散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

坂道探訪 小石川の坂道(1) 善光寺坂・六角坂・堀坂

文京区の坂道訪ね歩き、今回から小石川に入ります。1回目は伝通院(傳通院)の東側、春日通りと千川通りに挟まれた小石川2丁目、3丁目あたりから善光寺坂、六角坂、堤坂の3坂です。

 

善光寺坂〈ぜんこうじざか〉

伝通院の門前、直前で右に折れて進むとまず古く大きなムクノキが現れます。そのあたりが坂上、続いて道沿いに伝通院の塔頭(子院)であった慈眼院澤蔵司稲荷(じげんいんたくぞうすいなり)、月参堂善光寺が並んでいます。それらの前を通って善光寺の先に下る坂道が善光寺坂です。
善光寺山門前で道が2つに分かれ、回り込む道が古く、真っすぐ下りる道は後からつくられたとのことです。

まず坂上付近から

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道の先、横断歩道あたりが善光寺坂の坂上、その右に少し見えているのが伝通院山門です。山門はわりと最近建て替えられてます。

 

背後へ3~40m下ると大きなムクノキ(椋木)があります。

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木の生えている場所は江戸時代には伝通院境内でした。その後伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷の神木として現在に至るとのことです。

この木の横には幸田露伴の『小石川蝸牛邸』がありました。

坂下に向かって右側が車道、左側が歩道、道の真ん中に取り残された状態になっており、幹は何本ものワイヤーで支えられていました。

間近から

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ムクノキの先は澤蔵司稲荷

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こちら今回境内を省略してしまいましたが、本堂の奥にはうす暗い湧水のあるような窪地が存在し、ちょっと神秘的です。

 

坂道風景の方もちょっと省略ぎみになってました。

澤蔵司稲荷の石垣と坂上ムクノキの方向

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大体同じ位置から坂下方向

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坂道全体を通して傾斜はあまりきつくありませんが長さは250m近くあります。一気に駆け上がったりすれば坂道感を堪能できるかもしれません。

そのすぐ下に善光寺、朱の門があります。このお寺それほど大きくはありませんが、隣接して2カ所に山門があります。

澤蔵司稲荷の並びにある門

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こちらは坂下側から2つの門

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本堂

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坂下側にある門の脇に坂の解説標識があります。

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善光寺坂     小石川2丁目と3丁目の境
坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家菩提寺)の塔頭で、縁受院(えんじゅいん)と称した。明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院となった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋(むく)の老木がある。古来、この木には坂の北側にある稲荷に祀られている、澤蔵司(たくぞうす)の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院(じげんいん)の境内には礫川(れきせん)や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。
   ”一(ひと)しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川”はせを(芭蕉
また、この界隈には幸田露伴(1867~1947)・徳田秋声(1871~1943)や島木赤彦(1876~1926)、古泉千樫(1886~1927)ら文人歌人が住み活躍した。
  文京区教育委員会   平成13年3月

下に「文の京 都市景観賞 ふるさと景観賞 善光寺坂」というプレートも掲げられています。

 

坂下の分岐点から

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左、真っすぐ上るのは後から開いたといわれる坂道、右から善光寺の敷地を回り込むように上がっていくのが古い道です。山門前で合流しています。

坂下からこの背後へ進むと100mほどで千川通り交差点に出ます。千川通りはかつて「小石川(礫川)」の流路でした。

 

 

◆六角坂〈ろっかくざか〉

六角坂は善光寺坂の1本南側の通りで坂下付近では20mほどしか離れていません。現在は間に住宅がありますが、以前はお互い見通せたかもしれません。
最初同じ方向に進みますが六角坂は途中で90度方向を変え、さらに上がります。長さは120mほど、傾斜はそこそこ、それほどきつくありません。

坂下のアプローチ

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坂が本格的にはじまるのは左折するすぐ手前からですね。

 

折れ曲がり部、坂下方向から

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右側歩道に標識があります。

 

寄って上方向

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先はすぐ坂上です。

 

標識は歩道側に解説文があります。

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六角坂(ろっかくざか)
「六角坂は上餌差(かみえざし)町より伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより高家六角氏の屋敷の前なる坂故にかくいへり」(『改撰江戸志』)とある。
『江戸切絵図』〔万延2年(1861)の尾張屋清七板〕をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに、六角越前守の屋敷があったことがわかる。
餌差町は、慶長年間(1596~1615)、鷹狩りの鷹の餌となる小鳥を刺し捕らえることを司る「御餌差衆」の屋敷がおかれた所である。近くに歌人・島木赤彦が下宿し、『アララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。
東京都文京区教育委員会  昭和63年3月

島木アララギいろは館は富坂の解説文にもありました。

標識看板の向こう、猫の目が睨んでます。今年亡くなったジャーナリスト立花隆さんの事務所『猫ビル』だそうです。

 

標識付近から坂下方向

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坂上近くから

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ほぼ上から

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坂上近くには広い敷地のお屋敷があります。左側はその塀と石垣。

坂頂上付近で道路が〈横ずれ断層〉となり、変な白線模様となってました。

 

 

◆堀坂〈ほりざか〉

別名:宮内坂〈くないざか〉、源三坂〈げんぞうざか〉

六角坂の坂上をそのまま真っ直ぐ進んでも、坂下で突き当たる道を南へ進んでも堀坂に出ます。

堀坂坂下

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長さはおよそ100mと短いですが、坂下付近は傾斜がきついです。

 

上るにしたがってゆるくなっていきます

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坂の中ほどに坂道標識が立っています。

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堀坂(宮内坂・源三坂)  小石川二丁目3と21の間
「堀坂は中冨坂町の西より東の方。即ち餌差(えさし)町に下る坂をいふ。もと其の北側に堀内蔵助(ほりくらのすけ)(2300石)の邸ありしに因れり。今坂の中途に”ほりさか”と仮字(かなじ)にてしるしたる石標あり。此坂は従来宮内坂又は源三坂と唱へたるものにて。堀坂といへるは其後の称なりといふ」(『新撰東京名所図会』)
この場所の北側に旗本堀家の分家利直(後に利尚、通称宮内)の屋敷があったことから、この坂は別名「宮内坂」と名づけられた。また、当地の名主鎌田源三の名から「源三坂」ともいわれた。「堀坂」という名称は、文政(1818~1830)の頃、堀家が坂の修復をして「ほりさか」と刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。
坂下に”こんにゃくえんま”の伝説で名高い「源覚寺」がある。
文京区教育委員会    平成16年3月

 

標識の道路反対側、壁に少し埋め込まれる形で解説文にもあった石標がありました。

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現場では確認できなかったのですが、「ほりさ○」(○部分は不明)と刻まれているようです。

 

坂上から下方向

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道の途中で坂上、この背後六角坂の先へ伸びている道に突き当たります。

この左側に建設中〈といっても工事着工は平成25年2月〉のマンションが問題をひき起こしてかなりこじれているようです。着工前からたてられていた仮囲いも10年ほどそのままらしく、いかにも殺風景です。
ここは将来的に周囲が整えば再訪して見直したいと思います。

 

今回3つの坂道、地図では
6.善光寺坂、7.六角坂、8.堀坂

 

前回 春日から

miwa3k.hatenablog.jp

こちらへ続きます

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