散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

六郷用水を歩く その1 多摩川取水口から次大夫堀公園まで

六郷用水は武蔵国多摩郡泉村(現:東京都狛江市元和泉)の多摩川から取水し、世田谷領、六郷領(現在の狛江市、世田谷区、大田区)に至る、延長23㎞の用水路。当時49の村へ主に農業用水を供給した。建設を指揮した小泉次大夫の名を取って「次大夫堀」とも呼ばれる。
工事は1597(慶長2)年にはじまり、14年(16年とも)かけて開削された。途中、野川、仙川などの水も取り込み、また下流側では何本もの堀に分岐して、流路は網の目のようになっていた。
1945(昭和20)年に用水は廃止されているが、一部は丸子川として流れが残っていたり、水路が再現された歩道や公園になっている場所もある。

今回、この六郷用水跡を起点の多摩川取水口付近から下流へ向けて歩き、途中で分岐する多数の堀のなかから、何本か代表的なものをたどってみた。
最初、その1では起点の多摩川取水口付近と周辺から、旧野川合流地点を通って、次大夫堀公園までのノート。

六郷用水流路地図

まず多摩郡泉村(狛江市元和泉)、多摩川からの分水口があった六郷用水起点へ向かう。

アプローチを小田急和泉多摩川駅とし、多摩川堤防のうえを歩いて行くことにした。
和泉多摩川駅

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多摩川左岸を15分ほどさかのぼると六郷用水を取水していた場所へ出る。

取水口付近から多摩川上流方向

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昔はこの付近、上流に向かって川幅が広がっており、人工的に堰を設けていたため、川が湖のようになっていたという。そこから水が用水路へと導かれていた。

現在、取水口の痕跡はないが、付近に碑による説明がある。
取り入れ口の碑

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文字を起こした。

六郷用水取り入れ口
六郷用水は、徳川家康の命により慶長2年(1597)から16年にかけて代官小泉次大夫吉次によってつくられた灌漑用水路で、次大夫堀とも呼ばれています。
この用水は、多摩川の水をこの辺りで取り入れ、市役所の裏で野川と合流し、世田谷区を経て、大田区に至り、全長23㎞に及びました。市内でも和泉、猪方、岩戸の水田に利用されてきましたが、この辺りは昭和40年に埋め立てられました。
写真は、多摩川から見た取り入れ口で、右側が現在地付近、左側が玉翠園で、昭和初期のものです。
平成3年3月 狛江市教育委員会

碑の近くに
水神社

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鳥居手前左側に”由緒”があった。

水神社由緒
鎮座地 狛江市元和泉二丁目三一八〇番四号
御祭神 水波能売神(みずはのめのかみ)
 順正院宗可日久旲神(小泉次大夫)
此の地は寛平元年(八八九年)九月二十日に六所宮(明治元年伊豆美神社と改称)が鎮座されたところです。その後天文十九年(一五五〇年)多摩川の洪水により社地流出し、伊豆美神社は現在の地に遷座しました。この宮跡に慶長二年(一五九七年)水神社を創建しその後小泉次大夫により六郷用水がつくられその偉業を讃え用水守護の神として合祀されたと伝えられる。明治二十二年(一八八九年)水神社を改造し毎年例祭を行って来ました。昭和三年(一九二八年)には次大夫敬慕三百四拾二年祭を斉行 もとより伊豆美神社の末社として尊崇維持されて来ました。
平成十二年九月吉日 伊豆美神社禰宜 小町守撰

神社は六郷用水より以前から存在したが、完成後はその偉業をたたえ、用水の守護を祈念するものとなったということかな。

用水取り入れ口の碑文の中にあった、料亭「玉翠園」の多摩川の玉石を使った石垣が部分的に残っている。
玉翠園の石垣

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この石垣にも絵入りの解説があった。

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玉翠園の石垣
玉翠園は、明治39年(1906)に井上公園として開設され、大正2年(1913)には公園内に料亭『玉翠園』が開業、以後、玉翠園と呼ばれていました。
多摩川の向こうに富士山などが遠望でき、多摩川で船遊びや川魚料理を楽しめるので、京王線小田急線を使って東京からのお客さんで賑わうとともに、台東区下谷の小学校の林間学校などにも使われていました。
この地点は、玉翠園の石垣の一部分です。

絵の右側にあるのが六郷用水の取り入れ口だろう。

料亭のあった敷地は現在小さな公園や普通の住宅地になっていた。絵の中には描かれていないが、石垣左側には小さな川(根川)が多摩川に合流している。

根川、玉翠園元敷地内から

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取水口付近は、北側へ蛇行していた昔の多摩川が台地を削り、削られた下の部分には現在多摩川団地が建っている。台地と古い流路との境目は長い崖(崖線)となり、そこには湧水があちこちにあって、集まった水が根川となっている。残念ながらこの時は流れてくる水はなし。

根川が多摩川の堤防下を通り、六郷配水樋管から多摩川へ流れ込む

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奥が多摩川堤防、トンネル手前右側からも別水路(何かの排水路?)が合流している。

角度を変えて
別の水路が向こうから合流、右側からくるのが根川

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前置きがだいぶ長くなったので六郷用水に沿って出発する。

六郷用水は上に記した2つの小さな水路が多摩川へ合流する、そのすぐ下流側からはじまる。現在用水路は埋め立てられているとのことだが、地上には一般道に沿って幅の広い歩道があって、その部分に水路があったことが確実だ。

都道114号(武蔵野狛江線)の水神前交差点付近から水路跡をたどる。
広い歩道が水路の痕跡

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道路に沿ってすぐに西河原自然公園となる。

小さな公園だが、園内に水の流れが再現されている

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公園に隣接して民家園もあった。

都道114号田中橋交差点

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現在周辺に橋はないが、六郷用水に架かる橋があった名残り。

その先へ行くと水路跡は都道から分岐して右側の道路へ

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右側の緑は泉龍寺境内。

小田急狛江駅近くに出てくる

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正面は駅前のショッピングセンター。道路は右へカーブしているが、用水路跡は左側植え込みを通過して左方向へ。その部分は歩道になっている。

狛江市役所南側を通過してすぐに、緑地帯のある道路と合流する。
野川緑地公園地図看板と合流してくる道路

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ここはかつて野川が六郷用水と合流していた場所。

少し引いた位置から同じ地点

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左向こうから六郷用水が、右奥から野川がこちらへ流れて合流していた。先ほどの地図看板は合流点向こう側木の下。

現在の野川は昭和40年代頃に行われた流路変更により、北東側の世田谷区入間町や喜多見の方を流れているが、それまではもっと西側、このあたり狛江市中心部を通っていた。
そして野川の水の全量が六郷用水と合流していた、というか、野川の流路を六郷用水がそのまま利用した。

合流地点から下流側を見る

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六郷用水も旧野川もなくなっているので単に道路があるだけだが。高架は小田急線。

先へすすむと世田谷通り(都道3号)に合流する。

世田谷通りに出て一の橋交差点

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ここは道路向こう側植え込みが水路跡か。

二の橋交差点

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一の橋、二の橋もかつて六郷用水+野川に架かっていた橋の名前。現在橋はない。

二の橋交差点先で

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植え込み部分が水路跡。ここで水路跡は世田谷通りから右へ逸れて、緑道となる。狛江市と書かれた標識が立っているが、ここがちょうど狛江市と世田谷区の境界、向こうが世田谷区。

滝下橋緑道へ入る

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世田谷通りから分かれて細い道へ。向こうの公園は夏祭り準備中。

緑道の終点付近

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柵の向こうは現在の野川。

この地点は現緑道が六郷用水+旧野川の流れで、かつての入間川(いりまがわ)との合流点だった。流路変更が行われた野川は、昔よりも上流で入間川と合流するように変更され、新合流点以降も川の名称は”野川”となってここに至っている。

合流点の野川の対岸から滝下橋緑道側を見る

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緑道の下には暗渠があった。六郷用水も旧野川も廃止されているのだが、どこから暗渠が続いているのかは不明。
昔はこの下流を、六郷用水+野川+入間川の水が流れていたことになる。

少し下流へ、次大夫堀公園近くの野川の流れ(下流方向を向いて)

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右側の木立ちの中が世田谷区立次大夫堀公園。現在の野川の流路はまっすぐだが、昔は蛇行していて右側公園内が流路だった。その跡に沿って整備された公園。

上流側の公園入口

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かつての川の流れはこの歩道のような感じだったのだろう。

内部は野川からポンプアップした水がかつての水路を再現して流れている。
再現水路と水田

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昔の水路よりはだいぶ小さいと思う。水は公園内の水田にも導かれている。稲はすでに実って、穂が垂れていた。

 

次大夫堀公園内には民家園があり、少し覗かせてもらった。
六郷用水からは離れるがしばし。

世田谷区立の公園ということで区内にあった古民家が移築されている。
以下解説は園内の案内板から抜粋した。

旧谷岡家住宅表門

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1838(天保9)年建築、別棟だった穀倉と納屋をあわせてひとつの長屋門としたもの。

お休み処となっている旧城田家住宅主屋

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半農半商の家で店造り形式が多く取り入れられた建物。

旧安藤家住宅主屋および内倉(2枚)

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江戸時代後期建築の名主家で屋敷構えが整った明治中期の姿に復元されている。

旧加藤家住宅主屋(2枚)

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江戸時代後期に見られる典型的な農家の間取り形式を持つ住宅。

このほかにもいろいろな建物、火の見やぐらなんていうのもあっようだが、
元に戻って。

公園の再現された水路のうえを先へ進む

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この先で再び野川沿いの歩道に出て公園は終わる。

下流側の公園出口は、対岸で進んでいる東名高速と外環道のジャンクション建設工事現場の目前だった。
東名高速道路を横切る地点まで大規模な工事が続き、用水路跡がどうのという雰囲気ではなくなる。

ジャンクション工事エリアへ

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とりあえず、その1はここまで。
次へ続く。