間にひらかれた新しい道で、私が最初にこの大山道を歩いたときはそちらを通りました。
そのときのノートへのリンク
世田谷通りを進む道はそれよりも古くから存在した道で、江戸時代初期まではそちらが本道でした。また本道と新道は用賀付近でいったん合流しますが、その先二子の渡しに向かってまた分岐して2つの道が存在します。
今回は世田谷区内に存在する2つの大山道(矢倉沢往還)、まだ歩いていなかった道を改めてたどってみました。
矢倉沢往還・青山通り大山道 足あとライン《三軒茶屋から二子の渡し・初期の道すじ》
今回は三軒茶屋交差点から歩き始めます。
三軒茶屋交差点と駅出入口
交差点、世田谷通り側から渋谷方向を見たものです。
駅出入口、ガラス越しに大山道の道標が写ってました。
大山道道標(右側面)
正面に大きく”大山道”、小さく”左 相州通”、こちら側面は”右 富士 世田谷登戸道”とあります。反対側面には”此方 二子通”です。横の解説にも書いてあります。「年代」以降を文字起こし。
年代
寛延二年(一七四九)、文化九年(一八一二)再建
伝来
大山道は、矢倉沢往還の俗称である。この道標は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政期ごろに開通したといわれる新大山道(桜新町経由)との分れ道にあった石橋楼(三軒茶屋の地名の起こりの茶屋の一つ)の角に建てられていた。
大山は、古い民俗信仰である石尊信仰と山岳仏教の信仰とが結合し、さがみ野修験道場として重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化文政期以降は江戸町人などの大山詣りが盛んになり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。
この道標は、玉川電車の開通や、東京オリンピックの道路の拡幅などにより点々と移されたが、昭和五十八年五月に三軒茶屋町会結成五十周年記念事業の一つとして、元の位置近くに復された。
備考
一、この道標は、本来は渋谷方面に向いて建てられていた。
一、相州通・二子通は、ほぼ現在の玉川通りである。
一、富士・世田谷道・登戸道は、ほぼ現在の世田谷通りである。
昭和五十九年三月 世田谷区教育委員会
富士・世田谷道・登戸道へ進みます。
三軒茶屋商店街と世田谷通り
少し先
アーケードのある商店街の先はずっと並木道になっています。
世田谷区役所の近く
若林から先はいちょう並木が続きます。
道沿いにこれといった昔の名残りは見つけられず、現代の街道を淡々と歩いて行きます。
世田谷駅前交差点
交差点向こうには円光院、その隣りにも大吉寺というお寺があります。
ちょうど世田谷線電車が踏切通過中でした。
ここで世田谷通りを左折、上写真では手前、背後へと進みます。
そして100mほど先のT字路を右折し、通称ボロ市通りに入ります。
ボロ市通り
12月、1月のそれぞれ15、16日に「世田谷ボロ市」が開催される通りで、その時はすごい人出になりますが、普段は静かです。
通り沿いに世田谷代官屋敷があります。通ったときは屋敷が修理工事中で門も閉まっていました。
表門近くから
こちらは彦根藩世田谷領代官を務めた大場家の居宅です。
足場が組まれて重機も入っており、大掛かりな工事が行われています。案内では11月30日頃まで見学できないとのことです。
敷地に建物が取り込まれるように古い薬店がありますが、そこも工事中?
ボロ市通りは西側で世田谷通りに合流します。
桜門の標示があります。
いったん世田谷通りに出ますが、すぐに旧道が分かれます。
桜小前を左に入ります
ちょっと行ったところに石標がありました。
大山道道標”レプリカ”
元々は登戸道との分岐点で、ここに「大山道」と書かれた道標があったのですが、本物は世田谷郷土資料館(代官屋敷の隣り)に移され、ここに同じ形の碑を置いたそうです。
現在の碑に刻まれている銘文も「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す」とあり、それはたとえば”メリークリスマス”って刻まれているのと同じような違和感が…
左へ進みます。
蛇崩川跡の小さな公園に大山道の旅人像があります。
蛇崩川と鎌倉街道中道、そして今回、旅人さんこのノートへの登場は3回目です
2年前の春には右手に扇子を持ってましたが、失くしちゃったようです。証拠写真が下のリンク先にあります。
横の解説、まだ文字を起こしてなかったのでしました。
大山詣 おおやまもうで
江戸時代中期、関東一円の農村には雨乞いのために、雨降り山とよばれる丹沢の大山に参詣する習慣がありました。これを大山詣といいます。赤坂見附から、青山、世田谷、二子、溝ノ口、長津田、伊勢原を経て大山に至るこの道は、俗に大山道とよばれていました。世田谷区内の大山道は三軒茶屋、世田谷通り、ボロ市通り、そして弦巻を経て用賀、二子玉川に行っていました。
しかし、大山詣はしだいに、信仰は口実となり、帰り道東海道に出て、江ノ島や鎌倉で遊ぶ物見遊山の旅に変わっていきました。この像は、そんな大山詣をする商人の主人をモデルに、たぶん一服しただろうと思われるこの場所に設置したものです。
昭和六十年三月 世田谷区
この先、道はほぼ直線で、住宅地を南西方向に向かって進みます。
世田谷区上用賀1丁目付近、来た方を振り返って
あと4~500m先へ行くと、三軒茶屋で分かれた二子通、新道との合流地点に出ます。
大山道追分の碑・新旧大山道合流地点
前回は碑の前に立って反対方向を写しました↓が、この日はごみ収集日じゃないようです。
矢倉沢往還・青山通り大山道を歩く その1 赤坂御門から二子の渡し - 散歩の途中
新旧2つの道が合流して前方へ進みます。
この先東急線用賀駅近くを通り、田中橋を渡ります。その少し先まで新旧街道は同じ道筋です。
延命地蔵尊
ここで道は再び2つに分かれます。分岐の理由ははっきりしません。
今回は右に写っている慈眼寺ルートと呼ばれる道を行きます。
ちなみに前回通った方は行善寺ルート、どちらも道沿いにあるお寺の名前を冠しているようです。別ルートとはいえ現在の国道246号をはさんでそれほど離れてはいません。
道なりに歩いて行くと
慈眼寺(じげんじ)の前へ
ここで左折し急坂を下りて行きます。多摩川が削った国分寺崖線の坂道です。
慈眼寺に隣接して瀬田玉川神社があります
坂をおりると丸子川(六郷用水)を治大夫橋(じだいゆうはし)で渡ります。
治大夫橋
親柱のサイドに”大山みち”が描かれています。(右側、小さい)
その先通りは二子玉川商店会です
”にこたま”でもこちらは昭和の香りも残る古い商店街です。
そして多摩川の河原へと出ていきます。
多摩川外堤防の土手の上から街道を振り返って
堤防の土手、二子玉川駅方向を見て
ここから二子の渡し場へ出るのですが、駅を越えた少し先になります。
推測ですが、時期によってはこの付近に渡し場があったことも考えられます。多摩川のような大きな河川で氾濫などがあって地形や流れが変わると、渡し場の位置もあちこち変わるからです。多摩川の手前で道が2つあるのもそれに応じたものかもしれません。
この位置から多摩川河原へ出ると
兵庫島公園
正確には橋の下を流れているのは野川です。
そこから下流側を見ると
二子玉川駅、二子橋付近の多摩川&野川(橋の下で合流してます)
この向こう側に「二子の渡し」碑が残る、渡し場がありました。
ここから先は前回歩いたノートにつなげます。