散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

坂道探訪 山手線の内側縦断 その1 品川区大崎(南端)から港区赤坂

♪~まぁるい緑の山手線~は環状に走ってますが、実際は南北13km、東西6kmほどの楕円形。
線路の長さは約40㎞、時々一周歩いたりする人いますけど、それは別の機会に置いといて。
今回は坂道に出合いに行く散歩、山手線内側をその南端から北端まで歩いてみました。

まず山手線線路最南端となる場所へ向かいます。

大崎駅から

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山手線ではここが一番南に位置する駅ですが、線路の南端位置まで追いかけてスタートします。

 

山手通りを品川方面へ歩き、目黒川居木橋(いるきばし)手前で折れると高架線路が見えます。

山手線線路最南端地点付近

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山手線の外側に品川方面から横須賀線東海道新幹線線路がここまで並行、ついに離れて行くという地点です。

さらにこだわると、右側の建物の少し先が最南端ですが、私有地で入れません。街区表示は品川区大崎1丁目18。

ここからは線路に沿わず、最北端を目指します。

 

木橋を渡り、目黒川沿いに出ます。

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坂道探訪と言いながら、御殿山には上がらず、大崎駅方面へ少し戻ってから北上。

品川区北品川6丁目と東五反田3丁目境界あたり

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左側の傾斜上が御殿山の一部。足元の横断歩道を渡った先が小さな谷間、そこへ入ります。

 

御殿山と島津山の間へ

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谷間東側が御殿山、西側は旧島津公爵邸があった(現、清泉女子大学)ので島津山。
谷間の坂道を上がっていくと先は高輪台です。
この坂道に名称などはないみたいです。

 

坂道途中の脇道階段(これはおまけ)

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東側、方向的には品川プリンスホテルの裏側、へ出られる??

今日はこういうところへは入りません。

 

坂を上がり切ると第二京浜国道1号高輪台交差点に出ます。
高輪台交差点から国道1号都心方向

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国道逆方向へは相生坂を下って五反田に至ります。

 

交差点を渡ると港区白金台2丁目、細い道に入ります。細道が好きなもので…

小さいながら急な坂道がここにも

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見た目ごく普通の道ですが、左側に地図や案内が立っています。何だろ?

 

下れば次は上り坂。

桑原坂下から(港区白金台1丁目)

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先は八芳園。ここで案内標識のある坂道に出合いました。

歩くコースは大雑把にしか決めてなかったので、どの坂道に出合うかは行き当たりばったりです。

 

桑原坂標識

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くわばらざか 今里村の地名のひとつである。その起源について、特別の説は残ってない。

あれま、素っ気ない…(坂標識、案外こんなのが多い。)

 

坂の上は目黒通りとの日吉坂上交差点です。目黒通り側の坂道が日吉坂(ひよしざか)です。

日吉坂、坂上から

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標識省略しましたが

ひよしざか 能役者日吉喜兵衛が付近に住んだためと伝える。ほかに、ひよせ、ひとせ、ひとみなどと書く説もある。

 

日吉坂を下らず、脇道に逸れます。

聖心女子学院入口

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周辺は昨年(2019)、NHKブラタモリ白金編でロケをやってたあたり。わざわざ通ってます。

ここを真っ直ぐ行くと学校の門に突き当たります。

 

右方向へ行きます。100mほど先の洋館豪邸、
服部セイコー創業家である服部家の邸宅でした

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門の前から建物はほんのわずかしか見えません。

2014年にシンガポールの不動産デベロッパーが取得、邸宅は保存されるもののマンションを建てる計画があるとのことですが、いまのところ敷地内部に変化はないようです。

 

その邸宅の塀が続く先には三光坂

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向こうへ下り坂。

さんこうざか 本来は坂下専心寺にあった三葉の松にもとづき三鈷(さんこ仏具)坂だったというが、日月星の三光などともいう。

 

三光坂下から見上げて

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勾配標識の数字は10%

 

白金商店街あたりを歩いて四の橋(しのはし)に出ます。

四の橋、上は首都高速2号線

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橋の下は古川(渋谷川)。欄干に四之橋の由来。(交差点名は四の橋、橋は四之橋)

四之橋の由来
この橋は、高輪の葭見坂から麻布本村に向かう、古い街道すじにあったという伝承があるので、始めて架けられたのは、江戸時代よりも前のことであろう。江戸時代になって寛永七年(一六三〇)に、幕府の薬草栽培所が麻布側の坂の西に設けられると、橋は御薬園橋と呼ばれるようになった。その後、薬園に五代将軍綱吉の別荘富士見御殿(白金御殿ともいう)が建設されることになって古川を改修したとき、元禄十二年(一六九九)に、一之橋から四番目の橋なので、四之橋と名づけたとされている。
なお橋の西北角に土浦藩主土屋相模守の下屋敷があったために、相模殿橋と呼ばれることもあった。

 

橋を渡ると明治通りと交差。川は谷間の証拠、その先はまた上りになります。

すぐに薬園坂(やくえんざか)、南麻布に入りました。

薬園坂坂下から

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坂下に標識。その向こうの建物はイラン大使館、上に国旗がたなびいてます。

 

薬園坂標識

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やくえんざか 江戸時代前期、坂上の西部に幕府の御薬園(薬草栽培所・小石川植物園の前身)があった。なまって役人坂・役員坂と呼ぶ。

坂を上がらず横にスライド、正面の細道へ入ります。

 

隣りの坂道、絶江坂(ぜっこうざか)の下へ。

絶江坂下から

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ぜっこうざか 承応三年(一六五四)坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきた。初代和尚絶江が名僧で付近の地名から坂名に変った。

坂道は左に折れてその先も続いています。

薬園坂、絶江坂とも上がって先へ行くと麻布十番からの仙台坂上に接続しますが、端折ってしまいました。麻布、坂道の宝庫です。

 

坂下の道をまわり込み、麻布十番に出ます。

麻布十番商店街・きみちゃん像

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童謡「赤い靴」のモデルになった女の子の像です。

像が向いている方に延びる道は大黒坂、そういえば坂道でしたが油断して見逃しました。
それにしても麻布界隈には坂道が多いです。今回は通りすがりに見れたものだけ。

 

きみちゃん像のちょっと手前から

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像は右側、左が大黒坂ですが、どっちも写ってない…

正面へ歩き、北側へぬけます。

 

首都高速中央環状線の高架がせまる広い道に出ると永坂(ながさか)の下です。
永坂、坂の下からその先を見てるから平坦ですね…

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ながさか 麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいう。 長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていない。

後半、必要ない気もしますが…

 

振り向いて坂の途中を

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こちらを上がっていくと飯倉ですが、脇に逸れます。

 

永坂の一本西側の細道は於多福坂(おたふくざか)

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この坂は2段になってます。標識にも書かれてます。

おたふくざか 坂の傾斜が途中でいったんゆるやかになって、また下ったので、顔のまん中の低いお多福面のようだと名づけられた。

上に写っているのは下段の坂。

 

そこを上がると確かにゆるやかに、そして道路が1本横切っています。

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その先が上段の坂。石垣が立派です。

 

上段あがって振り返る

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坂のいちばん下は見えません。

ちなみに石垣、右側にはフィリピン大使館、左側は現在マンションがあります。

 

フィリピン大使館前

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前の道を背後に行くと鳥居坂教会。
付近の建物名などにはもっぱら「鳥居坂」が使われてます。おたふく坂より聞こえがいいですからね。(鳥居坂は於多福坂の西隣りの坂道)

 

教会の前で右折すると六本木に入って行きます。

六本木5丁目交差点

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奥が六本木交差点、左は閉鎖解体のため1階が鉄板で囲われて久しいロアビル。まだ一部テナントが営業してるみたいです。

 

逆側は東京タワー

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だんだん観光案内になってきた、また路地にはいって

通りすがりの丹波谷坂(たんばだにざか)(港区六本木3丁目)

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たんばだにざか 元和元年旗本岡部丹波守の屋敷ができ、坂下を丹波谷といった。明治初年この坂を開き、谷の名から坂の名称とした。

通ってないんですが、先の方結構急、切れ込んだ谷間に見えます。

 

道をクランク状に折れ曲がると

なだれ坂 坂上から

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坂下の標識

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なだれざか 流華・奈大礼・長華などと書いた。土崩れがあったためか。幸国(寺)坂、市兵衛坂の別名もあった。

記憶があいまいですが、この坂道、隣に六本木グランドタワーができたときに拡張されてますよね。

 

坂下で首都高速3号線と六本木通りに交差します。直進するとすぐアメリカ大使館宿舎敷地に突き当り、右折します。

その先宿舎敷地脇を上がる

南部坂(港区赤坂2丁目)

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坂下には石に坂名「南部坂」の文字が刻まれてます。また、16%の勾配道路標識がたっています。

坂上には木の標識があり、

江戸時代初期に南部家中屋敷があったためといい、「忠臣蔵」で有名である。のち険しいため難歩坂とも書いた。

坂は左上へ続いてます。

 

南部坂あたりから赤坂ですが、赤坂も坂だらけです。探訪は改めて、として飲食街の平らな道を行きます。

赤坂みすじ通りのお昼前

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ここでいったん食事休憩とします。

そういえば「赤坂」という坂道はないですよね。

 

足あと地図を最後に置きます。今回分は南の緑〇から中央付近黄色〇まで